オーラルヒストリー調査 リスト(一部)
提供情報 | 提供資料の内容 |
母方の祖父兄弟が戦前より満鉄に勤務 その関係で叔母夫婦は朝鮮に10数年住む(叔母は90歳近く・大刀洗町に健在) |
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昭和12年忠州小学校卒業 終戦間際も朝鮮で仕事 |
『卒業記念 忠州公立尋常高等小学校』(昭和11年度),『鶏鳴』13・15・18号(忠州小学校同窓会誌) |
1923年黄海道シンセン郡南部面婦貞里生まれ S10父他界,S11母他界 S13年兄の召集を期に福岡県北野町に帰国 |
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父・KHは農商務省・朝鮮総督府・朝鮮土地改良株式会社・専売局等に勤務 | 父の資料(辞令・履歴書・戸籍等) 工事現場写真 『浿江』24・34号(平壌第一中学校同窓会) |
祖父・OH (京城新聞主筆・政務調査委員) |
「朝鮮より御報告」,「報告書」(京城市民大会上京委員),「宣言書(案)」(大正15年甲子倶楽部),[草案],履歴書,「朝鮮より報告書補遺」,「陳情要旨」,など |
大邱近郊生まれ 大邱商業学校卒,日本窒素に1年半勤務し終戦を迎える 記録メモ,大邱田舎暮らしの習慣等の記憶あり |
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九州在住のおば(100歳程度)紹介,聞き取り調査の可否を問い合わせるとのこと | |
大正4年木浦生まれ 木浦高等女学校14回生 父は木浦の初代民団長,木浦商工会議所会頭なども務める,大正4年藍綬褒章 |
『わか葉』17号(木浦高等女学校同窓会誌、1998年)コピー |
大邱府東門町生まれ 終戦当時は小学3年生 父の資料が存在、現在も大邱小同窓会を開催 |
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釜山の牧師朴鐘進氏よりの依頼で馬山城湖公立国民学校時の担任・の消息を捜す,日本テレビに依頼 | |
父・TYは戦前寧辺にて鉱山を経営 家族3人で引揚(北部朝鮮→京城→釜山→S21博多港下船) |
「博多港引揚資料展」パンフレット(福岡市総合図書館、2002年) |
大正3年(1914)生まれ,終戦まで木浦に在住 明治34年祖父が父を連れ渡韓(木浦) |
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昭和18年に朝鮮鉄道就職 順天鉄道事務所会計課に配属 |
『満州・支那 汽車時間表』(満鉄、S18) 『順天会だより』1~9号(1~4号に順天の思い出掲載) 順天会旅行の写真 |
従兄弟(医者・広島在住)は京城帝大医学部出身,叔母2名は東京・静岡に在住,祖父は東崇町で質屋経営 |
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大正14年咸鏡北道城津郡鶴上面松興洞生まれ 父は大正元年に単身で朝鮮に渡る |
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昭和9年生まれ 小5の時疎開先の忠清南道論山にて終戦を迎える,同年仙崎港に引揚 父は京城大学医学部講師のち南山にて開業する |
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『あかしや』(新義州公立高等女学校会報、1981年)「鴨緑江」(新緑会会報、20・21・23~36号),『鴨緑江 特別号平北・新義州地区居留民-在住40年の記録-』(新緑会、1996年),絵葉書34点(鴨緑江辺の当時の風俗等) | |
両親・伯父は現地で小学校教師を勤める | |
父(1918生・健在)が1931年頃まで済州島に住む | |
母方家族が朝鮮からの引揚者 叔母(母の姉)が当時の様子を記憶 |
『母へのラブレター』(文芸社、2003年)に引揚当時の経験を綴る投稿文掲載 |
平壌在住,終戦頃引き揚げ | |
『朝鮮交通史』(財団法人「鮮交会」、昭和61年9月発行) | |
父は幼い頃朝鮮半島在住 その姉は光州(?)の女学校に通う その上にも兄弟あり(現在は熊本・東京・大阪とバラバラに在住) |
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