オーラルヒストリー調査 平壌

話者 I 氏
女性 大正4年7月30日生まれ
福岡市
聞き手 (息子)、(孫)

両親は福島出身。その頃は「海外雄飛」といって、朝鮮、満州にわたる人が多かった。
父は私が小さい時に亡くなった。父が初めに朝鮮で行ったのは、大泉洞(たいせんどう)だった。寺洞(平安南洞大同郡寺洞里カ)という海軍の燃料庁があったところから少し入った所。寺洞というのは質のいい無煙炭が産出する所。大泉洞では牛を貸して、田畑を持っていた。小作に出していた。焼酎づくり。背の丈より高い焼酎の大きな瓶が6個ぐらいあった。ものごころついた時には、もう焼酎はつくっていなかった。父は面倒見がよく、5、6人の居候を抱えていた。休みには狩猟にでかけ雉子、ウサギをとってきていた。朝御飯前に馬にのって自分の土地を一巡りして来るのが日課だったと母がいっていた。家の作り。南に面して母屋があった。母屋の台所が東側にあり、台所の隣にオンドルがあった。母屋に応接間があった。母屋に接して、西向きに使用人の住む所があった。その建物の南側、母屋に接して、使用人の台所があった。穀物倉庫があった。上納米
を牛が持ってきた。牛を繋ぐ所。風呂場、門、燃料入れ、アンズの木、があった。門の外には、りんごの木、自家用の野菜畑があった。 門の梁に子どもの為にブランコがつってあった。玄関を出て、外に、りんごの木が植わっていた。りんごの木には櫓が組んであってその下で遊んだ。友だちは、7人ぐらいの日本人の子ども。子どもの親は、お菓子屋さん、焼酎やさん、雑貨屋さんをしていた。地主は我が家だけだった。現地のひと相手に商売をしていた。朝鮮語はべらべら。使用人の子どもとも遊んでいたから。その土地のなまりで覚えていた。遊びは大概、日本人の友だちが、私の家に来て、遊んだ。おしゃべり、リンゴをちぎったり、お手玉。お手玉を4個までできた。「おひとつ、おひとつ、おさらい」といって遊んだ。
小学校は寺洞にあった。白れんが造り二階建て。冬はスチームが入った。海軍が建てた。寺洞には海軍関係の人達が多く住んでいた。高等官舎、判任官舎、雇員官舎、長屋と 階級によって宿舎が違った。高等官舎は、ものすごく高級な建物、内装もよかった。雇員官舎は二棟続き。雇員官舎もいい建物だった。雇員官舎は、木造の日本家屋。一般の炭坑労働者は長屋。炭坑労働者は、日本人、現地の人びと両方が住んでいた。大概オンドルがあった。高等官舎から雇員官舎まではオンドルがあったかどうか分からない。スチームだったかも。どの建物の屋根も反っていなかった。瓦葺き。大舟洞に住んでいた日本人たちは、寺洞の炭坑が掘り進められたために、立ち退かなければならなかった。そのため、幼友達はみな町の方に転校していった。しかし家は大きかったので後始末に時間が係るということで、更に奥地に入ってバラックを立てて女学校二年生の一学期ぐらいまで住んでいた。日本人は全く住んでいなかった。
平壌高等女学校で検定試験を受け資格を受け、5年で学校を卒業して直ぐ勤めた。満17歳で卒業。早く独立したいと思っていた。田舎の道を通った。寂しくて恐かった。通学は二時間ぐらいかかった。大舟洞から寺洞まで30分ぐらい山越えして歩いて、寺洞から平壌まで30分かけて郊外電車に乗り、平壌の郵便局前という郊外電車の終着駅でおり、それから市電に乗り換えて、10分程で女学校前で降りた。山越えが恐くかった。女学校のときは、コーラス部に入っていた。年に一回朝鮮人の女学校と合同で公会堂で音楽会があった。そのための練習で帰りが遅くなり、真っ暗になる。ひょろひょろとした松が生えていて、それが狼のように見えた。自分の足音が恐かった。こんな所から早く賑やかな所に越したいと思っていた。

日本にいた主人は戦時中陸軍仕官学校を受けた。しかし腺病質で体を鍛えなさいと言われて落とされた。また高等師範を受けたがだめだった。それで京城の師範学校の演習課?というところを受けて受かった。演習課は短い期間で先生になる課程に進んだ。それから北鮮の平壌に赴任した。主人は4月に卒業し、兵役で半年間兵役に補して伍長になって学校の先生になった。当時、先生になるには兵役につく義務があった。 私がいた日本人の中和国民学校と、同じ郡の朝鮮人の中和普通学校に赴任してきた。赴任の挨拶に来た時にみそめられた。職場結婚。私の友人は日本人同士で結婚した。お見合いと、恋愛半々。

