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韓日ワークショップ「東アジアにおける移住民問題と国籍」の思い出

このワークショップの思い出は、 ヘレン李(延世大学国際学科)先生からの発言に驚いたこと。 ⇒先生曰く「1945年8月15日以降、日本人全員が朝鮮半島から即刻立ち去って欲しかった」と発言。 ⇒私の報告:朝鮮半島に残らざるを得なかった芙蓉会の方々に言及した点 ********** 韓日ワークショップ「東アジアにおける移住民問題と国籍」 日時: 2009 年 5 月 2 日 ( 土 )  午前 10 時~午後 6 時 場所:ソウル大学奎章閣韓国学研究室 主催:ソウル大学社会学科 / 貴志科研 (日本学術振興会科学研究費補助金・基盤 A 「 17 - 20 世紀の東アジアにおける「外国人」の法的地位に関する総合的研究、平成 18 年度~ 21 年度) 歓迎辞:鄭根埴(ソウル大学社会学科) 基調報告: 貴志俊彦 (神奈川大学)「東アジア『外国人プロジェクト』の成果と課題」 午前セッション 司会:金鳳珍(北九州市立大学) 発表:朴明圭(ソウル大学社会学科)「ディアスポラと民族正体性」 発表:松原孝俊(九州大学)「『敗戦国』ニッポンに帰りたくなかった日本人」 午後セッション 司会: 孫安石 (神奈川大学) 発表:李志英(ソウル大学東洋史学科)「 19 世紀末朝鮮人の間島移住とその地位-越墾朝鮮人に対する清朝の政策を中心に」 発表:朴径泰(聖公会大学社会学科)「韓国華僑の法的社会的地位:過去と現在」 発表:川島真(東京大学)「日本の台湾領有と在シャム華人の動向-誰が台湾人 / 日本人なのか」 発表:陳来幸(兵庫県立大学)「北東アジアにおける華僑・華人コミュニティ-錯綜する自己認識と相互認識」 討論:朴光鉉(東国大学国文科)、ヘレン李(延世大学国際学科)、李根寛(ソウル大学法大)ほか 2 名

オーラルヒストリー調査 リスト(一部)

提供情報 提供資料の内容 母方の祖父兄弟が戦前より満鉄に勤務 その関係で叔母夫婦は朝鮮に10数年住む(叔母は90歳近く・大刀洗町に健在)   昭和12年忠州小学校卒業 終戦間際も朝鮮で仕事 『卒業記念 忠州公立尋常高等小学校』(昭和11年度),『鶏鳴』13・15・18号(忠州小学校同窓会誌) 1923年黄海道シンセン郡南部面婦貞里生まれ S10父他界,S11母他界 S13年兄の召集を期に福岡県北野町に帰国   父・KHは農商務省・朝鮮総督府・朝鮮土地改良株式会社・専売局等に勤務 父の資料(辞令・履歴書・戸籍等) 工事現場写真 『 浿 江』24・34号(平壌第一中学校同窓会) 祖父・OH (京城新聞主筆・政務調査委員) 「朝鮮より御報告」,「報告書」(京城市民大会上京委員),「宣言書(案)」(大正15年甲子倶楽部),[草案],履歴書,「朝鮮より報告書補遺」,「陳情要旨」,など 大邱近郊生まれ 大邱商業学校卒,日本窒素に1年半勤務し終戦を迎える 記録メモ,大邱田舎暮らしの習慣等の記憶あり   九州在住のおば(100歳程度)紹介,聞き取り調査の可否を問い合わせるとのこと   大正4年木浦生まれ 木浦高等女学校14回生 父は木浦の初代民団長,木浦商工会議所会頭なども務める,大正4年藍綬褒章 『わか葉』17号(木浦高等女学校同窓会誌、1998年)コピー 大邱府東門町生まれ 終戦当時は小学3年生 父の資料が存在、現在も大邱小同窓会を開催   釜山の牧師朴鐘進氏よりの依頼で馬山城湖公立国民学校時の担任・の消息を捜す,日本テレビに依頼   父・TYは戦前寧辺にて鉱山を経営 家族3人で引揚(北部朝鮮→京城→釜山→S21博多港下船) 「博多港引揚資料展」パンフレット(福岡市総合図書館、2002年) 大正3年(1914)生まれ,終戦まで木浦に在住 明治34年祖父が父を連れ渡韓(木浦)  

オーラルヒストリー調査 順天

調査日: 2004 年 4 月 21 日(水) 時間: 11:00 ~ 13:00 在住地:順天 場所:N 氏自宅 記録方法: DVD ビデオによる撮影、 MD による音声記録 【基本情報】 氏名:N 生年月日:昭和 3 年         福岡県生まれ 昭和?年                             青木尋常高等小学校卒業 昭和?年                             久留米の経理学校 昭和 17 年 12 月                  父亡くなる(享年 44 歳) 昭和 18 年 3 月 28 日           朝鮮へ渡航 昭和 20 年 10 月 6 日           引き揚げ 【家族構成】   【朝鮮へ渡った経緯】 小学校を卒業したあと中学校には進学せずに久留米の経理学校に通う。当時は就職が可能であった。そこで 1 年間、経理を学ぶ。  当時は戦地に人を送っており人材が不足したようで、鉄道会社の人が人員を募集するために直接学校を訪れた。校長先生から「(朝鮮に)行ったらどうか?」と薦められたこともあって就職を決意する。 父親が昭和 17 年 12 月に亡くなって 4 ヶ月余りであったが、母親と妹を残して、昭和 18 年 3 月 28 日に単身で朝鮮へ渡る。(当時 15 歳、今の中学校 3 年生くらい) 【仕事内容など】 はじめ、赴任地は東光州駅と聞かされ現地に向っていたが、その途中で順天駅に配属されることになった。そこで「計算係」として管区内の決算など経理の仕事を担当した。 仕事は駅員に支払う給料などの管理。 10 日頃に現場からあがってくる給料、残業代の請求を、台帳とつきあわせて伝票を切り、支払う給料を用意する。 21 日には「出張払い」としてそれらの給料をもって汽車に乗り各駅で代表の人に配っていた。 そのほか経理だけではなく「駅の検査」(?)など、庶務全般をこなしていた。 【住居】 はじめは官舎(順天 邑 ( ゆう ) 昭和町)に 鉄心 ( てっしん ) 寮( 稠谷里 ( ちょうこくり ) 101 番地)に移る。 寮には日本人のみしか住んでいなかった。 食事は賄い

