オーラルヒストリー調査 木浦

話者 N 氏
本籍長崎
→木浦の店、自宅の住所

家族


1885年 父宗吉 生
1894-95 日清戦争
1900年ごろ 父開成?中学入学
1901年 祖父、父渡韓(中上氏作成年譜より)農海産物輸出業 →渡韓したのは1895年か1901年か?
1903年 父18才 通訳官(年譜)
1907年 父22才、退官(年譜) このころ恐慌がおこる。
1908年 父23才 材木の貿易商(年譜)
1910年ごろ 祖父没
1914年 生
1924年 妻生
1920年ごろ 木浦公立尋常高等小学校入学(→何年)
192?年 木浦公立山手小学校卒業(→何年)
1927年 父42才 材木商(年譜):釜山商業入試に失敗。浪人?
1929木浦商業入学 (話者によると一学期の終わりごろ?)光州学生運動がおこる。
1934年 この頃父事業に失敗。夜逃げ。商業卒業。建築材料輸入業をはじめる。
1941年 父56才没(年譜)
1944年ごろ 30歳で家を継ぐ。家族7人。→家族構成
1945年 長男誕生 →何年に結婚
19459月末か10月初 引き揚げ



昔から慶尚道と全羅道は悪口を言いあってた。
わたしが、ソウルに行って韓国語をしゃべると友人が韓国語はしゃべるなと言う。おまえのは全羅南道訛りがあるからと。それなら金大中(きんだいちゅう)はどうか?と言い返す。かれは私の後輩。
今、二十年ぶりぐらいで韓国語を使った。
もともと日本人ってやつは、韓国語を何十年といても韓国語を習おうとしなかった。あたまから偉そうにして。木浦商業は内鮮共学だった。일본놈 조선사람 一緒勉強する半分が한국사람。感心したのは外国語で外国語を習う。つまり、日本語で英語を習う。実に頭が良い。クラスで一番、二番は韓国人。
木浦商業の10年後輩が、金大中(きんだいちゅう)。私の家から、1キロぐらいのところに、金大中の家があった。
私は「韓国語」となかなか言えない。北朝鮮のことではない。昔は「朝鮮語」と言っていた。「朝鮮語」といったときは、「韓国語」と翻訳して聞いてください。
学生運動の光州事件。あの時は、商業の一年のとき。(光州学生運動1929年~30年)→何年の何月の出来事?
韓国語わからなくて、一学期の終わりごろか?列車通学の高等普通(光州高等普通学校)と光州高等学校(光州中学校か?)の男の生徒同士がけんかをした。韓国人が全部ストライキをやった。韓国人と内地人が朝礼のとき並んでいるのに、韓国人の5年生が、手をあげて韓国語で二言三言なんか言った。すると朝礼の列から韓国人が抜けて出て行った。わたしも知らんで出て行った。すると友達が「お前はついてこんでいい」「なんでや」「韓国人だけがストライキするんだ」初めてそのとき知った。「どうしたんだ?」「高等普通の人間と喧嘩になった。戦争だ」といった。「おれはどっちの見方をするんだ?」「お前は日本人のほうに行け」と(笑)。懐かしい。
(崔 知り合いから光州の町が軍人によって閉鎖されたと聞いた。)
そうですか?そんなことはない。ただ喧嘩だけ。そのとき、日本の特高が高等普通の学生の背中にだけ白墨でマークを入れていったと聞いた。日本人にはそれがなかったらしい。その頃は、「内地人」といって日本人を区別していた。
われわれが習った歴史は、朝鮮を植民地にしたといわずに、同等の権利で「合併した」という。ところが、日本文部省がそういうふうに学生に教えた。植民地ということばは全然でてこなかった。だけども事実は、株式会社でいえば、合併といっても、A社がB社に飲み込まれた形の合併もある。表面は、同じように取り扱っていた。人権が。事実はそうじゃない。
役所に勤めて、日本人は小学校までしか出ていなくても、課長部長になった。韓国人は大学を出ていても、係長にもなるのが難しい。という差別があった。給料も内地人は、6割可報。本俸は、判任官、高等官と分かれていて、たとえば、判任官の一級の給料が月30円とすると、日本人には6割割り増しで48円くれる。韓国人には本俸のまましか支給されない。それはいいとしても、いいことはないが、出世しないのが韓国人の不平の最たるものだった。学歴を見ても日本人より頭がいい。昔は京城大を城大といっていた。城大出てるのに、課長になれる見込みがない。というのが一番の不平。
1914年生まれ(T3)。本籍長崎県
日清戦争のあと、1895年ごろ渡韓した。父16歳のとき、父を連れて韓国にいった。
父は、18歳のときから、朝鮮軍司令部、韓国語奏任官待遇通訳官だった。日露戦争がすむと同時に軍族を辞めて祖父の仕事、貿易商、米綿、農産物、海産物をあつめて日本に送る商売。
祖父 NS 、父 NS 、私。長男。これまでが朝鮮産(笑)。長男が生まれて5ヶ月で終戦。向こうでいえば解放。
日本人をチョッパリという。同級生の友達同士よく使ってた。日本人は朝鮮人のことをヨボと言っていた。ヨボシヨのシヨを省略して、ヨボ。日本語で言うとヨボヨボしているから、ヨボと。そう言うと、向こうは腹をたてて。「何がヨボか。」蔑視語の代表的なもの。すると韓国人は、「このチョッパリめが」。チョッパリ、あるいはケーッセキと言っていた。チョッパリは豚の足。日本語に翻訳すれば犬畜生という意味。ケーセキはイヌの子。韓国では一番軽蔑したことば。
喧嘩は朝晩。口喧嘩。一時間たったらなにもない。自転車通学をしていた。冬寒いとき時々自転車がなくなる。すると友達が乗っていた。降りた途端、胸倉とって殴ると、「なんで貴様おれをなぐるのか」という。「俺の自転車乗ってったじゃないか」といったら、「戻したじゃないか」。反対に食って掛かる。たわいのない喧嘩。思想的な喧嘩はない。ただし、韓国人は一人いたら実に親しく話ができる。しかし、二人以上いたら99部まで共産主義。共産主義とは独立運動を言った。日本人でいえば、天皇陛下に忠誠を尽くす、忠君愛国が共産主義のこと。マルクスを学問的に調べようということではなく、とにかくロシア万歳。日本人の悪口と、反日思想を謳歌してうっぷんをはらしていた。非常にいいこと、その程度ですんでいたから。それが光州事件のように、光州高等普通学校と木浦商業学校の生徒が団体で殴り合いを始めた。木浦商業の韓国人と日本人同士じゃなくて、高等普通と木浦商業の韓国人同士が喧嘩をした。日本人は巻き込まれたのは一二あったが、全然関与していない。

