玄承恒先生との共同調査ーー.済州島出身者の祭儀の実相
.済州島出身者の祭儀の実相
朝鮮時代済州島の行政区域は済州牧、旌義縣、大静縣であったので、この地域の済州島出身者を対象とする。実際、彼らが渡日して行う葬礼と祭祀の実状を見てみると次の通りである。
事例1(姜辛五、84歳 福岡市博多区上川端町)
大静13年、13歳で渡日した姜辛五は一世として初めは大阪で生活していた。福岡では衣類商をしていて生活は裕福な方である。居留民団団長までしていた経歴があり、今は顧問として活動中である。
私は8男妹中の末っ子で日本には一人できた。大阪で大変だったので日本人がやらないような仕事をして暮らし戦争が終わると故郷に戻ろうと下関に行ったのだけれど、済州島へ行く途中お金だけ盗まれて水葬されてしまうという噂があり行けずに留まるようになったのが福岡である。妻は昭和15年、海女の仕事をしにき、その後結婚した。子供は三男一女と多い方で祭祀の時にはみな参席する。
祖上祭祀は故郷で行うのだけれど、私は日本で父母の祭祀の日になると、心残りに祭祀を行う。祭物はご飯と煮物、果物、串焼き、野菜など済州都道いつである。魚は鱗をはがし内蔵を取りだし塩漬けにして串に通しまっすぐにして焼いて祭床に供えるときは串をはずす。故郷でもこのようにした。
祭祀の日になるとよる八時頃から祭物を供える。紙榜はない。父母が早く亡くなったので写真もない。字を知らないので紙榜は書けない。陳設は左脯右醢、魚東肉西、紅東白西などの原則により祭床の前には香床を置き、茅沙と香炉、香盒などを置くのだが、茅沙は正式のものではなくお皿にワラビを三本のせて茅沙の代わりとする。門前祭床はなく、祭物は誠意と考えられているので可能な限りおいしいものをたくさん供える。それまでは夜12時になると祭祀を行ったけれど子供たちは仕事、孫たちは学校があるため参席しづらくなったので、時間をずらすしかなかった。それで祭祀の時「母、父、子孫が参席しづらくなってからは9時に祭祀を行うので参席してたくさん召し上がれ」と告げた後から9時になると行祭する。これが道理ではないとわかっているのだけれど、私一人だけで祭祀を行うこともできず、子孫がいなければならないためにどうすることもできない。それで何度か祭祀を行うたびにお酒を差し上げた後「正式にできないことを許していただきたい」と何度かお詫びしている。
事例2(金達圭、74歳 福岡市博多区)
筆者が会った金達圭は74歳にも関わらず健康に思えたが裕福な方ではなかった。子供もいず、死んだら故郷に戻って埋めてもらいたいけれど故郷の親戚たちは草を刈り祭祀をするなどお世話になるようなので妻には火葬して海に巻いてくれと言ったという。
金達圭は5兄弟のうち三番目で8歳の時に大阪に渡ってき、7ヶ月仮に暮らし済州へ戻って暮らしたのだけれど生活が苦しくまた13歳の時に村の人によって渡日して大阪で暮らした。済州には末っ子がいて、今自分が住んでいるところから近いところに四番目が住んでいる。二人の兄夫婦は日本で生活してたけれど戻っていった。遠く離れていたために火葬した後に参加することができた。
二番目の兄は息子がいず、済州出身の娘婿が代わりに祭祀を行っていて、上の兄の家族は長男が行っている。亡くなった後何年間かは亡くなった日の前日に祭祀を行っていたけれどその後は日曜日を選び祭祀を行うので自分は参席していない。例えば火曜日が祭祀の日ならその前の日曜日に、金曜日が祭祀の日なら次の日曜日に祭祀を行う。霊魂がない日に祭祀を行うのに参席してもしょうがないと思っている。
故郷出身の妻と別れて、40歳すぎに日本人女性と再婚して暮らしている。妻は韓国式祭祀に対して拒否感を持ってはいなく、父母の祭祀の日になると故郷に行けないので妻と自分が父母の祭祀を行っている。祭物の準備は自分が教えてあげ、字がわからないので紙榜はなく写真を置いている。祭物はご飯渡煮物、お酒、果物、串焼き、野菜だけで簡単にする。祖父以上は故郷で弟たちが行い、祭祀の日になると気持ちが楽でないので日本でもう一度行うのである。祭祀を故郷と日本で一緒に行うようになってからしばしば体の調子が悪く占ってみると二度祭祀を行うのが原因というので今は行っていない。
祖上似たいして草刈り、祭祀を一度も行わなかったためにいつも申し訳なく思い故郷の弟に感謝の意を込めて家を建ててあげた。長孫が祭祀と草刈りを担当しなければいけないのだが上の兄が亡くなりその子供はしようとしないので自分の責任と思う。
事例3
高光作(64歳、福岡市東区)
私は17歳の時に大阪に渡ってき日本人がやらない仕事をしながら暮らした。そうやって食べて生活できたためである。なので知り合いの人がいる大阪では悪いことをすることができないので知らないところへ行こうということで福岡に留まることとなった。自分は7男妹中の長男だけれども日本には自分しかいないために故郷で祭祀を任せている。妻は日本人なのだけれど死ぬまで父母、祖父母の祭祀を行った。
紙榜は書き方がわからないので写真を置いている。祭器は済州で買ってきた。祭物は自分が教えてやり済州島式で全て整えて夜12時になると祭祀を行っていた。ただ、ムクがなかったので天ぷらを代わりに供えた。しかし今は妻がいないので祭祀を行うことができず父母の祭祀の日になると済州島に行っている。祖上のいない子孫がない法なので祭祀の日になってご飯を供えられない状態になると水一杯でも汲んでおくのが祖上のためだと思う。毎朝仏壇に香をたてて父母にその日のことを報告する。祖上に対する考えは決まったに違いない。妻がいるときの祭祀は先ず膳を準備してその横に門全床を準備した。先ず門前祭を行った後倖祭を行った。祭官は自分と息子だけなので自分が執事の役割まで全てやった。台所には別に竈王床を準備した後本祭祀が終わると片付けるのだけれど七星神のための床はない。特別に竈王床に拝礼はしない。
