オーラルヒストリー調査新義州

話者;M 氏(福岡市西区在住)
調査日:20031119
場所:九州大学韓国研究センター2階会議室
時間; 120016:00(およそ2時間)
記録者:大石和世・崔相振・新城道彦・山口華代
記録方法;MDによる音声録音、ビデオ撮影

当日、持参された資料:中学校同窓会、新義州の地図、写真数点(稚児姿、小学校卒業、女学校時代)→地図、写真はお預かりし複写保存をおこなう

在住地:平安北道新義州
履歴
昭和2年 福岡生まれ
昭和3年 父について新義州へ移住
昭和19年 新義州公立高等女学校卒業

家族構成
父・ 明治20年生まれ
母・ 明治27年生まれ

福岡にて双子で生まれ、実父の友人であった光野家に養女としてもらわれる。
王子製紙朝鮮工場の工場長から招かれ M 家は平北・新義州へ移住。王子製紙工場の社宅に居住。(後述)
 

○学校生活
通学
住んでいた王子製紙の社宅から小学校までは徒歩40分、女学校までは45分くらい。
中学校と女学校の生徒は、違う道を通って通学するという暗黙のルールがあった。

全校でバレーボールが盛んだった。
朝礼・終礼があり、毎日筆書きで日記をつけていた。

冬;学校は二重窓、スチームによる暖房で暖かい。
スチームの上にお弁当を並べあたためていた。クラスには2~3人の韓国人がいて、中には弁当にキムチをもってきたらニオイがした。「あ、誰か今日はキムチ持ってきた!」

クラスの韓国人は、たいがい父親が(社会的に)良い地位についている人たち。

韓国人専用の「国民なんとか小学校」がある
中学校・女学校も専用の学校があった。商業だけは日韓共学だった。

戦時中はネギ作り、ワラを使ってムシロを編むなど勤労奉仕

  新義州の町について
「新義州は日本人がつくった町」
新義州の対岸・丹東(安東)、川をはさんではるか対岸に見ることができる
鴨緑江に架かる橋を徒歩30分で渡ると着く

鴨緑江の税関(地図参照)ここから対岸の安東まで船が出ていた。
冬は川の水が結氷して、トラックで行くことができるし、歩いても渡れるので密輸が多かった。

川から氷を切り取り保管して、夏に冷蔵庫(の保冷剤として)使う
冬は鴨緑江でスケートをしていた(学校が集まってのスケート大会?)
→(質問;スケート大会などで朝鮮と日本人学校の交流はあったのか?)
「あったと思いますよ。私はちょっとおぼえていないけど。交流はよくしていました。」

鴨緑江上流に水豊(スイホウ)ダムが建設されてからは、結氷しなくなった。

上流、豆満江の辺の森林から木材を筏で運んでいた。それが鴨緑江の風景の一つ。

大水がでて上流から家が流れてきたこともあった。
土手に建てられていた家は水につかった。

(スケートについては他にも)
学校の校庭に水を汲み上げておくと、一晩でスケート場ができた。体操の時間はスケートをおこなっていた。

お金持ちの日本人の家には朝鮮人がいた
1516歳のお姉ちゃん、「オマニ」と呼んでいたおばさん
「皆わりと可愛がっていたから。終戦の時、その時お世話になったといろいろ持ってきてくれた」


○環境
気温;気温は寒いときで零下17~18℃くらい。「今日は寒い」と感じる日は零下20℃。
降雪;余り深い雪ではないが、雪がとけないので白と黒の層状になっていた。
舗装していない道は全部凍っている。
「冗談半分でスケートはいていったら学校速いかもしれん・・・」
登校時のスタイル;
耳あてをした上から防寒帽子をかぶりマスクをして(鼻が凍るから)目だけを出して登校。
靴下は3枚を重ね、その間に真綿ととうがらしを入れていた。(そうしなければしもやけ、ひいては凍傷になってしまう。)
それでも学校に着くと、まゆ毛やまつげに真っ白い霜ができた。