815日、敗戦と同時に、日本人は役人、官庁、公共機関、役所、鉄道とかみんな首になった。そのとき、朝鮮人が取って代わった。警察は、自警団、日本式に言えば青年団、が占領して警察行政を始めた。木浦府は日本人が全然いなくなった。出て行ったら殴られそうだった。鉄道に切符を買いにいったら、これは大事なことだから書いておいてください。木浦駅の窓口に、「日本人は、這え、歩け、泳げ」と日本語で書いた札がぶら下がっていて、日本人は切符を売ってもらえなかった。私たちがいたときに、神社の鳥居は破壊された。その他の破壊は始まっていなかった。ハングルの碑はなかった。李朝時代の碑が合った。
帰るべきか留まるべきか、友達同士相談した。流言蜚語で混乱した。ラジオ、新聞が止まっていた。かろうじて福岡熊本の中波のラジオ放送NHKの第一が入った。しかし、雑音が激しくて聞き取れなかった。短波は警察から禁止されていた。その後のことは省略する。それは忸怩たる思いでしゃべっているから。そのとき、私は祖父以来40年か50年にならんとするN 家を当主として継いでいた。30歳で家を継いだ。そのとき家族7人を養っていた。→家族構成 毎年、小作も入る。だいたい4割ぐらい貸し賃が入る。財産もある。生活になんら不自由を感じないという潜在意識があった。しかし日本、ふるさとは、父のいとこが一番近い親戚。韓国語で(崔 사촌そう、四寸(よんすん)。ト、ケ、コル、ツ、モご存知ですか?ユッシご存知ですか?(,,,,)。チョッパリばっかりなので話を戻しましょう。朝鮮博打です。李王朝、朝鮮の王様もやっていた高級博打です。日本で言えば、双六。
私は日本で生まれて、国に帰ったのは徴兵検査で、一週間のみ。いとことものゆったのは一週間のみ。親同士がいとこなので、日本式にいえば親戚ではない。
朝鮮時代から車をやっていた。その頃は自動車の免許は甲種、乙種の時代。その時代の免許が、大型二種に繰り上げられた。木浦は、当時人口が7万くらい。貨物自動車10台くらい、タクシー3台。自家用車0の時代。左側通行。小学校4,5年のときタクシーが通ったら、自動車の後ろに回って空気をとってにおいを嗅いで、文明のにおいがすると思った。害になるとは知らんで。
小学校一年の入学式のとき、50人の生徒のなかで洋服を着ていたのは2,3人。紙と鉛筆はつかわず、石版にロウセキを細くしたもので、書いた。ハナ、ハト、マメ、マスという国定教科書を習った。着物、草履。
一ヶ月ばかり、7人の家族を抱えて逡巡としていた。沖縄まで来たホッジ中将が朝鮮総督に電報を入れた。「日本人は速やかに日本本土へ帰れ」その電報一通で、総督府から木浦府庁へ電報が送ってきたので、わたしが木浦府庁の土木課長からこういう通達が来ている、日本人は朝鮮に居れないぞと教えてもらった。そのとき私は土木の請負をしていた。帰る決心をして、ソンチャン(선창船着場)に行って船を捜した。もう一ヵ月半たっていたので、そのころ機帆船はみんな日本に帰る日本人に買い上げられてしまって一台もなかった。日本で生まれて日本で育った日本人は帰ることに少しの抵抗もない。どんどん逃げて帰った。私が帰ろうと思ったときには、帆船が1隻合っただけ。しかし海図を手に入れることができない。木浦は多島海。島が多いので海図がなかったら抜けられない。かろうじて羅針盤だけひとつ見つけて買った。出るときに自警団から一人来て、韓国独立のために必要なものは一切持って帰ることはできないといわれた。なんでもそう。