オーラルヒストリー調査 順天

調査日:2004421日(水)
時間:11:0013:00
在住地:順天
場所:N 氏自宅

記録方法:DVDビデオによる撮影、MDによる音声記録

【基本情報】
氏名:N
生年月日:昭和3       福岡県生まれ


昭和?年                            青木尋常高等小学校卒業
昭和?年                            久留米の経理学校
昭和1712                 父亡くなる(享年44歳)
昭和18328          朝鮮へ渡航
昭和20106          引き揚げ

【家族構成】 


【朝鮮へ渡った経緯】
小学校を卒業したあと中学校には進学せずに久留米の経理学校に通う。当時は就職が可能であった。そこで1年間、経理を学ぶ。
 当時は戦地に人を送っており人材が不足したようで、鉄道会社の人が人員を募集するために直接学校を訪れた。校長先生から「(朝鮮に)行ったらどうか?」と薦められたこともあって就職を決意する。
父親が昭和1712月に亡くなって4ヶ月余りであったが、母親と妹を残して、昭和18328日に単身で朝鮮へ渡る。(当時15歳、今の中学校3年生くらい)

【仕事内容など】
はじめ、赴任地は東光州駅と聞かされ現地に向っていたが、その途中で順天駅に配属されることになった。そこで「計算係」として管区内の決算など経理の仕事を担当した。
仕事は駅員に支払う給料などの管理。10日頃に現場からあがってくる給料、残業代の請求を、台帳とつきあわせて伝票を切り、支払う給料を用意する。21日には「出張払い」としてそれらの給料をもって汽車に乗り各駅で代表の人に配っていた。
そのほか経理だけではなく「駅の検査」(?)など、庶務全般をこなしていた。

【住居】
はじめは官舎(順天(ゆう)昭和町)に鉄心(てっしん)寮(稠谷里(ちょうこくり)101番地)に移る。
寮には日本人のみしか住んでいなかった。
食事は賄いの人が用意してくれた。(昼は弁当を朝鮮人の若い人が運んでくれた)
寮の一室に皆で集まって花札をやっていた。
おなかがすいたので仲間と街に繰り出しネオンのついた店にはいると、朝鮮人の若い女の人がいた。なにか食べる物を出してくれというと出してくれたが

【給料】
初めての給料は57円。そこから普通貯金10円、「据え置き」10円、寮の賄い食事代20円をひかれると、手元に残るのは10円そこそこ。だから親元へ仕送りすることは出来なかった。仕送りは赴任した当初に赴任旅費として支給してもらった200円を送ったきり。


【順天の街の様子】
順天劇場:慰問団による舞踊、映画など
中華料理店:町には2軒あった
日本食堂:天勝食堂(てんかつ)・松月食堂(しょうげつ)
朝鮮人経営の食堂

【食べ物】




【交通機関】
街では自転車などは誰も乗っていなかった

【メディア】
テレビはない。ラジオが一台あったが、関心はなく、歌手や流行歌、戦地情報などは聞かなかった。


【終戦直後の様子】
昭和20年(1945815日、(玉音)放送があるというので事務所の2階で聞いた。
すぐに順天の街に朝鮮人による「独立委員会」がつくられた。


【引き揚げの様子】
 終戦後も引き継ぎ事務が残り1ヶ月は動けなかった。(引き揚げできなかった)
主任が誰かに頼んで船を購入し(当時で5万円くらいか)、荷物を1個あたり10円ぐらいで請け負っていた。
1ヶ月半ぐらいしてようやく引き揚げることとなり、930日に出発する。麗水に汽車で荷物を集計し、そこから船で日本へ向った。同乗者は船員が3名、(自分を含め)若い者が3名、そして家族が2組であった。船は動力のない帆掛け舟で、岸壁を離れるときは櫓を使用した。その時は川辺で育っていたことから、櫓の扱いを少し知っており、船員の人と交代で漕いだりもした。
 海上には機雷があった。木造の船であったから触れても爆発することはなかったが、船員が機雷を避けて船を操っていた。
 106日に唐津に到着。そこで事務所を開設し、次の指示を待っていたが、事務所解散の指示がきたので解散した。

【引き揚げ後】
 引き揚げ後は、郷里である城島に帰る。2ヶ月間は遊んでいたが、同年12月には県庁に勤めることとなった。その後、結婚、現在に至る。


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