子供は1男1女で故郷に行ったことはない。故郷には父母が譲ってくれた自分の財産があるのだけれど甥たちが見てくれている。毎年草刈りの時ごとに参加するのだけれど生い立ちが仕事をしないで楽に暮らそうとして不憫に思っている。それで、もしも、子供たちがそれを学ぶだろうかと思い故郷に連れていかなかった。息子は医者、娘は英語の教師なのだけれど韓国語が全くわからない。日本式のまま自分は彼らは所得があり、一定額を食事費としてもらっている。甥たちはこのような私を見てひどすぎると思っているのだけれど私は当然だと思う。この時のもらう食事費は彼らの結婚費として使う。
事例4(姜泰三、68歳 下関市竹崎町)
患者の様態がよくないなら病院へ移す。病院で殞命になると子供と親戚たちが来て元味を行い、水を飲ませた。死亡すると医者が家族たちを病室から出るように言い、医者と看護師が初終の礼をする。死体を消毒して鼻と耳の穴を綿で詰めてきれいに化粧をさせた後新しい服に着替えさす。そして家族に終了したことを知らすと家族は霊安室に死体を移し葬儀社に連絡する。葬儀社は棺を持ってきて死体を入棺し車に乗せてお寺へ移す。葬儀社は亡者のための家を新しく作り棺を葬る。
家族がいる場合は病院で殞命するとすぐ葬儀社に連絡してくるまで死体を寺へ移す。葬儀社は到着するとすぐにお寺に電話をかけて余裕があるかを調べて亡人を葬るところを探す。家族は葬儀社に葬儀順序の全てのことを任し必要な費用を契約する。棺の良い悪い、亡者が着る服、読経をあげてくれるお坊さんの数、亡者のための家の大きさなどを決めて契約したように成すようになる。
亡者がお寺に到着すると亡人が着ていたチョゴリを持って庭へ出て‘日は何日、姓は何々、年はいくつ、000 服服服’と言ってその服を死体の上にかけると、家族親族が曲をする。お寺で死体を消毒してきれいに化粧をさした後男子は洋服、女子は韓服に着替える。この時の家族たちが死体を縛ってくれと言うと七カ所縛る。葬儀社が棺を持ってきて長子は頭を、上の婿は胴体を、末子は足を持って棺に入れさす。そして、棺のふたを閉めて固定させず顔にはハンカチをかぶせる。棺の上には銘旌をかぶせておく。
棺を葬った祭壇の左側に床を準備して成服祭を行う。喪制は洋服の上に頭巾をかぶり喪服を重ね着する。喪服だけ着て喪杖台を持ったり足にひもを結ぶことはない。女性は巾帯をしないで粗織りの布を使う。これは市場で買うことができ、家で作ることはない。成服祭の才物は祭祀の時と同じで順序も祭祀と同じである。祭儀が終わると徹床をして、日本式に準備された棺の前で弔問客を迎える。この時から通夜が始められるのである。男性たちは香をあげ拝礼する。女性たちは横に立って曲をする。寺では定められた時間にお坊さんが出てきてお経を上げ、亡人のために祈祷するのだけれど、この時を除くと全く干渉はしない。弔問客たちを女性たちは豚肉、酒、キムチなどの食べ物でもてなす。
次の日、火葬場に予約した時間近くになると葬儀社の指示に従って棺の頭を門の外に向けるようにして棺のふたを開ける。そして顔に被さっている布をとって子供たちに最後のお別れの挨拶をさせる。子供たちは亡者の顔を見て菊の花一輪と陀羅尼経などを入れる。亡者と親分がいる者はほとんどが花を入れるので棺の中がぎっしりと満たされる。それが終わると棺のふたを閉めて、一番の喪制に釘を打たせる。一本を打つと、葬儀社が全部うち銘旌をかぶせて仕上げる。家族は簡単な床を準備する。この床は祭祀床のように祭物を供えて親戚と喪制たちが酒盃を供えて別れの挨拶をするのである。
祭りが終わると葬儀社の指示に従い写真は息子が持ち、位碑は娘が、婦人は棺の両側にたててあった木を持って前に立ちその後を親戚たちが棺を運ぶ。棺を車に載せて車が動き始めると、親戚は亡人が普段使っていた茶碗を持ってきて床に思いっきり投げて割る。葬儀車には家族の一部と僧侶が乗って、残りは個人の車を利用して火葬場へ行くのだけれど、大部分が家族と親戚だけである。親戚たちは火葬場に参席した人たちのために豚肉、酒、キムチなど食べ物の準備をしていく。友人たちは通夜を利用して火葬場まで行くことは希である。
火葬場では契約した順序どうりに事が進められ、順番になると筒に半分くらい入れられた状態で僧侶は最後の読経をしてやり、家族たちは酒盞に酒をついで亡者に捧げる振りをして、その次に自分で少し飲む。この過程が終わると火葬が成される。この時、親戚たちは参席者たちに食べ物を出す。
火葬が終わると家族たちは焼骨を骨壺に入れてもう一度お寺に行く。僧侶に葬礼が終わったことを知らせ、骨壺を頼み家に帰る。僧侶は家族に代わって亡者のために祈祷する。
家で亡者のために虞祭をする準備がされている。女性の親戚たち、火葬場にいかない方たちは先に家に帰って食べ物を準備するためである。祭床は祭祀の時のように用意し順序も同一である。祝は初虞祭、祭虞祭、三虞祭と異なっている。祝文は読み書きを知らないので大阪でもらってきたものを保管しておき使用する。屏風を立てて、喪制たちが曲をし、祭祀の時のように祭物を準備し、参神、降神、初献、読祝、亜献、終献、挿匙、添酌、献茶、雑食の順に行う。読み方を知らないので読祝をすることはなく、撤饌の時は燃やすだけである。初献祭が終わるとご飯と煮物、野菜、炙などの祭物を新しく供え直し、祭献祭を行う。次はやはり祭物を供え直し三献祭を行う。三献祭が終わると皐複した上着は屏風に掛けたり箱に入れて床の前に置き、1年後モリチャン(頭に結っていたホンゴプッサリ)と一緒に燃やしてしまう。朔望祭は大部分毎月一日に行い、卒哭祭はしない。一日と十五日に行うのを一日にだけ行うのである。