鉛筆一本でも独立のために必要といわれたら持って帰ることはできない。それは当たり前。それくらいの頭は皆あった。それで自警団と交渉して、当時三万円日本金で賄賂を支払った。当時酒が一升、98銭。こっちも、また次の自警団が来たらどうするか?おまえ、木浦港を出るまで乗るか?聞いたら、乗るというので、下船するときに払う。それまでは見せるだけ。見せて承諾を得て、帰った。その船は、大人を75名。私の荷物を、馬車20台。荷物米、砂糖、てんぷら油、肉の缶詰、塩、しょうゆ、日本の味噌等々。中上換算一年分以上の食料をその船には積んでいた。一週間かかって日本についた。長崎県壱岐郡勝本港。壱岐で一番大きいのは郷ノ浦。海図がないので、どこについたかわからない。それで壱岐が見えた時にときに帆をおろして待っていた。一隻の漁船が入ってきた。浅瀬にぶつかるかもしれないので命がけでその跡をつけて行って入ったら郷ノ浦だった。郷ノ浦に一泊して、郷ノ浦の漁師を水先案内人に立てて、勝本港に入港し無事引き上げを終わった。
第一歩の引き上げ。第二歩が、山口県の柳井に帰るので、荷物を下ろして山口県に船を廻した。搬送で下関海峡は渡ることができないと言われたので、ダグボートに引かれて光市に船を廻して、山口県大島の遠業組合になにもかも売却して引き上げを終了した。売却金は一万円ぐらい。
船には私、友達4人で共同で買った。木浦は6万人人口。うち一万人が内地人。あと5万人が韓国人。一万人の日本人のなかで、木浦鎮時代から、いわゆる李朝時代からいた人間が50件ぐらいあった。その50件は親戚でもなんでもないが、親戚づきあい、親友以上の付き合いをしていた。それでその他の日本人も非常に懇意にしていた。戦争に負けて、生まれて初めての経験で、どうしていいか決心のつかないとき、道でパッタリあったのが、IIとY。それで三人の協力を得て。Iは甲種一等の船乗り。ミッドウェー海戦のときニューギニアのラボール(ラバウル)、商船で往復した男。朝鮮ぺー()の扱いはしたことがない。原理は、日本丸、海王丸とは同じ。日本の航海術の基礎は帆走にある。Iの判断で船を買った。羅針盤、海図がないというと「俺はのれん」といった。自殺に行くような物。別途に計画輸送というのがあった。私たちは闇輸送。国の保護監督をうけずに勝手に帰ってきた。本当は米軍のLSD、上陸用舟艇を二参席貸してもらって、関釜連絡線に乗って両手に下げるだけ、背中に負えるだけの荷物を持ってかえってきた。私は「殷鑑遠からず」と、
茶碗、水屋、小机、着物類、洋服類。朝鮮時代に買ったものは全部食べてしまった。本は一、二冊ある。10のうち5は着く。生死の分かれ目。それで、家内が写真を出してきたが、「そんなもの焼いちまえ」一言の元に、割り捨て
親父の弟が写真をしていた。乾版、現像、伸ばしも作った。明治時代からの写真。当時、ソルロンタンシャッターといって時間のかかるシャッターの写真機を使っていた。銀板も写真も全部焼き捨ててしまった。残っている一枚がこれ。親父が18才のとき。18で官舎もらって当番兵をもらって馬をもらって通勤していた。18で外国語を書堂にいって韓国語を勉強した。正式裁判の通訳官をしていた。20万ぐらいの単語を知らないとできない。それを二年間でマスターした。韓国人が自分たちの知らんことばばっかりだとビックリした。父は中学の二年まで東京に留学の開成中学?、二年で中退して朝鮮に親に連れてこられた。それ以来、学校には行っていない。二年間書堂で韓国語を勉強。

