新しき政治的使命 城大教授 奥平武彦

参考資料

京城日報 1940.9.25-1940.10.10(昭和15)

施政三十年・回顧と展望 (一~七)

来る十月一日は半島始政三十周年記念日-時は恰も光輝ある紀元二千六百年の麗秋、皇化に栄える半島の将来に宿命的な多幸が待っているように感じられる、長い三十年とはいえ、悠久の歴史に顧れば只その一齣にしか過ぎない、然しこの歴史の一齣に朝鮮が刻んだ皇道文化は恐らく開闢数千数万年の歴史に匹敵、人類史上奇蹟的発展と断定し得る、この皇化の跡と物心両面に亘り興亜に勇む聖戦下半島の逞しい建設調を識者にきき将来への飛躍に備えよう
(一) 半島文化の将来 城大教授 尾高朝雄 日本文化の移植培養
 始政三十周年を向え、我が朝鮮半島が東亜共栄圏建設の一基地として益々重きを加えつつある今日、半島文化の発展方向を見定め、その将来を卜することは、きわめて重要な事柄である。新なる時代の扉を開く事は、先ず以て政治及び経済というがごとき人間生活の切実面から着手される。しかし、若しも政治や経済の刷新に文化の再建が伴わないならば、呼号せられる新時代の体制の真の結実を見ることは出来ないであろう。
 戦火の衝撃を受けた大陸五億の民衆に建設の喜びを覚らしめるためには、物の糧と共に心の糧を与えねばならぬ
大陸にむかって心の糧の大量輸送を行わんとするならば、我々は単に文化的の在庫品を虫干して之に陶酔するに留らず、進んで新文化の創造に邁進せねばならぬ。現代の半島文化政策もまた、かかる東洋新文化運動の一翼として特殊の地歩を占めて行くという点に、その指標を求むべきである。
新なる発足
 故に半島の文化を問題とするということは、もとより単に朝鮮在来の文化、学芸を回顧研究するというがごとき狭隘な分野への蹐を意味してはならない。勿論、朝鮮にも在来の貴重な文化遺産がない訳ではない
これを保存し、その真価を明らかにするのも、確かに一つの意義ある仕事である。けれども、李朝末期の政治的衰頽と、その必然の帰結たる韓国併合の大事実とによって隔てられた朝鮮の過去の歴史は所詮過去の歴史であって、将来に向っての創造発展の母胎とはならない。
半島文化の問題は、併合によって一つの白紙に還元されたのである。そうして、爾来暫らくの間、無定向の状態に低迷したのちに漸く最近殊に満洲事変を第一段階とし支那事変を第二段階として、希望ある胎動と、それに伴う生みの悩みとを体験しようとしている。この新たなる発足は仰々いかなる目標に向けられるべきであろうか。
 いうまでもなく、半島の新文化運動は、日本文化を基礎とするものでなければならぬ。これは朝鮮が日本の大陸前進文化基地であり、また、半島民衆が大政翼賛の新鋭部隊たるべきことの当然の結果であるが、更に立ち入って考えるならば、日本文化がこれまで民情、習俗、伝統を異にして来た朝鮮半島に生きた根を下し得るということは、大陸に対する文化工作の試験台としてしかも日本文化の半島への移植培養は、日本固有の道徳思想の涵養に役立つばかりでなく、同時に広く東洋文化の源流に遡ぼる所以ともなるのである。周知の通り、日本文化の中には、永い歴史を通じて印度文化支那文化が多量に流れ込んで来ている。そうして、半島はかつてそれらの東洋文化東漸の通路として大きな役割を演じたのである。仏教は印度に始まって支那に興隆し朝鮮を通じて日本に渡った。儒教は支那に発達して朝鮮に入り、朝鮮において多分に形式的に流れている間に、日本に入って日本精神を豊饒化せしめた。
 いま日本文化が逆に西漸して、新たな東洋の光となって行くべきであるとするならば、半島が重ねてその大動脈きわめて重大な意義を有するのである。
 そのためには、先ずもって日本国民道徳の半島への浸潤透徹を図り、忠君愛国の崇高なるより、義理人情の機微に到るまで、半島民衆に理解咀嚼せしめ、その性格を陶冶し、その情操を純化せしめて行かなければならぬ。健全なる国民道徳の涵養は、豊かなる国民となることは、光栄ある歴史の再現といわなければならない。否、それは決して単なる歴史の再現たるばかりではない新時代の日本文化の上に更に支那の現代文化をも加味して、之をいわば輸出向きの新製品に加工することは、地理的、風土的の制約より見ての半島の将来の一使命と為し得るであろう。
 それと同時に、今日の東洋は決して西洋と隔絶した東洋ではない。自主自律の東亜共栄圏を確立することは西洋文化に対する東洋文化の鎖国を意味してはならない。現代の支那思想が如何に深く西洋思潮の影響を受けているかを見ただけでも、単なる復古的の文化運動のみを以てしては、到底今後の東洋人の精神を把握指導するに足りないことは、歴然たる事実といわねばならぬ。日本人が、将来もなお、哲学、科学、文芸、技術の各方面に亘って、文化を育培する不可欠の土壌である。文学、演劇、映画、ラヂオ等を通じてあらゆる機会に日本精神の真髄を半島に紹介移入することは、ただ半島人の皇国臣民化を促進するためばかりでなく、半島在住の内地人の日本的教養を高めるためにも、大いに助長奨励する必要があるであろう。