殞命して一年が過ぎると、小祥を行う。親戚たちが集まって祭祀の時と同じで撤饌の時に祀を燃やすだけで読祝はない。これは読み方を知らないからである。小喪の時も祭りが終われば祭物を全て供え直し、大祥祭を行う。祭儀が終わると皐複していた服とモリチャンを燃やす。
大祥後三ヶ月のうちに祭を行う。他の祭りは兼ねてしてもこの祭だけは必ず別に行う。喪制は頭巾をかぶり、祭祀の時のように祭物を供えて行う。大祥の時間では生きている人に対するようにご飯は左側に煮物は右側であったけれど祭からはその反対にする。仮葬、改葬、治山のような過程は埋葬の風習がないので源泉的に封鎖された。大祥後からは祭祀を行う。
事例5(尹惠淑 50歳、北九州市八幡西区)
提報者は韓国で大学に通っていて夫と出会い結婚した。夫の父は西帰浦で長男である。子供は5兄弟でみんな大阪で出生し、大阪、東京、九州などの各地で暮らしている。夫の父母は年がいくと故郷に戻って暮らしていたが亡くなり、祭祀は大阪と故郷でそれぞれ行うのだけれど、大阪では写真を置いて故郷では位牌を置いている。父母は貯めたお金で土地を買い祖上をまつり、自分もそこに埋められている。なのでお葬式と祭祀は済州島式でしかない。
日本ではいくらか前に二番目の叔父が亡くなったために初めて詳しく日本でする在日済州人の葬式を見ることができた。
病院でなくなると綿で鼻と耳をふさぎ、壽衣は専門家たちが来て着替えさせる。葬儀社が来て葬儀場へ亡者を移し、入棺すると祭壇を準備し弔問客を迎える準備をする。弔問客が来る前に済州式で先ず祭祀を行う。祭壇の横に小さい床を準備し、成服祭を行った後撤床してしまう。喪制は赤い礼服の上に済州式喪服を着て頭巾をかぶり杖を持つ。大阪では済州式の祭物を全て手に入れることができるので済州と必ず同じである。祭儀が終わると午後7時頃から通夜が始まるので喪服を脱いで礼服を着たまま弔問客を迎える。彼らは12時前に帰り、残りの人たちは次の日の朝までお香を消してしまわないように注意する。次の日の12時に火葬場に予約していたので10時頃に祭祀を行った。そして写真は婦人が、位牌は長男が持ち霊柩車に乗って、残りの親戚たちは別の車で行った。棺の中には花、紙銭だけでなく生前好きだった礼服を入れた。亡人は囲碁が好きだったので碁石もいくつか入れた。弔問客のための食べ物は海の魚を入れたワカメスープ、ゆでた豚肉、またアカマダイをおかずとして出した。
棺を車に載せ動き始めると茶碗を叩き割るのだけれどこれはこの世と因縁を切るためにするものと知っている。
火葬場ではお坊さんが来て読経をして棺が筒の中に入れられる前に食べ物のない簡易床を準備して紙コップに酒を少し注ぎ棺に向けて供える振りをした後自分が少し飲み、下ろす。
火葬が終わると焼骨を骨壺に入れて写真、名前、生年月日、死亡日時を書いて寺に行ってお坊さんの説教を聞きすぐ七日祭を行う。日本では四十九日目の祭祀を行うと亡者に対する葬礼儀礼が全て終わるのである。親戚が東京、九州などいろいろなところからやってきてやるので済州式のとうりにはできない。
骨壺を寺に任せ、七日祭を行った後、家に戻って献祭を行う。この時はもう一度礼服の上に喪服を着て喪杖台をもった。順序は祭祀と同じで初虞から祭虞、三虞としていくとき祝をつけずそのまま置きっぱなしの食べ物だけ新しく供え直した。また、祭祀の終わりに雑食をしなかった。祭祀は12時になってから行祭をする。
そして、日本の済州人たちが済州式を守れないと不思議に思うことはない。彼らは済州式を全く習わなかったのに知ろうと努力している。日本で暮らし死ぬので職場をはじめとするいろいろな集まりで関係する友人たちがくるので、韓国式だけではできない。それで日本式祭祀を行う1時間くらい前に韓国式で祭祀を行うのはむしろ故郷に対する意識が強い礼と思う。
提報者は韓国で成長し、火葬するというのを理解できなかったけれど、むしろ死ぬと火葬して気に入った寺に付託して祈り子供たちがいつも来たければ来て会えるようにしようと夫と合意した。また、日本で暮らし子供教育をさせて平和に家で暮らすことができたし、他人にもたくさん助けてもらったのでここで奉仕して暮らさなければいけないと思う。
事例6(金容海 66歳、大阪市北区中崎)
20歳の時に大阪に渡ってきて、1950年から86年まで日本の学校で勤務し、今は居留民団文教部長を兼任している。
病気になると家で殞命するのではなく病院で殞命する。死体を霊安室に移し、葬儀社に連絡をして死体を葬る部屋が空いてるか遺族たちが泊まる部屋があるかを尋ねる。空いてるところがあれば葬儀社は霊柩車で死体を移す。済州人は教会信者を除いて宗教に拘碍を受けない。
死体を寺に移すとすぐ死体を屏風で覆い、床を準備し成服をする。皐複はない。日本での成服は葬儀社が棺をもってくると行われるのだけれど葬儀社が護喪の服をそろえて着せ、入棺するのである。いわゆる、入棺が成服というわけである。葬儀社は専門家なので韓国式葬礼の順序をよく知っていて「何故、そうなのか」理由は知らないが護喪の服を着替えさせ銘旌をつかっている。一世代は伝統式に従おうとするが、二、三世代は伝統式を知らないので洋服を着て腕章をはめる。喪服は着ないで親戚が強要すると頭巾をかぶりもする。しかし、日本人の弔問客に喪服は不釣り合いで、着ないようにする。
夕方になり通夜が始められると亡人と関係のある人が大部分訪ねてきて冥福を祈り、次の日の葬式にはほとんど参加しない。亡人と相当縁故が深い人たちと家族親知だけが参加するぐらいである。