私がなぜ韓国語を話すようになったかというと、仕事を始めて。600人から700人の人夫を毎日使っていた。当時機械がないから。日本人と話すことは少ない。その当時はインテリは日本語をならって日本人とよどみなく会話できたが、人夫連中は日本語を全然知らない。他の土木の請け負い師の日本人は、日本語のできるシブチャン(십장を使って人夫を使っていた。それは高くつく。金儲けのために、食うために韓国語を急に勉強し始めた。
昔の話をすると二十代に戻ったような気がする。

引き上げのとき、分担金をとった。一人当たり65円ぐらいとった。「Nのやつはひどいやつだ船に自分の荷物を馬車に20台載せて、家族を7人乗せて、IとかYとかIとかの家族、荷物載せて、われわれから65円の運賃をとる。」とものすごくつるし上げられた。ところが7,8年から10年経って再会すると、涙流して喜んでくれた。「よく連れてきてくれた」と。

北海道から沖縄までの日本人が木浦にいた。長崎、福岡、山口県の人間が一番多かった。木浦でそれぞれ県人会を作っていた。年に一回か二回集まって、こま廻し、凧揚げ、飯食いなどして遊んでいた。だいたい2,30人。家長しか集まらない。大部分は日本で生まれて日本で育って途中で朝鮮に来た。朝鮮で生まれた人は1000人ぐらい。木浦の内地人専用の小学校で全校生徒1100人ぐらいいた。卒業しても木浦にいない。男の大部分は兵隊にとられる。程度の悪いのが木浦に残る。木浦に産業がなかった。米、綿、海産物がとれる。米、綿の会社の社員がいた。東洋拓殖株式会社、東拓と言っていた。韓国の農地経営をしていた。川崎造船所の社長川崎男爵が川崎農場という農地経営をしていた。米が一万石とれる。5千石の小大名と同じ暮らしをできるぐらいの小作料をとっていた。しかし終戦で全部失い裸で帰ってきた。

N Y の祖父は水産伝習所卒業1888年創立大日本水産海水産伝習所)、Yの父は水産講習所卒業1897年講習所に改称)、水産大学(東京水産大学)の前身。卒業後木浦に来た。
私の祖父より水産関係の事情を教えてもらった。二人は南朝鮮水産物の加工を韓国人に教えて、その商品をNが買った。最新の技術をもちいた。フカヒレ、うなぎの缶詰を指導した。また氷会社がないので、製氷所を作った。Iの爺さんが個人で魚市場を作って南朝鮮の魚を木浦に集めて木浦でセリをかけた。
家内は東京家政専門学校?卒業。(東京家政学院大学前身か)→ 当時の名称を再確認 家内は学徒動員のときの写真を持っている。中隊長で、家政専門の学生を引き連れて雨の日に明治神宮に行った。学徒動員が三八式の歩兵銃をかついで行軍し、東条さんやらが閲兵している。「101日(いちじつ)初年兵」と言っていた。その写真。
木浦高等女学校を卒業している。小学校から女学校まで全部優等。女学校で成績が一番優秀だったため、李方(りほう)賞をもらった。李朝李垠の后李方子からもらう賞。二番目が木浦。二番目が道知事賞、三番目が木浦府尹賞。市長賞のこと。硯と硯箱をもらった。李方子の書付が値打ちがある。家内は私より10歳下。