西洋文化の長所を採択摂取し、世界文化の綜合を企図するほどの宏量と気魄とを持たないなら

筆者紹介 尾高朝雄氏は東大法学部、京大文学部を経て京城市大教授となる、法学博士で世界的転換期に直面し現下日本法学界
は新しき創造に苦悩しつつあるとき半島にあって気を吐く少壮気鋭の法理哲学者である、著書に国家構造論、法哲学、独文社会体論等あり【写真=尾高教授】

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写真(尾高教授)あり 省略]


ば、東亜共栄圏の文化建設においても、大きな蹉跌に逢着することなしとしないであろう。
 その意味でも、脚下に踏む此の大地が天山南北路を越え、中央アジアを経て遠く欧州の土に連らなる我が半島は、内地とは自らに異る感慨を以て西洋文化とも親しみ得る筈であろう。広く知識を世界に求むるの必要は、決して明治時代に終ってはいないのである。
運動の推進力
 これら半島新文化運動推進力となるものは、実に教育である。朝鮮総督府は施政以来鋭意教学の拡充に努力し、その結果は飛躍的の進展を遂げ、近き将来における義務教育の実施も計画されている。その功労は大いに多とすべきであるが、文化の興隆が国家百年の大計であることを思うとき、なお刷新向上を必要とするものが少くない。その第一としては、教育者の待遇を改善し優秀なる人材を教学界に糾合し、創意工夫、以て溌刺として育英の聖業に邁進せしむるべきである。
第二には、文化研究所または教学研究所を設置し、半島教学の理論と実践とを総合的に検討指導せしむべきである、その他、高等師範教育への配慮、女子高等教育の強化等、幾多の緊急問題が数えられ得る、官民一体これらの諸問題の解決を図り、半島文化の将来に燦然たる展望を与うることこそ、正に刻下切実の要務であるとはいわなければならぬ。
2) 半島経済の歩み 城大教授 鈴木武雄
 日韓併合以来三十年、この記念すべき時にあたり、朝鮮経済の歩み来った足跡を顧み、更に将来におけるその展望を試みることは決して無駄なことではあるまい。
 総督施政以来、朝鮮に於ける各種産業生産物は、異常なる躍進を遂げた(明治四十三四年の統計は整備していないのがあるから大正元年を基準とする)左表の如く即ち各種生産物総計に於て、施政以来三十年間に六・二倍弱の激増を示しているが、この間における物価の騰貴を考慮に容れても、例えば鮮銀調査京城卸売物価指数は大正元年平均一一九、昭和十三年平均約二三七で約二倍弱の騰貴であるから、生産の数量的増加は三倍以上に上っていると見ることが出来るのである。

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図表あり 省略]