オーラルヒストリー調査 木浦

話者 N 氏 本籍長崎 →木浦の店、自宅の住所 家族 1885 年 父宗吉 生 1894-95  日清戦争 1900 年ごろ 父開成?中学入学 1901 年 祖父、父渡韓(中上氏作成年譜より)農海産物輸出業  →渡韓したのは 1895 年か 1901 年か? 1903 年 父 18 才 通訳官(年譜) 1907 年 父 22 才、退官(年譜) このころ恐慌がおこる。 1908 年 父 23 才 材木の貿易商(年譜) 1910 年ごろ 祖父没 1914 年 生 1924 年 妻生 1920 年ごろ 木浦公立尋常高等小学校入学 (→何年) 192 ?年 木浦公立山手小学校卒業 (→何年) 1927 年 父 42 才 材木商(年譜): 釜山商業入試に失敗。浪人? 1929 木浦商業入学 (話者によると一学期の終わりごろ?)光州学生運動がおこる。 1934 年 この頃父事業に失敗。夜逃げ。商業卒業。建築材料輸入業をはじめる。 1941 年 父 56 才没(年譜) 1944 年ごろ  30 歳で家を継ぐ。家族 7 人。 →家族構成 1945 年 長男誕生  →何年に結婚 1945 年 9 月末か 10 月初 引き揚げ 昔から慶尚道と全羅道は悪口を言いあってた。 わたしが、ソウルに行って韓国語をしゃべると友人が韓国語はしゃべるなと言う。おまえのは全羅南道訛りがあるからと。それなら金大中(きんだいちゅう)はどうか?と言い返す。かれは私の後輩。 今、二十年ぶりぐらいで韓国語を使った。 もともと日本人ってやつは、韓国語を何十年といても韓国語を習おうとしなかった。あたまから 偉そうにして。 木浦商業は内鮮共学だった。 일본놈 と 조선사람 が 一緒 に 勉強 する 。 半分が 한국사람 。感心したのは外国語で外国語を習う。つまり、日本語で英語を習う。実に頭が良い。クラスで一番、二番は韓国人。 木浦商業の10年後輩が、金大中(きんだいちゅう)。私の家から、1キロぐらいのところに、金大中の家があった。 私は「韓国語」となかなか言えない。北朝鮮のことではない。昔は「朝鮮語」と言っていた。「朝鮮語」といったときは、「韓国語」と翻訳して聞いてください。

オーラルヒストリー調査 平壌

話者 I 氏 女性 大正 4 年7月 30 日生まれ 福岡市 聞き手 (息子)、(孫) 両親は福島出身。その頃は「海外雄飛」といって、朝鮮、満州にわたる人が多かった。 父は私が小さい時に亡くなった。父が初めに朝鮮で行ったのは、大泉洞(たいせんどう)だった。寺洞(平安南洞大同郡寺洞里カ)という海軍の燃料庁があったところから少し入った所。寺洞というのは質のいい無煙炭が産出する所。大泉洞では牛を貸して、田畑を持っていた。小作に出していた。焼酎づくり。背の丈より高い焼酎の大きな瓶が6個ぐらいあった。ものごころついた時には、もう焼酎はつくっていなかった。父は面倒見がよく、5、6人の居候を抱えていた。休みには狩猟にでかけ雉子、ウサギをとってきていた。朝御飯前に馬にのって自分の土地を一巡りして来るのが日課だったと母がいっていた。家の作り。南に面して母屋があった。母屋の台所が東側にあり、台所の隣にオンドルがあった。母屋に応接間があった。母屋に接して、西向きに使用人の住む所があった。その建物の南側、母屋に接して、使用人の台所があった。穀物倉庫があった。上納米 を牛が持ってきた。牛を繋ぐ所。風呂場、門、燃料入れ、アンズの木、があった。門の外には、りんごの木、自家用の野菜畑があった。 門の梁に子どもの為にブランコがつってあった。玄関を出て、外に、りんごの木が植わっていた。りんごの木には櫓が組んであってその下で遊んだ。友だちは、7人ぐらいの日本人の子ども。子どもの親は、お菓子屋さん、焼酎やさん、雑貨屋さんをしていた。地主は我が家だけだった。現地のひと相手に商売をしていた。朝鮮語はべらべら。使用人の子どもとも遊んでいたから。その土地のなまりで覚えていた。遊びは大概、日本人の友だちが、私の家に来て、遊んだ。おしゃべり、リンゴをちぎったり、お手玉。お手玉を 4 個までできた。「おひとつ、おひとつ、おさらい」といって遊んだ。 小学校は寺洞にあった。白れんが造り二階建て。冬はスチームが入った。海軍が建てた。寺洞には海軍関係の人達が多く住んでいた。高等官舎、判任官舎、雇員官舎、長屋と 階級によって宿舎が違った。高等官舎は、ものすごく高級な建物、内装もよかった。雇員官舎は二棟続き。雇員官舎もいい建物だった。雇員官舎は、木造の日本家屋。一般の炭坑労働者は長屋。炭坑労働者は、