弔問客は職場、同僚、親知、親戚なのだけれど、世代が代わると郷里出身たちはほとんど参席しない。職場のために忙しいので知らせるのはかえって迷惑をかけると思っている二世、三世が多い。全てのこと葬儀社が責任を持っているので家族中心に成されている。一家親戚がいなくても葬礼を行うことができるからだ。そうなので、かえって日本人の葬儀社に感謝の気持ちをもっている。一世代は幼いときに渡日したり、主に学べなかった人たちで、職業は労働、日雇い労働が大部分で昔の祭法を知ることもできず余裕がないのだけれど、どうやって一家親族に伝統葬祭礼法を教えられるだろうか。
他のことは全てしようとしないしないのだが、銘旌は必ず書く。これは棺の上におおっているもので「学生金公之柩又は孺人金氏之柩」とかく。日本の教育を受けた人は亡人が学生ではないのに何故学生と書くのかと疑問を表する。
祭物は済州式と必ず同じだ。日本のお寺では肉を供えることはできなくなっている。なのだが、済州人がしばしば訪ねて来て殯所を準備し、自分たちのやり方は肉を供えなければならないのだといって供えてもお坊さんは知らない振りをする。即ち、仏像の前に死体を置き、祭壇を準備し、肉を供えるのである。もし、供えさせなければ別の所にいってしまうためである。収入のために日本のお寺が受容するのである。
済州人は生野区に三万人以上いるにも関わらず、葬儀社の意志どうり葬儀を行う。日本のお坊さんが来て読経し、弔書、弔電を朗読して火葬場へ行く。火葬後遺骨を骨壺に入れて日本のお寺に任せて家に帰っていっぺんに三虞祭を行う。紙榜は「学生府君神位又は孺人(本貫)0氏神位」と書いているのだが、家によって本貫を書きもするし、書かないこともある。三虞祭祝は次のとうりだ。
維歳次干支 月干支朔 日干支00
敢昭告于
顕考学生府君 日月不居 奄及虞祭
時俗順従 式遷典礼 初再三虞 一時竝行
夙興夜處 哀慕不寧
謹以 清酌庶羞 哀薦虞事 尚
饗
このようにみると伝統式は成服祭と三虞祭だけである。
三虞祭を行うと朔望祭を行わなければいけないのだが、学校、職場のために毎月一日に行う。最近は毎月第一日曜日を選び行っている。また、家に日本の仏壇をつっくって亡人を祭ることがある。清楚なためである。なのだが、済州式に床を作るととてもつまずくし、煩わしいために火葬後家に殯所を据えることはない。
小祥は一年後祭祀のように行うのだが、祝と告げて拝礼だけする実情である。哭をするのは隣に申し訳ないし、騒音が漏れてしまうからだ。20年前は会社から休暇までもらって一家親戚、郷里の人までみんな参加して朝、昼、夕を床に供えて祭りを行ったが今は家族だけでやる。
小祥が終わるとご飯だけ供え直し、大祥の祝を告げてもう一度ご飯だけ供え直し、 祭祝を告げて終わる。すぐ一年になると まで終わり、脱喪するのである。小祥だとか大祥だとか哭をしないので、卒哭祭はない。小、大祥(又は 祭を兼ねる)合祭祝は次のとうりである。
小・大祥(又は 祭を兼ねる)合祭祝
維歳次干支 月干支朔 日干支00(奉祀者名)
敢昭告于
顕考学生府君 日月不居 奄及忌日
時代遷易 随於風潮 大小祥祭(又兼 祭)
一時竝行 祭礼違序 哀遷祥事 尚
饗
解放後10、20年ぐらいまでは一世代たちがいて、彼らが祝を書いて読んでいたが、今はほとんどわからない。現代教育を受けた後孫たちが父母がする祭祀に対する意味を論理的に考えて祭祀に対する現代的解釈を加える必要を感じて88年に済州島親睦会で『祭祀の伝統と望ましやり方』(東方文化、1989)を出した後に『知っておかなければ行けない祭祀』(東方文化、1990)という名前でSRI,東京光山金氏宗親会、民団大阪府地方本部、済州島関西済州島民協会で重版された。
<祭祀>
門前床はなく当日祭を行う。祭物や順序は済州島と同一なのだけれど他の家では紙榜を使う代わりに位牌を使う。前面には顕考学生府君神位、後面には死亡日、生年月日などを書いておく。祭祀はたいてい祖父の代まで行うのだが、若い世代は父母の代の時だけすることことが多い。
表善邑、南原邑、金寧出身の家の祭祀に参席した時だと、門前床の代わりに亡星床といって膳よりも大きく思えた。
故郷で祭祀を行う場合には、一般的に紙榜を書いて供えない。両方でやらないというためである。
たいてい、祖父の代まで祭祀を行うので長孫が死んで次の世代へと祭祀が受け継がれるときには次のような止祭を告げる。
止祭祝
維歳次 干支 月干支朔 日干支 考孫00(奉祀者名)
敢昭告于
顕高(曽)祖考学生府君
顕高(曽)祖妣孺人0氏 喪制有期追遠無及
式遷典礼 祀止四代(三代) 不勝感愴
謹以 清酌庶羞 百排告辞 尚
饗
<節祀(名前)>
日本では陰暦ではなく陽暦で祭止を行う。寒食、端午は消えてしまってから長いし、秋夕と正月は陰暦で行う。この時は飲食を準備して家で行い、墓地に行って碑石をきれいに掃除する。日本の秋夕はお盆といって、三日間行うので休暇を合わせて子孫たちと墓地を訪ねるのである。陰暦を選び、祖上の祭止を行うのは現実的に難しい。
祭祀を行おうとするならばちょっとでは済まないお金がいるのだが、子供の世代は祭祀を何故するのかといって不満を持っている。自分たちが勉強するのに必要なお金はくれないで、祭祀の時にはないお金まで準備して行うためである。
日本で生活しようとするなら、帰化するのが便利だという考える人の数が増えている。 よって、たぶん一世代が死ぬと祭祀は次第になくなったり、父母に限られるであろう。儒教に対する体系的知識を持つ人は少なく、一世代が後孫に必ず教えなければいけないという意識が弱まっているのがその理由であろう。しかし、家によっては祭祀の時族譜を広げて子孫たちに説明してあげることもある。