 この生産高の顕著な増加は、何と云っても半島経済の堅実な躍進を物語ってるものと謂わなければならぬが、尚、注目すべきことは、大正元年以来昭和六年に至る二十年間に朝鮮の生産額が金額において二・二五倍、物価騰貴を考慮に容れた数量指数において一・二一倍となっているのに、昭和六年以来昭和十三年に至る僅々八年間に、金額に於て二・七六倍、物価騰貴を考慮にいれた数量指数に於て一・六九倍という風に、過去二十年間の発達速度以上のものを最近十年の間に於て獲ち得ているということである。
 最近に於ける所謂『躍進』朝鮮経済の偽らざる如実の姿がここに見られるのであるが、かくの如き急速度の発展も決して唐突にもち来らされたものではなく、そこには施政三十年の営々たる経営が最近の内外情勢に刺戟されて遂に開花するに至ったと見なければならないのである。
『米の朝鮮』
 施政以後に於ける半島経済の発達は、ほぼ前表に示した如き時
期を画して今日に至っていると見ることが出来る、大正九年を第一段階の終りとなしたのは、第一には韓国政府時代の関税制度が併合後もこの年に至るまで据置かれたためであり、第二には内地資本の自由な進出により障害となった『会社令』がこの年まで存置せられたことであり第三には帝国食糧問題の解決に寄与すると云う高き理想の下に『産米増殖計画』が大正九年より実施を見るに至ったからである、即ち半島に於ける政治は既に大正八年に於て所謂『文化政治』の名の下に呼ばれる一転機が画せられたが、半島経済はその翌年大正九年に於て内鮮一体経済への巨歩を進めると共に、米穀産業中心経済へと一大再編成が行われたのである
爾来『米の朝鮮』としての動かすべからざる地位が築き上げられたことは周知の如く、これは帝国食糧需給の安全感に大きな貢献をなしたのみでなく、米の商品化の過程を通じて半島経済の根底をあらゆる角度から近代経済化するのに大いに役立ったのである。
 然るに昭和五、六年前後の世界的農業恐慌は、所謂『単種耕作型』農産諸国に大打撃を与え半島経済も亦その米穀中心産業がたとい世界経済に依存するものでなかったとはいえ、内地移出に依存するものであった関係上、ここに深刻な影響を受くるに至ったのである。各般の条件から見て、半島こそ帝国内に於ける最も米作適地であるが故に、この使命に半島が邁進することは固より必要でもあり且当然のことではあるが、しかし内外の情勢より見て端種耕作型産業政策の再検討も亦不可避であった、かくて、半島経済はまた一大転換を必要とするに至ったのであるがこれに拍車をかけたものは、消極的には農業恐慌に悩む内地の鮮米移入並に半島産米増殖計画に対する圧力、同じく農業恐慌下にあえぐ半島農村の深刻な苦境であり積極的には所謂『流域変更方式』の採用による半島水電資源の豊富なる再発見を基礎として半島工業化の希望が開かれたことであって、ここに農村において食えなくなった半島人口を工業に吸収することが必ずしも夢ではなくなって来たのであるが、昭和六年満洲事変の勃発は、『大陸ルート』としての朝鮮の再認識となり準戦経済の進行は半島資源の再評価となり、更に金本体制の停止に基く金価の騰貴は半島にゴールド・ラッシュを喚び起し、かかる諸条件の上に内地鉱工業資本が競って半島に進出するに至ったのである。
 我々が昭和六年を第二の転機とするのはこの故であって爾来半島工業化は素晴らしい勢いで進行したこと周知の如くである。例えば昭和六年に於て、農産額は半島全生産額の六四%工産額は一三%と云う比重にあったのが、昭和十三年には農産額五一%、工産額三七%と云う有様で、全産業に於て占むる工業の比重が顕著に増大しているのである
時局産業中心へ
半島経済第三の転機は数字の上に於ては尚未だ把握し難いが、昭和十二年支那事変の勃発である。爾来、半島は日本戦時統制経済の一翼に編入せられ、物動計画、資金統制計画等の範疇下におかれたことから、一時はかつての自由経済時代の如きはなやかな工業化景気が見られないのではないかと考えられたけれども、昭和十一年秋の朝鮮産業経済調査会の答申に基づく『農工併進』の根本方策は、戦時下半島の「大陸前進兵站基地」的認識へと発展し、半島経済は、ここに時局産業中心へと再飛躍するに至った。生産力拡充計画に於て半島の負っている使命は頗る多く、その十五品目の殆ど大部分が半島に於ても拡充を負担せしめられているのである。
新体制的使命
 この生産力拡充計画の実施は、例えば鴨緑江水電の工事が尚未だ竣工しないように、目下のところ大部分が投資時代、建設時代にあって、既に設備完了して運転を開始し生産物を供出するに至っているものは極めて少ないのであるから、その計画完成年度たる昭和十六年末乃至十八年末以後に於ける半島生産額の飛躍的増加は想像に余りあるものがあるのである。
所謂『経済新体制』下に於ける半島経済の進路如何は当面の問題であるが、所謂『公益優先原則』の確立を除いては、私は『大陸前進兵站基地』としての半島を育成することこそが半島に課せられた最も『新体制』的な使命であると確信している
蓋し、経済新体制の外延的意義は、広域経済の確立であり、東亜広域経済確立に於て、半島の地位の重要なることは更めて言うを要しないからである。
 この意味において、半島経済の前途は、新体制下において、而してまた東亜広域経済発展下において、益々洋々たるものがあると断言して誤りがないであろう。施政
五十周年を迎える時の半島は、おそらく、施政三十年の間に獲ち得たものの数倍乃至十数倍のものを獲ち得るであろう。
 今や絢爛たる花を開くに至った施政三十年の努力が、その暁には必ずや見事な実を結ぶであろう。我々はそのように努力しなければならぬ。

筆者紹介 鈴木武雄氏は東大法学部を終えて城大文学部教授となる、計画経済に関する多数の論文を発表着実なる論陣と的確、広汎な視野を以て財界に革新日本の帰趨を指示して来た少壮経済学者【写真=鈴木教授】