李王を韓国人のなかで尊敬しない人はいない。李王朝は圧制でもって統治する。李王朝が悪いのではなく、部下の政治が悪かったと思う。圧制、暴政。中央集権で地方政治はヤンバンに任せた。行政、警察権をもっていた。
私たちをヤンバンと韓国土人は言っていた。韓国で生まれて韓国で育って韓国の国籍があるものを「土人」と言った。(崔さんにむかって)ごめんなさいね。韓国で「中上さん」を、중상공、I 公と言っていた。最高の敬意を表して呼ばれていた。それは600人、700人の子分、人夫(ニンブ)を持っていたから。
二二六事件1936年)のときに、全南海南郡右水営(うすよん)に旅行で行った。右水営(うすいえい)にいったら、ふたつ堂があって、表が格子戸で、中に祀っているのは、李舜臣。韓国の英雄。日本の東郷元帥以上に韓国で尊敬されている。そこに李舜臣将軍の碑が祀ってあった。ひとつだけ覚えているのは、碑には漢文で「日本賊水軍小西行長殲滅せる所なり」というようなことばだけを覚えている。碑の高さは、9尺、幅4尺ぐらいの立派な碑があった。日本人の感情から言うと、一番先に壊してしまわなければならない性質のもの。残ったのは日本人の偉さ。でも何も偉いことはない。そういうときに、忸怩たる思いをする。少し恥ずかしい。残ったのは、日本人の鷹揚な所、儒教で言えば仁に相当する。博愛。韓国人だったら叩き潰している。俺たちが引き上げた後、神社の鳥居は全部壊した。日本人の共同墓地には糞尿をまいた。私の父、祖父のお骨、I家のお骨は木浦市の共同墓地。もって帰らなかった。→火葬、土葬?寺は? それは船を買ったので旅客運送業をする計画を持っていたかた。日韓国交回復後、木浦に行った。木浦に行って友達に連れて行けと言うと、あそこには行くなと言われた。当時の青年団、自警団が、鳥居も、墓地も「日本人の痕跡は残すな」と。「言われてもお前しょうがないだろ」といわれた。「よかった、俺の親父も爺さんも、家内の親父も爺さんも、その当時残っとったお骨が糞尿にまかれてよかった。パイオニア精神で親父も爺さんも満足しているだろう。朝鮮の土になったんだ。日本を出るときに朝鮮の土になろうと思って出てるはずだ。聞いたことはないが俺はそう想像する。朝鮮の土になって肥えてくれといって糞尿をまいたんだろ」といった。
そこは今は木浦の衛生車(バキュームカーか?)の溜まり場、駐車場になっている。

母親の教育は「朝鮮人のものは食べるな」。親の目を盗んでサイダー瓶、ビール瓶を家から持ち出して、物々交換で朝鮮飴を買って親に隠れて食べた。その理由は、韓国人はアメーバ赤痢を病気と思っていない。衛生思想がなかった。平気で外を歩く。ところが子供は親が言うとかえって食べる。
私が朝鮮にいる間30年間、朝鮮人の作ったものを食べた経験がない。キムチもブルコギもソルロンタンも、ピビンパも。朝鮮料理というものは引き揚げてきてはじめて食べて、なぜこんなうまいものを食わなかったのだろうかと、恥ずかしい食生活だった。それを自慢していた。大根を単に干して塩で漬けただけ、かろうじて糠でまぶしたものを最高の副食物として食べていた。キムチのうまさはどうか?まったく恥じ入った。日本人で9割までは朝鮮料理を食べなかった。
マッカリも飲んだことがない。日本酒、ビール。日本製。日本酒は木浦の山手小学校の前で作っていた。木浦にいた麻生というのは頭山満の子分。