朝鮮時代済州島の行政区域は済州牧、旌義縣、大静縣であったので、この地域の済州島出身者を対象とする。実際、彼らが渡日して行う葬礼と祭祀の実状を見てみると次の通りである。
事例1(姜辛五、84歳 福岡市博多区上川端町)
大静13年、13歳で渡日した姜辛五は一世として初めは大阪で生活していた。福岡では衣類商をしていて生活は裕福な方である。居留民団団長までしていた経歴があり、今は顧問として活動中である。
私は8男妹中の末っ子で日本には一人できた。大阪で大変だったので日本人がやらないような仕事をして暮らし戦争が終わると故郷に戻ろうと下関に行ったのだけれど、済州島へ行く途中お金だけ盗まれて水葬されてしまうという噂があり行けずに留まるようになったのが福岡である。妻は昭和15年、海女の仕事をしにき、その後結婚した。子供は三男一女と多い方で祭祀の時にはみな参席する。
祖上祭祀は故郷で行うのだけれど、私は日本で父母の祭祀の日になると、心残りに祭祀を行う。祭物はご飯と煮物、果物、串焼き、野菜など済州都道いつである。魚は鱗をはがし内蔵を取りだし塩漬けにして串に通しまっすぐにして焼いて祭床に供えるときは串をはずす。故郷でもこのようにした。
祭祀の日になるとよる八時頃から祭物を供える。紙榜はない。父母が早く亡くなったので写真もない。字を知らないので紙榜は書けない。陳設は左脯右醢、魚東肉西、紅東白西などの原則により祭床の前には香床を置き、茅沙と香炉、香盒などを置くのだが、茅沙は正式のものではなくお皿にワラビを三本のせて茅沙の代わりとする。門前祭床はなく、祭物は誠意と考えられているので可能な限りおいしいものをたくさん供える。それまでは夜12時になると祭祀を行ったけれど子供たちは仕事、孫たちは学校があるため参席しづらくなったので、時間をずらすしかなかった。それで祭祀の時「母、父、子孫が参席しづらくなってからは9時に祭祀を行うので参席してたくさん召し上がれ」と告げた後から9時になると行祭する。これが道理ではないとわかっているのだけれど、私一人だけで祭祀を行うこともできず、子孫がいなければならないためにどうすることもできない。それで何度か祭祀を行うたびにお酒を差し上げた後「正式にできないことを許していただきたい」と何度かお詫びしている。
事例2(金達圭、74歳 福岡市博多区)
筆者が会った金達圭は74歳にも関わらず健康に思えたが裕福な方ではなかった。子供もいず、死んだら故郷に戻って埋めてもらいたいけれど故郷の親戚たちは草を刈り祭祀をするなどお世話になるようなので妻には火葬して海に巻いてくれと言ったという。
金達圭は5兄弟のうち三番目で8歳の時に大阪に渡ってき、7ヶ月仮に暮らし済州へ戻って暮らしたのだけれど生活が苦しくまた13歳の時に村の人によって渡日して大阪で暮らした。済州には末っ子がいて、今自分が住んでいるところから近いところに四番目が住んでいる。二人の兄夫婦は日本で生活してたけれど戻っていった。遠く離れていたために火葬した後に参加することができた。
二番目の兄は息子がいず、済州出身の娘婿が代わりに祭祀を行っていて、上の兄の家族は長男が行っている。亡くなった後何年間かは亡くなった日の前日に祭祀を行っていたけれどその後は日曜日を選び祭祀を行うので自分は参席していない。例えば火曜日が祭祀の日ならその前の日曜日に、金曜日が祭祀の日なら次の日曜日に祭祀を行う。霊魂がない日に祭祀を行うのに参席してもしょうがないと思っている。
故郷出身の妻と別れて、40歳すぎに日本人女性と再婚して暮らしている。妻は韓国式祭祀に対して拒否感を持ってはいなく、父母の祭祀の日になると故郷に行けないので妻と自分が父母の祭祀を行っている。祭物の準備は自分が教えてあげ、字がわからないので紙榜はなく写真を置いている。祭物はご飯渡煮物、お酒、果物、串焼き、野菜だけで簡単にする。祖父以上は故郷で弟たちが行い、祭祀の日になると気持ちが楽でないので日本でもう一度行うのである。祭祀を故郷と日本で一緒に行うようになってからしばしば体の調子が悪く占ってみると二度祭祀を行うのが原因というので今は行っていない。
祖上似たいして草刈り、祭祀を一度も行わなかったためにいつも申し訳なく思い故郷の弟に感謝の意を込めて家を建ててあげた。長孫が祭祀と草刈りを担当しなければいけないのだが上の兄が亡くなりその子供はしようとしないので自分の責任と思う。
事例3
高光作(64歳、福岡市東区)
私は17歳の時に大阪に渡ってき日本人がやらない仕事をしながら暮らした。そうやって食べて生活できたためである。なので知り合いの人がいる大阪では悪いことをすることができないので知らないところへ行こうということで福岡に留まることとなった。自分は7男妹中の長男だけれども日本には自分しかいないために故郷で祭祀を任せている。妻は日本人なのだけれど死ぬまで父母、祖父母の祭祀を行った。
紙榜は書き方がわからないので写真を置いている。祭器は済州で買ってきた。祭物は自分が教えてやり済州島式で全て整えて夜12時になると祭祀を行っていた。ただ、ムクがなかったので天ぷらを代わりに供えた。しかし今は妻がいないので祭祀を行うことができず父母の祭祀の日になると済州島に行っている。祖上のいない子孫がない法なので祭祀の日になってご飯を供えられない状態になると水一杯でも汲んでおくのが祖上のためだと思う。毎朝仏壇に香をたてて父母にその日のことを報告する。祖上に対する考えは決まったに違いない。妻がいるときの祭祀は先ず膳を準備してその横に門全床を準備した。先ず門前祭を行った後倖祭を行った。祭官は自分と息子だけなので自分が執事の役割まで全てやった。台所には別に竈王床を準備した後本祭祀が終わると片付けるのだけれど七星神のための床はない。特別に竈王床に拝礼はしない。