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写真(鈴木教授)あり 省略]
(三) 皇御国の発展 城大教授 松本重彦
紀元二千六百年というめでたい年に、皇御国の発展を話すことのできるのは、この上ない仕合せである。あたかも事変のなかばにあり、ヨーロッパに揚がる戦の塵を見ながら、紀元二千六百年を祝うのは、頗る意味が深いように思われる、皇御国は天地の開けた時からあり、天地とともに窮りなき国でしかも初めから発展するように予めきまっていたのであった。
すなわち皇御国の歴史は限りなき発展であって、ただの一度も停るとか、縮むとかいうことはなかった、紀元元年に神武天皇は都を大和の橿原に奠めさせられたが、これは詔に、『上は天つ神の国を授け給いしうつくしびに答え、下は皇御孫命の正しきを養いたまいし御心を弘めん』とあるのによっても知れるように、この時皇御国は恰もまさに興らんとする運に当ったので、それがためにまず都を奠めさせられたのであった、さればその時の国民は始馭天下之天皇とたたえまつり、後の世の国民はこの奠都の御時を紀元元年正月一日として永く忘れないのである。
 紀元五百六十九年に崇神天皇は天照大神を倭笠縫邑に祭いまつり、神宮と皇居とを分かちたまい、紀元五百七十三年には四道将軍をして四方の国を言向け和したまい、紀元五百七十五年には人民を校べて、男に弓弭調、女に手末調を課せたもうた。これによって天下は大いに平ぎ、その時の国民は御肇国天皇とたたえ奉った。崇神天皇の御代は、神武天皇の御時からすでに五百六十年あまりの年月がたっていて、国の力も著るしく強くなり、人の智も大いに増したので、かくの如くに、いろいろの新らしい御政があったのである
それより三百年の後、紀元八百六十年に神功皇后は三韓を言向け和したもうた。この時は国の力がますます加わって、もはやもとよりの版図にちぢまっていることができなくなったので、海表に利源を開き、皇御国の力を増し、海表の国々に住む民ともをはぐくみ育てんとのありがたい思召によることであった。
 これによって応神天皇の御代には皇御国のためになるいろいろの品物が盛にもち来され皇御国の役に立つさまざまの人が多く渡って来て、今までにない物事が競い起り、応神天皇の難波大隅宮、仁徳天皇の難波高津宮の栄えは言葉にも、筆にも尽せぬほどであった。それより五百年あまりの後、紀元一千四百年頃、シナには唐という国が起って、勢が頗る強く、あたりの国々は大方これに従ったが、皇御国は一度もこれに膝を折ることはしなかった。紀元一千三百九十二年に赴いた大使多治比真人広成は唐の主に天皇の大御名を問われて、直に主明楽美御徳と答え、紀元一千四百年に赴いた副使大伴宿禰古麻呂は元旦の儀式のときに、席次を争って動かなかった。それより五百年あまりの後、紀元一千九百二十年に蒙古の酋長フビライは皇御国に無礼な手紙を寄越したが、皇御国はそんなものを相手にしなかった。
 それで蒙古は紀元一千九百三十四年に大群を以て寇なしたが、皇御国は国を挙ってひとつになり、これを撃ち退けた。そのあくる年、皇御国は進んで蒙古を伐とうとの計を立てた。ただしその事は行われなかった。時が到らなかったのである。紀元一千九百四十一年に蒙古はさらに前にまさる大軍を以て寇なしたが、生きて返るものはいくらもなかった。それより三百年の後、紀元二千二百五十二年に皇御国は兵を朝鮮に出し、大いに朝鮮人及びシナ人を撃ち破り、彼等の心を寒からしめた。これ紀元一千九百三十五年に計を立てて、しかも行い得なかったことを行ったもので、豊臣秀吉の力によることであった。それより三百年の後、紀元二千五百五十四年に皇御国は朝鮮の問題にきまりをつけるためにシナと戦って、これに勝ちシナをしてわがいうところを認めしめた。これは紀元二千五百二十七年に明治天皇が御位に即かせられ、深く世界の有様に鑑みたまい、はやく国民の向うところを示したもうた賜に外ならぬ。皇御国はなおこの朝鮮のために、紀元二千五百六十四年にロシヤと戦わねばならなかったが、ロシヤは敗れて、口を塞いだ。

筆者紹介 松本重彦氏は明治四十五年東大史学課卒業、更に同大学院に学ぶ、慶応、大阪外語、大阪高校、京都帝大等の講師を歴任し昭和四年京城市だ大教授に就任、国史学講座を担当、日本古代史では学会の至宝的存在、又各国語に通じ言語学の権威である