韓国人の友達は、お前たちチョッパリはニンニクを食わないから持久力がない。お前たちは俺たちを、ニンニクくさいとかへちまとか言うけれど体のためにはこれが一番いいと。

私は陸上競技。木浦商業にはいって剣道、陸上競技のフィールド。
学歴
木浦公立尋常高等小学校入学
木浦公立尋常高等小学校は木浦公立山手小学校に改名。
山手小学校卒業
木浦公立商業学校。内鮮共学。内鮮共学は当時韓国でひとつしかなかった。
木浦高等女学校は、一クラスに3,4人は韓国人の娘さんがいた。それは最高級のヤンバンの娘。
木浦商学校(→小学校?)は金大中は22回生かな。私が12回生。自慢は虎の剥製があった。商業2,3年の修学旅行のときにペビャンサ、はくよう寺(→?)の僧侶から韓半島にホーレンイ、虎が大正1,2年まではいたと聞いた。明治ごろの虎の本をもっている。
剥製にしたのは京都の島津製作所。そのプレートが貼ってある。剥製は日本で。木浦の近くでとれた虎を竹に刺して木浦の町に売りに来たらしい。畳屋の原口というひとが300円で買って、剥製に500円かけてした。それを木浦商学校に寄付した。それが韓国でただひとつ残っている見本。ソウル大学が取り上げる交渉したとか何とか聞いた。私が、釜山商業(ふさんしょうぎょう)を受けたときには、ヌクテが釜山の近くに出た。人間を食い殺す。釜山商業は日本人の商業で韓国で一番程度が高かった。その次に、仁川(じんせん)の善隣商業(ぜんりんしょうぎょう)に行こうか迷った。木浦商業なんて軽蔑していた。「チュンサンゴン、チュンサンゴンと言われるのに、くそみたいな所に行けるか」と思っていた。5年生で仮及第、6年生で留年一辺したようなやつが行くところだと思っていた。ところがだぶって、それで木浦商業に行って卒業した。
(→同窓会活動は)

釜山は毎年一回日本に仕入に行ったときに通った。関釜連絡線しかなかった。その後昭和14,5年ごろ麗水(レイスイ)から日本に行く連絡線ができた。木浦から釜山までは、テジョン経由、湖南線(ほなむそん)で。テジョンの駅で夜中にうどんを食うのが楽しみ。5,6時に木浦を発って夜中にテジョンについて、それから京釜線(けいふせん)の各駅停車に乗り換えて釜山まで行った。だいぶ後に急行ができた。急行ができたときに韓国人はわたしに面と向かって、「何でチョッパリ連中は急行に乗るのか。」私が「なんで急行に乗らんのか」と聞いた。「急行に乗ったら二時間で着く、普通車に乗ったら3時間かかる。長く乗れるじゃないか」。汽車に乗るのが光栄に思い、楽しみにしていたのが韓国人の庶民階級の考え方。10銭か20銭か高い。

私は土木をやる前に建築材料商をしていた。すさ、タイル、八幡製鉄所でできた鉱滓(こうさい)その他壁材料を取り扱っていた。全部多治見、名古屋まで年に一回は必ず日本に一週間か10日仕入に行っていた。大阪商船の君が代丸が木浦に寄港していた。木浦に鉄道ができた、ホナム線が開通したのは大正3年。私が生まれた年。それまでは木浦に行くためには船しかない。陸路は、歩くか馬に乗るか。困難なたび。君が代丸で木浦に上陸した。
日本家屋のための材料。(→材料はどこに売ったか)
昭和91934年)から建築資材を扱うようになった。
農海産物の貿易商をやっていた祖父はM42,3年に死んだ。米綿が中心、冷凍技術が発達していないので海産物は微々たるもの。父が祖父の貿易商を引き継ぐとき(年譜によると1908年)に、M37,8年の戦争(日露戦争)で沸いたバブルがはじけた。農産物が半値以下に下がった。明治42.3年ごろ祖父の貿易商は破産した。それで父は材木商を始めた。

引き上げの調査の目的は日韓友好のため。今は議論ばかりをしている。下らんことを何ぼ話しても無駄。その方法は、韓国を尊敬する。偉い人がお見えになったときに、ぼくはお話をするつもり。