「中和会」という同窓会が今もある。 郡の所在地に一つだけ日本人の小学校があった。郡には公共的には、郡庁の役人、警察、駅、郵便局などの機関が全部ある。それで日本人がいた。リンゴ園を経営する民間の人もいた。先生たちは高位高官の人の子をえこひいきした。私はぜんぜん依怙贔屓はしなかった。中和会では、教え子たちが私が赴任してから学校が楽しくなったと言ってくれる。複式の小さい学校。全校で50人足らず。大人は、校長、こずかいさんと私、三人だけ。私が1、34年を受け持ち、校長は、2、5、6年、高等科を受け持った。校長は唱歌が出来ないので、修身と唱歌は交換授業をした。複式学級だったので、前と後ろに黒板があった。国民学校で二年足らず、6月に赴任して、翌々年の4月に主人のいる普通学校にいって一年いて、20歳のときに結婚した。

敗戦時、主人が徳龍国民学校の校長をしていた。4人子どもがいた。6人家族、無医村の田舎。日本人は我が家だけ。主人が校長先生をしていたとき、朝鮮の方からいろいろ助けてもらった。
無医村に住んでいたので、海軍医官の築田多吉の『家庭に於ける実際的看護の秘訣』を参考に、民間療法を必死で勉強した。「赤本」と呼んでいる。子供の危ない病気で疫痢にかかったら、浣腸して便を出す。ハヤテ=ジフテリアは、応急手当でニンニクをすりつぶして消毒し、医者に連れて行くとか。次男が桑の実を食べすぎて、腹がぱんぱんに膨れて、うわ言をいって死にそうになった。それでいそいで浣腸して尿を出した。すると熱もひいて直った。主人が赤痢になった。主人が徴用された部落の青年を平壌(へいじょう)まで連れて行く役目を負っていた。帰ってきて下着を見たら粘液に血が混じった汚れが付いていた。赤痢だった。子供たちをクレゾールで消毒。学校から石灰を取ってきてトイレに真っ白に振りかけた。
主人には、「赤本」に書いてある「お臍の塩灸」をした。お塩を今の500円玉ぐらいの大きさに高く丸く盛る。大豆粒ぐらいのもぐさを5,60すえる。いくつかすえているとお臍の周りがポーっと赤くなる。すると休んで、またほとぼりが冷めたらまたすえるを繰り返し、5,60すえつづける。三日間続けた。その間、ゲンノショウコをどんどん飲ませた。下痢には水分。ゲンノショウコは効く。
朝鮮人から頼まれて、27歳の時に産婆さんをしたことも。部下の奥さんが陣痛が起こった。無医村なので自分のために一式道具を持っていたし、やり方も覚えていた。それで頼まれて産婆をやったが、とても緊張した。安産でよかった。へその緒が切りにくかった。その晩、奥さんの両親がこられてものすごく感謝された。今考えてもよくやったと思う。
引き揚げの時に、部落の女の子を助けたことも。息子を浣腸して治したのを朝鮮の人が見ていたので、お医者さんと思われた。女の子は肺炎の末期だった。唇が真っ青で鼻で呼吸していた。「赤本」で覚えたようにジャガイモを摩り下ろして、メリケン粉を加えてパスタにして伸ばして、上にガーゼをはって暖めて肌にシップした。一晩で熱が下がって助かった。蕎麦をつくるからと朝鮮の人からよく呼ばれた。前任の奥さんはもらった食べ物は汚いといって捨てていたらしい。私はそんなことはしない、言葉もできた。それで舟橋里の母の実家に二台馬車をよこしてもらって、それにつめるだけ積んでわかれるときは、みんな運動場に集まってくれて、また来られる日が来たらぜひ来てくださいと、いろんなものを餞別にもらった。もち米を粉にしたもの、飴、いり豆など。涙ながらにわかれた。
戦争に負けてひどい目に合わされた方もいたらしいが、私はよくしてもらった。
実家では兄がセメント瓦の工場経営を始めていた。陸軍と鉄道にセメント瓦を納めていた。
使用人は大勢いた。瓦職人、馬車に乗る人がいた。馬車は2台。
工場だったので、家が大きかった。20畳以上の板張りの広間があった。
終戦で家族6人、舟橋里にある母一人が守っている実家に引き上げた。その実家では兄が出征中だった。