これによって紀元二千五百六十五年十一月十七日に韓国保護条約が結ばれた。紀元二千五百七十年八月二十九日に韓国併合条約が結ばれ、同年十月一日朝鮮総督の任命があって、朝鮮に於ける新らしい政がここに始まった。これ今から三十年前のことである。
これより前の韓国の政のみだれたさまは、いうに忍びざるものがあるが、これより後の朝鮮の政は皇御国の太古からの歩みのように絶えざる発展をつづけた。
 今年の紀元節の日からは朝鮮に原籍のある皇御国の民に氏を称えることを許された。これから後もこの朝鮮に原籍のあるものを太古よりの皇御国の人と全く同じようにさせるための政がつぎつぎにあらわれることであろう。紀元二千五百九十一年に起った満洲事変は、一つには皇御国の力を増さんがためまた一つには満洲に住むものをはぐくみ育てんがためで、ありがたい大御心のあらわれであった。これによって満洲はすでに国を成し皇御国の太古からの歩みのように絶えざる発展を続けることになった。紀元二千五百九十七年七月七日から始まったシナ事変も、同じく一つには皇御国の力を増さんがため、また一つにはシナに住むものをはぐくみ育てんがためでありがたい大御心のあらわれである。これを成し遂げんがためには、なお長き年月を費やさねばなるまいが成ると、成らざるとは、一つに皇御国の民が勤めるか、否かによることである。この支那事変が終りを告げても、皇御国の発展は暫くも止まることがないから、さらに大きなことにぶつかって行かねばなるまい。
 二千六百年の昔をふり返って見れば、さすがに長いと思われるが、もしこれを天壌無窮ということに比べれば、いうに足らざる長さとなる。これを思えば、何人も自ら心がひきしまるであろう。
(四) 産業の足跡と方向 鮮銀調査課 川合彰武
 全日本は溌溂たる生気の裏に、大東亜圏建設の希望をこめて、世紀的な新体制運動の胎動を続けている。その集中的表現は国防国家建設の一語に尽きるが、それを通俗、且つ素材的意味に於て把握すれば、日本産業の重工業化若くはそれへの編成替が、恰も荊蕀を切開き突進する現実日本の姿勢であり指向であると謂える。
この仮借することなき国家原理と理念とは、全日本のあらゆる地域を縦貫し、東亜友邦にも波動を及ぼし、作用することは勿論だ。帝国の強き翼の役割を為し、戦時経済遂行上将又広域経済の確保を期する上に於て大陸前進兵站基地として重要任務を有つ朝鮮は、より切実な課題として重工業化の展開を促進すべき運命下に置かれ、又、それを希願し待望する事由を有つものだ。而も歴史の進行は、重工業化を枢軸とする朝鮮経済の再編成を、揺ぎなき基礎と急速なる転歩を以て理想の彼岸へと前進せしめている。
 現段階における朝鮮経済の再編成は、その歴史的発達から理解すれば、第三次の再編成過程にあると断ぜられ、第一次は前世紀的経済体制を止揚して米穀単一産業(モノクルツール)へのそれ、第二次は自由主義的工業化へのそれ、これを期間的にいえば、第一次は併合直後より大正五、六年の間、第二次は爾後昭和四、五年の間、第三次はいうまでもなく這次事変を出発点とする。
 かかる再編成運動は、経済自然の法則作用に因ることなく、国家原理に規定されることは勿論だ。従って、再編成に対応、否それを育成促進する国家権力の発動、即ち、現代的用語を籍りるならば統制経済の採用を不可避とする。明治四十四年一月における会社令の実施は、企業の抑制を通じ移入市場的機構を形成せしめ、米穀朝鮮への誕生に生産及び流通経済を米穀色化し、支那事変の勃発は名実なる統制経済の実行を齎した。されば朝鮮産業発達の回顧は、既に古くより統制経済の存在を知覚せしむると同時に、先覚者の聡明さを今更ながら認識せしむるものだ。これを平凡には、歴代当局者の拮据経営宜しきを得たるというが自覚したと否とに拘らず、朝鮮産業今日の発展は、併合以後における統制経済をその支柱とすることを認めねばなるまい。
 蓋し会社令は新興地通有の企業でブームを未然に防止し米穀移出の促進とその生産増加対策とは、金融、陸海運輸の流通機構の発達、港湾施設の拡充、これに相関聯して米穀移出商の簇出、更に精米業の勃興を齎し加之、国家資本の導入を通じ農業の飛躍的振興が期せられ、以て朝鮮経済今日の礎石を築き、而して重工業化が朝鮮経済の規模と内容とを、より近代化の水準に導きつつあることは、既に指摘するまでもないことであるが、それらが殆ど全的に官治力に依存することは兎角落し勝であって、統制経済を事変の所産と観るは短見というべきだ。かかる認識は、必然に産業に対する行政機能の役割を高く評価せざるを得ないものであって、施政の意義をそこに見出すものだ。
 朝鮮の包蔵する人的及び物的資源、就中後者は、今日忽然と存在を示されたものではない。既に古く前王朝時代に所在し、その利用活用も行われたものだ。従って李朝中期以後における生産力の停滞は、自然的条件に基因せざることは明であって、社会的条件が産業の疲弊を齎したものと断ぜられよう。即ち、政治の不備欠陥が半島経済を永く前世紀的遺制の枠内に閉込めたものだ。農業における単純再生産は未だこれを可とするも、鉱業における稼行中止、手工芸における生産の忌避の如きは、その顕著なる実例であって、その故に近代産業の発達に困難を痛感し、これを内地封建末期における各藩の工業振興政策が、明治維新において郷土産業の開花となり、更にそれを基礎にマタフアチュアが近代工業に転化したことに想到せば、施政当時の産業環境は極めて悪条件に満ちたものであってこれを克服した今日までの道程は経緯を払うべき当局苦闘の歴史であることは明だ。このことは政治が経済に優位した体制を採り、しかも朝鮮経済を経済法則の線に副いつつ、行政力を有効に作用した統制経済の結果であることを示すものだ。
構造的特質
 施政以後に於ける朝鮮産業の発展様相は産業生産高の増大に求められ、今昭和十四年の各種産業の総生産額を三十六億円と推定することきは、併合当時に比較し略十倍の激増だ。
 この量的発展は、産業構成の多角、近代化なる質的発展と共に、朝鮮経済を経済発達の高度段階に推進せしめ、国防国家の有力なる一環として登場した。かかる意味での産業発達は、単に生産経済の変化に止らず、民度の向上なる辞にもられるように、半島在住者の私経済力を補強するに極めて大なる力を為し、その社会経済的意義は敢てこれを説くまでもなく事変が忠実に語るというべきだ。このことは、特に強調して銘記して貰いたい所だ。
朝鮮産業はその構成及び経営並に技術水準に於て、現在施政当時に比較すると驚異的な進歩発達となっているが、これを内地に比較すると非常な懸隔のあることは否定されない。
 ここでその詳細に触れることを避くが、各種産業生産高に於ける工業生産額の比率はまた漸く四割内外の低位にあると観られ、内地の七割に比し差の大なることを嘆かしむるものだ。農業生産額はその構成比は相対的に低下したが、未だ五割内外を占め依然第一位にあって、工農の構成比率関係は内地と逆の状態にある。農産生産の増強は勿論緊要ではあるが、工業化を促進して鉱産額の飛躍的増加を図り、全生産額の構成に於て七割程度を占むる水準に達せしむることが希望とされる。この工業化は、現下の必然的要請たる減量の自給自足主義の実践として、鉱業の開発を一層期待し、且つそれを不可避の条件とするものだ。かくて、工業と鉱業とは並行的にその新興が企図されねばならぬ。幸いにも多種多様、豊富なる地下資源を有する朝鮮は原料地工業化の趨勢と相俟って、工業立地条件において更に適性を追認せられたものだ。加うるに豊富低廉なる水力電源は、資源と工業との結付きを促進せずには措かないであろう。これ等の事柄は純経済的に観ても恵まれた近代産業の立地条件にあることを語り、それは地域的重点主義において朝鮮の重視を要請してやまないものであると同時に、大陸兵站基地論の理論的招拠を形成する有力要素をなすものだ。されば重工業化の促進は決定的であると見做され、既に第二次生拡計画における朝鮮の優位は是認されたと聴く。この限り産業構成上の工業の低位は、当分の過渡的現象として今後に希望を繋ぐべきだ。而も現在および将来における朝鮮産業、殊に重工業の資源が大半自給を可能とし、この点、輸移入に依存しつつある内地に対し優越すると共に朝鮮産業の構造的特質として指摘するに足ることだ。