子供は1男1女で故郷に行ったことはない。故郷には父母が譲ってくれた自分の財産があるのだけれど甥たちが見てくれている。毎年草刈りの時ごとに参加するのだけれど生い立ちが仕事をしないで楽に暮らそうとして不憫に思っている。それで、もしも、子供たちがそれを学ぶだろうかと思い故郷に連れていかなかった。息子は医者、娘は英語の教師なのだけれど韓国語が全くわからない。日本式のまま自分は彼らは所得があり、一定額を食事費としてもらっている。甥たちはこのような私を見てひどすぎると思っているのだけれど私は当然だと思う。この時のもらう食事費は彼らの結婚費として使う。
事例4(姜泰三、68歳 下関市竹崎町)
患者の様態がよくないなら病院へ移す。病院で殞命になると子供と親戚たちが来て元味を行い、水を飲ませた。死亡すると医者が家族たちを病室から出るように言い、医者と看護師が初終の礼をする。死体を消毒して鼻と耳の穴を綿で詰めてきれいに化粧をさせた後新しい服に着替えさす。そして家族に終了したことを知らすと家族は霊安室に死体を移し葬儀社に連絡する。葬儀社は棺を持ってきて死体を入棺し車に乗せてお寺へ移す。葬儀社は亡者のための家を新しく作り棺を葬る。
家族がいる場合は病院で殞命するとすぐ葬儀社に連絡してくるまで死体を寺へ移す。葬儀社は到着するとすぐにお寺に電話をかけて余裕があるかを調べて亡人を葬るところを探す。家族は葬儀社に葬儀順序の全てのことを任し必要な費用を契約する。棺の良い悪い、亡者が着る服、読経をあげてくれるお坊さんの数、亡者のための家の大きさなどを決めて契約したように成すようになる。
亡者がお寺に到着すると亡人が着ていたチョゴリを持って庭へ出て‘日は何日、姓は何々、年はいくつ、000 服服服’と言ってその服を死体の上にかけると、家族親族が曲をする。お寺で死体を消毒してきれいに化粧をさした後男子は洋服、女子は韓服に着替える。この時の家族たちが死体を縛ってくれと言うと七カ所縛る。葬儀社が棺を持ってきて長子は頭を、上の婿は胴体を、末子は足を持って棺に入れさす。そして、棺のふたを閉めて固定させず顔にはハンカチをかぶせる。棺の上には銘旌をかぶせておく。
棺を葬った祭壇の左側に床を準備して成服祭を行う。喪制は洋服の上に頭巾をかぶり喪服を重ね着する。喪服だけ着て喪杖台を持ったり足にひもを結ぶことはない。女性は巾帯をしないで粗織りの布を使う。これは市場で買うことができ、家で作ることはない。成服祭の才物は祭祀の時と同じで順序も祭祀と同じである。祭儀が終わると徹床をして、日本式に準備された棺の前で弔問客を迎える。この時から通夜が始められるのである。男性たちは香をあげ拝礼する。女性たちは横に立って曲をする。寺では定められた時間にお坊さんが出てきてお経を上げ、亡人のために祈祷するのだけれど、この時を除くと全く干渉はしない。弔問客たちを女性たちは豚肉、酒、キムチなどの食べ物でもてなす。
次の日、火葬場に予約した時間近くになると葬儀社の指示に従って棺の頭を門の外に向けるようにして棺のふたを開ける。そして顔に被さっている布をとって子供たちに最後のお別れの挨拶をさせる。子供たちは亡者の顔を見て菊の花一輪と陀羅尼経などを入れる。亡者と親分がいる者はほとんどが花を入れるので棺の中がぎっしりと満たされる。それが終わると棺のふたを閉めて、一番の喪制に釘を打たせる。一本を打つと、葬儀社が全部うち銘旌をかぶせて仕上げる。家族は簡単な床を準備する。この床は祭祀床のように祭物を供えて親戚と喪制たちが酒盃を供えて別れの挨拶をするのである。
祭りが終わると葬儀社の指示に従い写真は息子が持ち、位碑は娘が、婦人は棺の両側にたててあった木を持って前に立ちその後を親戚たちが棺を運ぶ。棺を車に載せて車が動き始めると、親戚は亡人が普段使っていた茶碗を持ってきて床に思いっきり投げて割る。葬儀車には家族の一部と僧侶が乗って、残りは個人の車を利用して火葬場へ行くのだけれど、大部分が家族と親戚だけである。親戚たちは火葬場に参席した人たちのために豚肉、酒、キムチなど食べ物の準備をしていく。友人たちは通夜を利用して火葬場まで行くことは希である。
火葬場では契約した順序どうりに事が進められ、順番になると筒に半分くらい入れられた状態で僧侶は最後の読経をしてやり、家族たちは酒盞に酒をついで亡者に捧げる振りをして、その次に自分で少し飲む。この過程が終わると火葬が成される。この時、親戚たちは参席者たちに食べ物を出す。
火葬が終わると家族たちは焼骨を骨壺に入れてもう一度お寺に行く。僧侶に葬礼が終わったことを知らせ、骨壺を頼み家に帰る。僧侶は家族に代わって亡者のために祈祷する。
家で亡者のために虞祭をする準備がされている。女性の親戚たち、火葬場にいかない方たちは先に家に帰って食べ物を準備するためである。祭床は祭祀の時のように用意し順序も同一である。祝は初虞祭、祭虞祭、三虞祭と異なっている。祝文は読み書きを知らないので大阪でもらってきたものを保管しておき使用する。屏風を立てて、喪制たちが曲をし、祭祀の時のように祭物を準備し、参神、降神、初献、読祝、亜献、終献、挿匙、添酌、献茶、雑食の順に行う。読み方を知らないので読祝をすることはなく、撤饌の時は燃やすだけである。初献祭が終わるとご飯と煮物、野菜、炙などの祭物を新しく供え直し、祭献祭を行う。次はやはり祭物を供え直し三献祭を行う。三献祭が終わると皐複した上着は屏風に掛けたり箱に入れて床の前に置き、1年後モリチャン(頭に結っていたホンゴプッサリ)と一緒に燃やしてしまう。朔望祭は大部分毎月一日に行い、卒哭祭はしない。一日と十五日に行うのを一日にだけ行うのである。