台所に大きな圧力釜があった。満州からの引揚者を大勢面倒見た。工場の倉庫に沢山住んでいた。彼らに食べさせるため、家にあった大釜で飯を炊いた。女性はソ連兵にやられないようにまるぼうずにしていた。朝鮮の保安隊が家を接収にきた。妊娠中の私は、大きなお腹を抱えて応対した。妊娠中ということで、同情され接収を諦めてもらった。
近くには接収をされた日本人の家があった。そこにはソ連兵の将校たちが住んでおり、かれらは我が家に来て、我が家の広間で歌ったりダンスをしたりした。その家は、広間を利用して、戦時中は小学校の分校になったこともあった。陸軍の医務室になったこともあった。夫も将校の家に遊びにいった。肉やパンを土産に持って来た。夜中に陣痛が来たが、外出禁止で産婆さんを呼びにいけない。母に付き添ってもらって出産。後産が出ず、明くる朝、産婆さんにお腹を揉んでもらってやっと後産が出た。
子どもは4KGで大きかった。食糧難の時代だったが周りが気を使ってくれたため、食べられた。お乳も沢山でた。母の所にいたので、私たちは避難民ではないのに、避難民扱いをされて。襟の所からDDTを入れられたりしてで消毒され嫌だった。
日本に引き上げたのは、戦争が終わって一年後ぐらい。北に行くほど引揚げは大変だったと聞いている。引揚げは、日本人会の指示を待つことになっていた。直ぐにでも帰れるような噂だったので、柳行李などに衣服などを投げ売りした。しかし、行商、雑益をしながら冬を越した。しかし、夏になり世話役の日本人会の幹部は一般の日本人を裏切って自分達だけ密かに脱出した。それで、8月に一般民は団体をつくって、ソ連と保安隊のヤミのトラックを雇い、闇にまぎれて脱出した。料金は38度線までの約束で払ったが、半分まで往かない内にトラックから降ろされた。野宿しながら38度線まで歩いていった。しかし夫の足にはれものが出来、高熱で歩けなくなった。それでもやって牛車を一台買って病人、幼い子どもを載せた。小休止になると田んぼに
走って夫の悪血吸わせるためにヒルを捕まえにいった。シンケイ(新渓カ)の橋の所で、女学校のクラスメイトのお父さんにあった。医者だったので傷を切開して膿を出してもらった。38度線の山越えのとき、生後9ヶ月の息子を背負い、夫に肩を貸して山越え。朝鮮人のチゲに息子を背負ってもらった。朝鮮人の足が早いので、息子がさらわれたら大変と、それを追って必死で追いかけた。料金は山越えの約束で払ったのに、途中でチゲをおいてしまった。それでチゲを頼んだものと相談していると、なにをぐずぐずしているかと攻められたので、みなはこれだけはと無理して持ってきたものを全部捨ててしまった。未練でここまで持ってきて、他人の決断で手放してしまったのだが、不思議に心までせいせいしてしまった。
38度線を越えてテント村に入った。荒むしろ一枚に三人。畳一枚よりちょっと広いぐらい。一つのテントに荒むしろが三枚ぐらいはってあった。人がびっしりいた。ここに一週間留め置かれた。朝晩とうもろこしを茹でたものを朝晩一杯づつ。いっつもひもじかった。それから貨車にのせられて釜山にいく。アメリカ軍がいて、ポークビーンズを与えられた。それと麦。丸麦の消化が悪く下痢する人が多かった。
引揚げの舟の中では乾パンを朝晩二回、ほんのひとにぎり与えられた。一日中お腹がすいていた。日本の近くまで来たのに、病人が出たらしくなかなか日本に上陸できなかった。舟で検便をされた。肛門に差し込まれていやだった。佐世保についた。日本についたら、DDTを振り掛けられてさながら汚物扱い。佐世保の二階建ての建物に一泊して一人に軍服を一着ずつ与えられた。さつまいもを支給されたような記憶がある。それから、団体は解散してそれぞれ自分の故郷に帰った。九月に着いた。引揚げに約一ヶ月かかった。
浮羽郡にある夫の故郷にかえった。ここで一生分の苦労をした。農家だった。農業をしたことがなかった。初めは家事だけさせられた。しかし、稲の取り入れが始まると、皆は手際よく稲を刈るが、私は出来ない。外の人は、手甲、脚絆、タオル、頭巾で装備していたが、私はタオル一枚、稲のイガイガがまとわりついた。 足ははだし。仕事ができないので家の者が聞こえよがしに悪口をいったりした。子どもはほったらかし。娘が毎晩おねしょをする。姑が厳しくしつけなさい、ふとん、畳が腐るとどなった。しかし、娘がかまってもらえないので、欲求不満でおねしょをするのが分かっているので叱れなかった。
「歳月」という本を喜寿77歳のときに記念に思い出の本をつくった。これに朝鮮半島にいたときの思い出を書いた。『歳月』は平成2年に執筆。満75歳の時。子供たちに私の越し方を書いた。
女学校の同窓会は「青柳会」。はじめは40名ぐらい出席したが、今は付き添いつきで12名ぐらい。当人は6,7名。去年は来年の約束はなかった。これまでは次の年の約束を必ずしていたが。

「中和会」は今も続いている。会員は70歳から84,5歳。直接の教え子はもういない。みなさん今でも「先生」と言ってくれる。

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