筆者紹介 川合彰武
氏は昭和二年中央大学法学課を終えると同時に朝鮮銀行東京支店に勤務、釜山支店を経て現在に至る内外経済に関する論文多数あり【写真=川合彰武氏】

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写真(川合彰武氏)あり 省略]


而して資源を鉱業のみを挙げたのは一例としてに過ぎず水産、林産、農業に於て同様のことが云えるのであって、従って各種産業の全面的振興が必要となり、これ原始産業と近代の産業の同時的発展を意味する農耕併進論となるものだ。再言すれば、広義の資源地工業化が朝鮮産業の特質なのだ。
更に特徴として挙ぐべきことは産業経営の基礎たる資本が殆どその大半が直間接の方法に依って内地に依存し、産業発達が内地の資本投下し譲渡しての発達に外ならないことだ。内地資本は最初は商業資本として移入されたが、併合後に於ては産業資本として移入された、その資本投下は都会地土地、農業土地近代産業へと史的発展を辿っているが、初期に於ては外地利潤の追求という資本の自律運動として行われ、農業投資以後に於ては官治統制の力に負い、産業増殖計画に於ける預金部資金の移入という国家資本の動員が大々的ニ行われたことは記憶に新たな所であろう。
 最近は土着資本による催企業の勃興も見逃せないが、産業発達の要因は移入資本に俟つことは多言を要せぬ。ここにいう内地資本とは地域的観念に語源するものであるが、その産業発達に寄与した意義は、正に枢軸であり、起動力であり又、今後も然りであることは勿論だ。
 朝鮮産業の将来には祝福に充ちた予定行程が与えられている。予定行程とは大陸前進兵站基地たるの氏名の遂行に外ならぬ。従ってこの軌道を驀進すれば足りるものであるが、現実には生拡計画及び物動計画の外的規制のあることは遺却されない。されば、所与の資材労力資金を最高度に置いて有効に活用する重点主義の強化が切実な課題となり、この観点より重工業化を中枢とする農工併進を進めねばならない。
それは生産より最終消費に至る一元的統制の強化を必然とし、これに対応し行政及民間産業機構の編成とならねばならぬ。かかる機構的変革は計画経済化の前進を必至とし、この認識と運用とによって、所期の目的達成は可能となるものだ。計画経済化は無論産業の総合的発展を基調とし、この点において行掛りに促われることなく再検討をなすべきだ。
 既に自由主義経済の抹殺された今日に於ては単なる予測とされた今日に於ては単なる予測と希望とは無意味である。必要と可能とを較量した対策を樹立し、それに客観的基礎を与え、以て実現に向って邁進することが賢明だ。それは現実に則して云えば物動、労務、資金等の諸計画を有利有効に展開せしめ、近き将来の目標としては、第二次生拡計画に於て朝鮮の産業立地上の優位性を織り込むことだ。然らば自ら兵站基地たるの名実は具備せられ、かくて朝鮮としての国防国家体制は完成するものだ。
(五) 新しき政治的使命 城大教授 奥平武彦