韓国と国交が回復したときツアーに申し込んで韓国に行った。韓国人のガイドが「この山もあの山も、木が小さいでしょう。これは全部日本人が戦争(第二次世界大戦)のときに切って禿山にしたんです」と説明した。私が韓国語でガイドに「おい、お前は何時から韓国にいるんだ」と「この山は俺が子供のときは禿山だった。木は一本も立ってなかった。かろうじて韓国の木で加工して使えるのはマッチの棒か爪楊枝ぐらいしかなかった。俺が俺の目で見とる。俺たちは、木浦商業時代にはウサギとりに行った。木は日本の総督府で、治山治水を奨励して植えた苗木一尺ぐらいしかなかった。山走り回って知っとる。どこかと言われれば、イルロ、イムソンイ、セメン、モンテン、ヨンサンポ。嘘つくな。李王朝がやったんではないか。李王朝の圧制の元に、500年お前たちの先祖は飯食ってきとるんぞ。その時に禿山にしたんじゃないか」と言った。それは言うてくれるな。私は何でも知っておりますけれども、会社からそう言えと命令されて私はガイドをしてるんです。私が食うために協力してください」「わかった。なんとでもいえ。嘘だったとはいわん。」

一箇所だけ材木がとれる場所があった。北朝鮮鴨緑江の川上に。ベクソンつまり白松、サースン(?テープ切れ)はまあまあの材料。
その木をとって韓国内の家は全部立ったはず。ただし、日本人の高級住宅は全部日本から輸入していた。親父が扱っていたのは鴨緑江材ばっかり。母親は「朝鮮材ぐらい悪い木はない。釘を打ってハタキをかけても釘が垂れる。」それくらい悪い木だと。だけども使える。それで親父から食わせてもらった。ところが親父が失敗して、私が木浦商業を出たときに新義州に夜逃げした。営林署が専売的に白頭山のベクソン、ホンソンを伐採、新義州で集荷製材していた。父が借金をした仕入先の材木所に逃げて行った。親父だけ、7人の家族を残して。私は商業を出ただけ。何をしていいか検討が立たない。金がない。東京の親戚から300円、生々しく覚えている。この300円を資本に建築材料業をはじめた。建築材料の基礎は、砂、バラス、セメント。これなら300円でやれる。商業を出た年。普通7人の家族を抱えて、生活費が5,60円かかっていた。しかし私は100円必要だった。妹が京城女子師範に行っていた。学資を仕送りしなければいけない。弟にも。兄弟5人いる。300円をそれにまわしたら3ヶ月でお手上げ。木浦商業卒の銀行、会社初任給は当時35円。最後は何千種類の建築材料の種類を持っていた。開業当初は砂、バラス、セメントだけ。砂、バラスはかろうじて一舟単位で300円あれば買える。セメントはDA、documents against acceptance 支払手形で買えたから現金がなくても仕入れられた。それで砂、バラス、セメントの商いを始めた。
人夫一日60銭。その金が惜しいので、韓国人の人夫と一緒に私が大八車を引っ張った。日本人の労働者は皆無に等しい。例外はいた。労働者は全部韓国人だった。木浦商業の先生がそれを見て、「今日出てこんか」。遊びに行った。「お前何しとるのか」。「建築材料業をはじめました」といった。車を引っ張ってるということは先生は知らんだろうと思っていた。先生も偉い。「今○○銀行から雇いに来とる。世話してくれと。行かんか?」「先生、何ぼくれますか」。「知っとるじゃろうが」。「私生活費が100円要るんです。今の仕事しとったら100円稼げます。すみませんけども」。「俺より給料がいいな」。中等学校の先生は、昔は帝国大学法科、国文科でたりした人ばっかり。だか中等学校の先生は60円か65円の給料。当時、東大は出たけれども、東京都電の電車の切符きりをしていた。雇い手がなかった。不況のどん底時代。軍隊をどんどん減らしていた。
一年経った時には、セメントの材料商4軒あった。伴商店、森田商店、片山商店、わたしの商店。セメントの取扱高は私が一番多かった。その理由は、商才があった、幼稚だが。セメントを買うものは必ず砂を買って行った。砂がないと何もできない。砂は大八車に一台売れば50銭儲かる。セメントは仕入が95,6銭で、売りが97.8銭。2,3銭しか儲からない。2,3パーセントしか儲からない。しかし、量がセメントが動くのでやってた。砂は日本人で扱っているのは一人もいなかった。砂、バラスは韓国人独占事業だった。そのなかで僕が飛び込んだ。砂一台売って、セメント二俵売れる。するとセメント一銭も儲けなくても50銭儲かってる。セメントは原価で売って、砂で儲けた。セメントは全部僕のとこに買いに来た。伴商店、森田商店、片山商店の前を通って一番大きな建築材料の店の前を通って韓国人が全部僕の店に買いに来てくれる。わたしはみるみる儲けて行った。砂が一日10台売ったら、5円儲ける。昔は土日なしに、月月火水木金土土という海軍の歌がある。雨降り休みだけ。朝鮮は雨が降らない国。実に鮮やかな国。気持ちのいい。一日5円儲かるならば、月に125円儲かる。100円使って、25円儲かる。それから手を広げて、釘。釘もDAの取引。釘と砂とバラスは関係が少ない。あまり売れなかった。トタンを仕入れ、タイルを仕入れた。