殞命して一年が過ぎると、小祥を行う。親戚たちが集まって祭祀の時と同じで撤饌の時に祀を燃やすだけで読祝はない。これは読み方を知らないからである。小喪の時も祭りが終われば祭物を全て供え直し、大祥祭を行う。祭儀が終わると皐複していた服とモリチャンを燃やす。
大祥後三ヶ月のうちに祭を行う。他の祭りは兼ねてしてもこの祭だけは必ず別に行う。喪制は頭巾をかぶり、祭祀の時のように祭物を供えて行う。大祥の時間では生きている人に対するようにご飯は左側に煮物は右側であったけれど祭からはその反対にする。仮葬、改葬、治山のような過程は埋葬の風習がないので源泉的に封鎖された。大祥後からは祭祀を行う。
事例5(尹惠淑 50歳、北九州市八幡西区)
提報者は韓国で大学に通っていて夫と出会い結婚した。夫の父は西帰浦で長男である。子供は5兄弟でみんな大阪で出生し、大阪、東京、九州などの各地で暮らしている。夫の父母は年がいくと故郷に戻って暮らしていたが亡くなり、祭祀は大阪と故郷でそれぞれ行うのだけれど、大阪では写真を置いて故郷では位牌を置いている。父母は貯めたお金で土地を買い祖上をまつり、自分もそこに埋められている。なのでお葬式と祭祀は済州島式でしかない。
日本ではいくらか前に二番目の叔父が亡くなったために初めて詳しく日本でする在日済州人の葬式を見ることができた。
病院でなくなると綿で鼻と耳をふさぎ、壽衣は専門家たちが来て着替えさせる。葬儀社が来て葬儀場へ亡者を移し、入棺すると祭壇を準備し弔問客を迎える準備をする。弔問客が来る前に済州式で先ず祭祀を行う。祭壇の横に小さい床を準備し、成服祭を行った後撤床してしまう。喪制は赤い礼服の上に済州式喪服を着て頭巾をかぶり杖を持つ。大阪では済州式の祭物を全て手に入れることができるので済州と必ず同じである。祭儀が終わると午後7時頃から通夜が始まるので喪服を脱いで礼服を着たまま弔問客を迎える。彼らは12時前に帰り、残りの人たちは次の日の朝までお香を消してしまわないように注意する。次の日の12時に火葬場に予約していたので10時頃に祭祀を行った。そして写真は婦人が、位牌は長男が持ち霊柩車に乗って、残りの親戚たちは別の車で行った。棺の中には花、紙銭だけでなく生前好きだった礼服を入れた。亡人は囲碁が好きだったので碁石もいくつか入れた。弔問客のための食べ物は海の魚を入れたワカメスープ、ゆでた豚肉、またアカマダイをおかずとして出した。
棺を車に載せ動き始めると茶碗を叩き割るのだけれどこれはこの世と因縁を切るためにするものと知っている。
火葬場ではお坊さんが来て読経をして棺が筒の中に入れられる前に食べ物のない簡易床を準備して紙コップに酒を少し注ぎ棺に向けて供える振りをした後自分が少し飲み、下ろす。
火葬が終わると焼骨を骨壺に入れて写真、名前、生年月日、死亡日時を書いて寺に行ってお坊さんの説教を聞きすぐ七日祭を行う。日本では四十九日目の祭祀を行うと亡者に対する葬礼儀礼が全て終わるのである。親戚が東京、九州などいろいろなところからやってきてやるので済州式のとうりにはできない。
骨壺を寺に任せ、七日祭を行った後、家に戻って献祭を行う。この時はもう一度礼服の上に喪服を着て喪杖台をもった。順序は祭祀と同じで初虞から祭虞、三虞としていくとき祝をつけずそのまま置きっぱなしの食べ物だけ新しく供え直した。また、祭祀の終わりに雑食をしなかった。祭祀は12時になってから行祭をする。
そして、日本の済州人たちが済州式を守れないと不思議に思うことはない。彼らは済州式を全く習わなかったのに知ろうと努力している。日本で暮らし死ぬので職場をはじめとするいろいろな集まりで関係する友人たちがくるので、韓国式だけではできない。それで日本式祭祀を行う1時間くらい前に韓国式で祭祀を行うのはむしろ故郷に対する意識が強い礼と思う。
提報者は韓国で成長し、火葬するというのを理解できなかったけれど、むしろ死ぬと火葬して気に入った寺に付託して祈り子供たちがいつも来たければ来て会えるようにしようと夫と合意した。また、日本で暮らし子供教育をさせて平和に家で暮らすことができたし、他人にもたくさん助けてもらったのでここで奉仕して暮らさなければいけないと思う。
事例6(金容海 66歳、大阪市北区中崎)
20歳の時に大阪に渡ってきて、1950年から86年まで日本の学校で勤務し、今は居留民団文教部長を兼任している。
病気になると家で殞命するのではなく病院で殞命する。死体を霊安室に移し、葬儀社に連絡をして死体を葬る部屋が空いてるか遺族たちが泊まる部屋があるかを尋ねる。空いてるところがあれば葬儀社は霊柩車で死体を移す。済州人は教会信者を除いて宗教に拘碍を受けない。
死体を寺に移すとすぐ死体を屏風で覆い、床を準備し成服をする。皐複はない。日本での成服は葬儀社が棺をもってくると行われるのだけれど葬儀社が護喪の服をそろえて着せ、入棺するのである。いわゆる、入棺が成服というわけである。葬儀社は専門家なので韓国式葬礼の順序をよく知っていて「何故、そうなのか」理由は知らないが護喪の服を着替えさせ銘旌をつかっている。一世代は伝統式に従おうとするが、二、三世代は伝統式を知らないので洋服を着て腕章をはめる。喪服は着ないで親戚が強要すると頭巾をかぶりもする。しかし、日本人の弔問客に喪服は不釣り合いで、着ないようにする。
夕方になり通夜が始められると亡人と関係のある人が大部分訪ねてきて冥福を祈り、次の日の葬式にはほとんど参加しない。亡人と相当縁故が深い人たちと家族親知だけが参加するぐらいである。