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写真(筆者奥平教授)あり 省略]
(一)
公爵伊藤博文が韓国統監として赴任の前、埃及太守クローマー卿は一緒を裁し駐日イギリス大使マクドナルドに伝えて、韓国の施政は日本の有史以来曾て経験せざる大役にしてこれが任に当るものは日本における第一流の経世家を以てすべきであるといったという、実に列国環視のうちに我保護政治は始まったのであり、それは日本の亜細亜民族再興の政治的能力の試金石として目された、伊藤統監に随伴せるジョージ・ラッドは、明治四十一年に、『既に寛容と憐憫と懇切の情が日本人による朝鮮政務の処理に支配している、両国の関係の歴史はこの事実を十分によく例証してきた』と述べて殆ど絶望に近い旧政諸弊の改善に処するに、熱誠と真摯、叡智と巧妙を以てし、外国人の尺度により測り得ざる両国の歴史的関係が根底となれる施政の特質を指摘した、越えて明治四十三年八月二十二日併合条約の締結となり正にこれ両国の歴史であって以来の刑事的関係に終結符を打ち、東亜政局の葛藤の遠因近因をなせる一大懸案を解決し、同年十月一日を以て総督政治布かれた、ことし皇紀二千六百年を迎え、肇国の大理想により天業恢弘の聖謨を仰ぎ、世界を挙げて維新の気漲るとき、茲に施政三十年の佳日に際会す悠久なる国家の生命より見れば三十年の歳月は一瞬時だに当らぬものであろうが、朝鮮が外、東亜の政局における禍乱の根源であり内、秕政の下に喘ぎ民に安堵なかりし事態は、三十年後の吾人をして殆ど之を想到するさえ困難ならしめているのである
(二)
朝鮮が、皇化の洽き光被を受け輝かしき日本帝国の興隆と形影相伴いつつ進展し、今日の盛運をみたることはいう迄もないが数百年の積弊になずみ専制に消沈せる法治国『以前』の旧制下の人民を、法治主義の下に法律典章を整備施行し人権を重んじ福利を増進するに統治の方針の置かれたことは、三十年の政治の動きを顧るものの逸するを得ざる一事である
即ち旧制百幣の源たりし行政司法の混淆を匡し、行政諸機構を整え、社会百般の要求に応ずる法規を統一発布し、権力の儖用を制し、内鮮官吏の差別を撤し、民意の暢達を図り、隣保団結の出づる地方自治制を布し、更に又、新政草創のときに現行制と大差なき司法制度を確立し公正なる法の保護の下に生命財産の安固を享受せしめ、民をして方の権威に信倚するを得しめたのである、この法治主義的起訴の上に、始めて半島は社会秩序を得、個人の繁栄が齎されたのであって、治安の維持は勿論人権の尊重に於て、現下の朝鮮が三十年前と天地霄壌の差あるは贅言を要しない、しかし、今や時勢は、法治国の理念より更に進んで新しい理念の定立に馳せつつあり、国家は個人放任主義を抛ち、個人をして没我的に国家と協同し協力し全体への帰一完成を要請しつつある、換言すれば、個人と個人個人と国家との対立関係に立脚する非協同的、利益社会的観念に代って、個人と個人とが相協同し個人的利益が国家全体社会の利益に包容される新秩序の樹立が目されている
法治国より出て、この真の意味の文化国家への飛躍こそ朝鮮が現に歩み、将に到るべき指標であり、個々を滅し全体としての完整により体制翼賛の誠が披瀝されねばならぬ、かくて朝鮮の地域的、職能的代表が、適当なる時機に慎重考慮された方法により、冀賛の道を得ることも決して予期せられざることではないかと思考せられる
(三)
 今茲に併合以来の国際情勢の推移とその半島に及ぼせる影響を説く暇がないが、朝鮮の国際的地位の最終的決定は、東洋平和の基礎を鞏固にせるは勿論、新しき政治より我が先覚の唱導せる大東合邦論はその一歩を進めるものとなった。始政二年にして孫文、黄興の武漢に革命を起せるも注意すべきであるが、第一次欧州戦争の勃発こそは、半島の経済、思想の各方面に影響を投げ戦後に於ける民族自決、共産赤化の風潮は、軽佻詭激の徒の雷同附和をみ国際的潮流の洗礼に鋭敏性を示した、しかしこれに統治の根本方針は動かされることなく民心を安定せしめ厳粛に反省の時機を俟ったのである、かの間島問題以来、密接を日々に加え来った接壌満洲との関係が、万宝山事件に引続き柳条溝の鉄路爆破となり、新東亜建設の烽火を挙ぐるや、直ちに朝鮮軍の一部の出動となり半島の民心は一丸となって我が大陸政策にとるべき自己の地位を明確に認識した、今次の支那事変に際し半島銃後の愛国心が澎湃として高潮し、内鮮一体を具象する幾多の尊い実践が呈示されつつあるは繰返すまでもない、実にわが国をめぐる国際情勢と国策的使命の遂行は、半島の民族的性格を陶治して皇国臣民たらしめ、数十年を要すべき鍛錬を僅々数年のうちに成就せしめた、今や聖戦の目的完遂を期し、西南太平洋を含む東亜の再興により欧洲と呼応し世界新秩序の建設に努むるわが国が前途に直面すべき重大事局に、朝鮮は物心のすべてを捧げ国家総力戦の傘下に立たねばならぬ、去る五月十六日、紀元二千六百年奉祝使節として来朝のゴータ公が京城を訪れ、統治の治績、銃後官民の緊張に絶大の経緯を表明され、日独が協力一致、世界戦争を処理し困難なる局面打開に邁進すべきを説きたるは、含蓄多き言葉として、今猶吾人の耳底を打つものがある
(四)
羅馬が一日にしてならざりし如く半島の現在あるは、歴代総督の聖謨を奉じての拮据経営の賜であり、その仔細は別に語る人があろう、しかしこれを何人が説くと雖も、歴代総督心血の跡をそのまま直接に残し伝えているは、そのときとき物された官文書に若くはない、或は起案の命令書、或は朱批ある草案捺印自署ある文書より、各官庁各部局の書類綴まで、現在深く秘蔵されている、これらの文書が、今もし、記録庫の制を設けて永久保存の道を講ぜられ、一定の年月を経たものは必ずこれに収蔵し、整備順列を立て、官庁内部の使用参考に供せられるは勿論、差支えなき部分は特定者の調査研究にも便宜を允許されることとなれば、朝鮮将来の進運に死するところ大なるものあるであろう、かのバジヨツトの憲法史が、イギリスの記録庫のパブリック・レコードの研究より産れ、憲政の運用に貢献せることはいう迄もない
先ず歴代総督手沢の官文書より始められ司法関係記録等漸次糾合網羅されたる記録庫或は一大文書館が、例えば正に公開の運びに至らんとする倭城台旧総督官邸の附近にてでも地を相して成ることあらんか
これ現代のみならず後世をして長く朝鮮統治の灯明台として仰がしむであろうと考えらる
(六) 朝鮮文芸の今日と明日 香山光郎
 諺文の起源は今にはっきりしない。半島に漢文が入って来なかった前から今の諺文の母体たる朝鮮文字があったという記録もあり、証像もあるそうであるが、まだ定説はないしかし諺文が今日使っているものの形に完成され、一般に通用するよう国家で定めたのは李朝第四世王であり、同時に聖王の誉高かった世宗大王の時である
彼の有名な申叔舟、成三問は諺文整理の功労者である。今雅楽とか正楽とか呼ばれている、朝鮮古楽も、この世宗大王が朴堙に命じて集大成させたものであった。
諺文が完成されるや、世宗大王は、この諺文を使用し竜飛御天歌なる雄大なる長篇叙事詩を作られた。これは李朝の太祖大王の建国の事実を叙したものである。世宗の第二王子で文宗、端宗の二代を経て、王となられた世祖がまだ父王に劣らぬ英王で、種々の治績を残したのであるが、諺文を以て月印千江之曲という、釈尊本行成道を叙した大詩篇を作られたことや、法華経、円覚経、金剛経等の仏典や、四書五経、社詩等飜訳をせられてことは諺文文学の基礎を奠めたものと云えよう。
しかし、世祖以後、支那崇拝の思想が両班階級を風靡して、諺文を卑しみ、ために爾来五百年間数百篇の短歌以外には諺文学らしい文学を生ぜずに終った。
 かくして日露戦争に及んだのであった。日露戦争の影響で朝鮮の青年達は或は官費生として或は私費生として日本に留学するものが多数に上り、これからのものが朝鮮に帰って新しい思想、文化運動を起したのであるが、かの崔南善民もこの留学生の一人で、彼が、朝鮮最初の文学雑誌というべき『少年』を創刊したのは、隆熙二年、即ち明治四十一年で、当時崔氏はわずか十九歳の少年であった。
 『少年』創刊号の口絵には、『日本に御留学の我が皇太子殿下と太師伊藤博文公』という写真が載っている、皇太子殿下とは今の李王殿下であらせられることはいうまでもない、そして、劈頭に『海より少年に寄す』という新体詩が載っている、これが恐らく朝鮮における詩誌の嚆矢であろう、崔氏は『少年』に盛に詩を書いた、全誌の殆ど半分は自作の詩で埋められていた。
 作者自身は、文学としてよりは、或る精神気魄の鼓吹を目的として書いたのであろうが、これが朝鮮新文芸の始まりであった
筆者もこの『少年』に詩歌や小説ようのものを書いたものであるが長篇小説『無情』を毎日新報紙上に連載したのは大正四年かと記憶する。これが朝鮮における小説文学の始まりといわれている。それから間もなく大正八年の万歳事件があり、斉藤総督の文化政治の宣言などあって、今まで禁じられていた、諺文の新聞雑誌の発行が許された、そこで、堰き止められていた、河が流れ出すよに、詩や小説がどんどん生まれて、爾来二十年、今日あるような朝鮮文学が出来あがったのである。
音楽や美術にしてもそうだ、文学は併合以前から芽生えがあったとも思えるが、現代的な音楽、美術、演劇、舞踊などは全然併合以後の産であり、もっと精確にいえば斉藤政治以後に始まったものである。それらのものの水準がどのくらいであるかということがよく問題になることであるが手取早くいえば、鮮展の美術のようなものと見て差支えないと思う、唯文学に一日の長があるかも知れない。
 併し朝鮮の文化は一大転機に遭遇した。それは朝鮮人の皇民化、即ち内鮮一体のことである。朝鮮併合以来朝鮮人が日本国民であったことはいうまでもないが、窃かに、文化単位として民族観念を支持して来たのであった。これを民族主義と呼ぶのであるが、この民族主義は、政治的のものでなくて文化的のものであったし、為政当局でもその意味で認めて来たものであった。つまり言語、風俗、習慣従って文学や、思想や、芸術や、建築様式、衣裳礼儀などにおいて朝鮮人は民族的単位を許されるものと信じて来たのである。大正八年後の民族認識というのは海外における一部の人達を除いては、今いったような文化的なものであった。即ち文化的に民族単位を維持しつつ日本帝国の構成要素となろうというのである。今日においてもこの考えはまだすっかり清算されていないことと思う。