タイルの営業の自慢。タイルをはじめたとき、竹下と言う長年のタイル屋があった。竹下に勝つためにいろいろ考えた。韓国人の飲食店の便所の汚さは言語に絶するものがあった。それでこれにタイルを貼らせる方法はないか考えた。日本人の家も板張りだったが、料亭クラスになるとタイルを使っていた。タイルはぜいたく品だった。タイルを多治見に行って調べたら、一級品、二級品、等外品とあった。例えば五寸角というタイルがあれば一枚、10銭のときは、等外品は1銭。十分の一。これで手品の種ができた。次に、韓国人の飲食店スリチビ(崔 술집にタイルを全部売り込む方法を考えた。昔は衛生を警察がやっていた。警察の衛生部で飲食店の許可証、監督をしていた。その部長はテイ警部という韓国人。かれにコネをつけるために同級生の中を走り回って、何ヶ月かたって同級生からコネがつくと言われ、それを頼りにして、飲まし食わし、悪いことをした。贈賄をした。テイ警部といろいろ話をして、「韓国人の衛生思想を涵養するために、何とか知恵を貸してくれんですか。スリチビの便所をタイル張りにしたなら衛生的になりますよ。日本の飲食店の実情を知るために僕と一緒に行きましょう」と。日本旅行をして、酒池肉林の手前までご馳走した。そしてテイ警部と木浦府尹と警察署長の了解をとってもらって、○月○日までに○○地区はタイル張りの便所でなかったら営業権を取り消すと言う通達がだされた。私がすぐ手回しして、そこの便所の予約は全部とった。二年かかった。一銭のタイルと一等品のタイルと同じ値段で売った。あとは惨憺たるもの。タイルは冬寒いと水分をすって貫入する。ヘアークラックが入る。そんなことはもう知ったもんか。テイ警部には言ってある。「1銭のものを仕入れて10銭で売っている。初めは分らんのやから」と。その他言えば切がない。木浦の建築材料界では飛ぶ鳥を落とした。
昭和19年にアマチュア写真がはやった。35mmではライカ、二眼レフではフランクウッドハイネッケン?のローライフレックスというのが羨望の的だった。1600円か1800円。それを買って持っていた。家賃20円とれる借家が一軒建てられる値段。そして威張っていた。オートバイは一時間乗ったら五時間修繕しないと乗れないような性能の悪いものしかなかった。ハーレーダビッドソン、インディアンとかは有名で手が届かない。欧州車のラージ、トライアンプ、BMW。

お偉いさんももったいぶらないで(話を聞きに来なさい)。日韓の友好のため。僕の案を出しても動くものはいないだろう。韓国に90%のプライドを持たせないと行けない。日本は10%でいい。そういうことを政治的にやらないと。太田誠一は長男の同級生。落選した。長男は府中からシュウユウにいって、友達にいろいろいる。むすこはろくでもないやつ。政治的に動かないといけない。来年90歳。だけども縁の下の力持ちで、手柄はここのお偉いさん。僕が考えているアイディアは日韓友好の特効薬。韓国側も承諾する。多少信用してください。
(→国交回復後の韓国人との付き合い)


昭和26年に車の免許をとった。それ以来車ばかり。

コメント

  1. はじめまして. 私は韓国で植民地近代教育史を勉強しています。 げんざい 私は 全羅南道 木浦の 木商高等学校(上記の 文に でてきた 木浦公立商業学校)で 歴史を おしえています. 植民地時代の木浦公立商業学校について研究を進め、論文を準備していたときにこの文章を読みました。
    もしかしてこの口述の正確な出処を教えていただけますか。 そして、どのようにしてこの口述が行われたのか教えていただければ幸いです。 私のメールアドレスはqkr6621@naver.comです。
    ご連絡頂けますと幸いです。

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