○食事(37:00~)
食事は日本の御飯。材料は新義州近辺の農家でできた野菜など
味噌;「売っていんのだと思う。韓国もお味噌作るでしょ」
キムチ;
「キムチがね、日本の人も味を覚えたら、皆ね、それこそオモニに言って、うちの庭にもこんな(キムチ貯蔵用の)カメにもしっかり漬けていたから、私はキムチを毎朝、そして
埋めているから上になんかふたをのせて、朝開けるでしょ、凍ってるんですよね、冬は。その凍ったのを、熱いご飯で食べるのが、またこれおいしい(笑)」

(日本人も弁当にもキムチを持ってきていたのかという質問に対して)
「なかにはいれてくる人もいましたよ。で、今みたいにおかずいっぱい無いでしょう、昔は。鮭、それからメンタイ。メンタイは樽で買いよったです。」
昔はメンタイを生で食べず焼いて食べていた。

梅干し・納豆は自宅で作っていた
日本酒・マッカリ
魚ではスズキ・ヒラメ
鴨緑江で獲れる白魚
「しらうおのほまれ干し」はおいしかった。
旅行で訪問した際に天麩羅を食べ当時を懐かしみ「ほまれ干し」を買い求めるも無かった。
 →【参考】「金城軒」http://www.kinjoken.com/index.html
「昭和9年には、金城軒の誠実さが自然に伝わり、従業員も20名に増加する。更に人の和は海外にも拡がり、旧満州で加工した白魚の[ほまれ干し]が大ヒットとなる。これもひとえに金城軒の先見性と人の和の産物といえる。」(「金城軒の歴史」より抜粋)

○王子製紙社宅について
日本人社宅・朝鮮人社宅が分かれており、それぞれに職員・工員の区別があった。

光野氏による間取り
外観;瓦葺きの屋根(瓦は直線的で日本式と思われる)・煉瓦造り
内部;八畳・六畳の畳の間、温突(オンドル)部屋、炊事場、風呂場、庭
   竃で使用した火を温突に利用していた
各家庭に電話が設置されていた

父は配給所に勤務
テニスコート
とうもろこし
養鶏場
貯木場;川を利用し運ばれてきた木材を置いておく
王子神社;9月15日はお祭り、野外映画を寒い思いをして観た記憶

温泉;


○乗り物
人力車;来客時や遠出する際に使用
「マメタク」;小さい自動車、後ろに2~3人乗る


○町の様子(持参された地図を見ながら説明)
公会堂;発表会
寺→西本願寺;お稚児さんの写真

「日本とひとつも変わらない生活をしていました」(50:00頃)
日本各地から来ていた
博多・新潟の雑煮
東北弁など聞き慣れている。
韓国語はほとんど使わない。学校でも使わない。学校の韓国人も日本語を使う。

平安神社;毎年5月にお祭りがある。周囲にはなぜか遊郭があった。


○卒業後の進路
昭和19年卒業 王子製紙に入社
初任給は60円。辞職するまで600円を貯める。→引き揚げ後にすべて使い果たす
当時の結納金が100円。

  旅行
修学旅行は上の学年まで内地・京都に行っていたが、自分たちは戦争で中止となった。

五龍背(ごりゅうはい)
“娘娘祭り”(ニャンニャンまつり)
【参考】

古川高麗雄
新義州中学校卒業・芥川賞作家
第63回(昭和45年上半期)受賞作『プレオー8の夜明け』

孫基禎(ソン・ギジョン)
現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)平安北道新義州生まれ

日本植民統治下の当時の朝鮮から「日本代表」として出場した1936年ベルリン五輪男子マラソン金メダリスト

コメント

このブログの人気の投稿

明治15年の外交官俸給は、件名一等属副田節領事ニ昇任朝鮮国在留被命ノ件 階層 国立公文書館太政官・内閣関係公文録公文録・明治十五年・第百九十七巻・官吏進退(外務省) レファレンスコード A01100238100 所蔵館における請求番号 公03405100(国立公文書館) 言語 日本語 作成者名称 外務卿 井上馨 資料作成年月日 明治15年05月31日 規模 5 組織歴/履歴(日本語) 太政官//内閣 内容 親展 朝鮮国京城公使館在勤外務一等属副田節儀領事ニ被任釜山港在留被命七等官相当年俸二千四百六十円

朝鮮半島に設置された学校同窓会名簿

釜山の韓語学所