弔問客は職場、同僚、親知、親戚なのだけれど、世代が代わると郷里出身たちはほとんど参席しない。職場のために忙しいので知らせるのはかえって迷惑をかけると思っている二世、三世が多い。全てのこと葬儀社が責任を持っているので家族中心に成されている。一家親戚がいなくても葬礼を行うことができるからだ。そうなので、かえって日本人の葬儀社に感謝の気持ちをもっている。一世代は幼いときに渡日したり、主に学べなかった人たちで、職業は労働、日雇い労働が大部分で昔の祭法を知ることもできず余裕がないのだけれど、どうやって一家親族に伝統葬祭礼法を教えられるだろうか。
他のことは全てしようとしないしないのだが、銘旌は必ず書く。これは棺の上におおっているもので「学生金公之柩又は孺人金氏之柩」とかく。日本の教育を受けた人は亡人が学生ではないのに何故学生と書くのかと疑問を表する。
祭物は済州式と必ず同じだ。日本のお寺では肉を供えることはできなくなっている。なのだが、済州人がしばしば訪ねて来て殯所を準備し、自分たちのやり方は肉を供えなければならないのだといって供えてもお坊さんは知らない振りをする。即ち、仏像の前に死体を置き、祭壇を準備し、肉を供えるのである。もし、供えさせなければ別の所にいってしまうためである。収入のために日本のお寺が受容するのである。
済州人は生野区に三万人以上いるにも関わらず、葬儀社の意志どうり葬儀を行う。日本のお坊さんが来て読経し、弔書、弔電を朗読して火葬場へ行く。火葬後遺骨を骨壺に入れて日本のお寺に任せて家に帰っていっぺんに三虞祭を行う。紙榜は「学生府君神位又は孺人(本貫)0氏神位」と書いているのだが、家によって本貫を書きもするし、書かないこともある。三虞祭祝は次のとうりだ。
維歳次干支 月干支朔 日干支00
敢昭告于
顕考学生府君 日月不居 奄及虞祭
時俗順従 式遷典礼 初再三虞 一時竝行
夙興夜處 哀慕不寧
謹以 清酌庶羞 哀薦虞事 尚
饗
このようにみると伝統式は成服祭と三虞祭だけである。
三虞祭を行うと朔望祭を行わなければいけないのだが、学校、職場のために毎月一日に行う。最近は毎月第一日曜日を選び行っている。また、家に日本の仏壇をつっくって亡人を祭ることがある。清楚なためである。なのだが、済州式に床を作るととてもつまずくし、煩わしいために火葬後家に殯所を据えることはない。
小祥は一年後祭祀のように行うのだが、祝と告げて拝礼だけする実情である。哭をするのは隣に申し訳ないし、騒音が漏れてしまうからだ。20年前は会社から休暇までもらって一家親戚、郷里の人までみんな参加して朝、昼、夕を床に供えて祭りを行ったが今は家族だけでやる。
小祥が終わるとご飯だけ供え直し、大祥の祝を告げてもう一度ご飯だけ供え直し、 祭祝を告げて終わる。すぐ一年になると まで終わり、脱喪するのである。小祥だとか大祥だとか哭をしないので、卒哭祭はない。小、大祥(又は 祭を兼ねる)合祭祝は次のとうりである。
小・大祥(又は 祭を兼ねる)合祭祝
維歳次干支 月干支朔 日干支00(奉祀者名)
敢昭告于
顕考学生府君 日月不居 奄及忌日
時代遷易 随於風潮 大小祥祭(又兼 祭)
一時竝行 祭礼違序 哀遷祥事 尚
饗
解放後10、20年ぐらいまでは一世代たちがいて、彼らが祝を書いて読んでいたが、今はほとんどわからない。現代教育を受けた後孫たちが父母がする祭祀に対する意味を論理的に考えて祭祀に対する現代的解釈を加える必要を感じて88年に済州島親睦会で『祭祀の伝統と望ましやり方』(東方文化、1989)を出した後に『知っておかなければ行けない祭祀』(東方文化、1990)という名前でSRI,東京光山金氏宗親会、民団大阪府地方本部、済州島関西済州島民協会で重版された。
<祭祀>
門前床はなく当日祭を行う。祭物や順序は済州島と同一なのだけれど他の家では紙榜を使う代わりに位牌を使う。前面には顕考学生府君神位、後面には死亡日、生年月日などを書いておく。祭祀はたいてい祖父の代まで行うのだが、若い世代は父母の代の時だけすることことが多い。
表善邑、南原邑、金寧出身の家の祭祀に参席した時だと、門前床の代わりに亡星床といって膳よりも大きく思えた。
故郷で祭祀を行う場合には、一般的に紙榜を書いて供えない。両方でやらないというためである。
たいてい、祖父の代まで祭祀を行うので長孫が死んで次の世代へと祭祀が受け継がれるときには次のような止祭を告げる。
止祭祝
維歳次 干支 月干支朔 日干支 考孫00(奉祀者名)
敢昭告于
顕高(曽)祖考学生府君
顕高(曽)祖妣孺人0氏 喪制有期追遠無及
式遷典礼 祀止四代(三代) 不勝感愴
謹以 清酌庶羞 百排告辞 尚
饗
<節祀(名前)>
日本では陰暦ではなく陽暦で祭止を行う。寒食、端午は消えてしまってから長いし、秋夕と正月は陰暦で行う。この時は飲食を準備して家で行い、墓地に行って碑石をきれいに掃除する。日本の秋夕はお盆といって、三日間行うので休暇を合わせて子孫たちと墓地を訪ねるのである。陰暦を選び、祖上の祭止を行うのは現実的に難しい。
祭祀を行おうとするならばちょっとでは済まないお金がいるのだが、子供の世代は祭祀を何故するのかといって不満を持っている。自分たちが勉強するのに必要なお金はくれないで、祭祀の時にはないお金まで準備して行うためである。
日本で生活しようとするなら、帰化するのが便利だという考える人の数が増えている。 よって、たぶん一世代が死ぬと祭祀は次第になくなったり、父母に限られるであろう。儒教に対する体系的知識を持つ人は少なく、一世代が後孫に必ず教えなければいけないという意識が弱まっているのがその理由であろう。しかし、家によっては祭祀の時族譜を広げて子孫たちに説明してあげることもある。
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