筆者紹介 香山光郎氏は朝鮮文壇の巨匠、明治二十五年生れ、早大文学部哲学科出身、半島言論界華やかなりしころ東亜、朝日等の編輯局長として十五年間半島文化向上に尽した功績は蓋し大きいものがある、また作家として往年の傑作『無情』『愛』外数十篇の名作があり、最近には歴史小説『世宗大王』の大作がある、第一回朝鮮文人協会長でもあった【写真=香山氏】

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写真(香山氏)あり 省略]


 ところが支那事変以来、南総督政治の内鮮一体の観念においては、これは許されないことになっている。朝鮮人は民族という観念を綺麗に清算して、すべての朝鮮的なものより一応離脱して、白紙に還って、そして皇国臣民として、出直せという建前のように解せられる。いいかえれば、朝鮮人は単に日本国民となるに止まらずに、大和民族になる。そして完全に平等な単一な国民に融け合え、という風に取るべきかと思う、そして、この呼掛けに対して、朝鮮人は七割九分三厘の創氏改名によって応えたのである、即ち、よし、われわれは大和民族に溶け込みましょう、といったわけである、今一度いいかえれば、朝鮮民族は大和民族に融け込むことによって、新しい生命を獲得しよう、永遠の繁栄を計ろうと腹を定めたわけで、いわば民族の発展的解消を断行したのである、ここにおいて朝鮮民族は血液的に精神的に併合されたといえる。
こうなれば、朝鮮人のあらゆる文化的態度に大転換を来たさねばならない、大転換というよりはむしろ全然出直さなければならない、殊に観念芸術たる文学においてそうである。
 客秋における朝鮮文人協会の結成、音楽家協会の結成は、この理由でなされたものであるが、その結果が作品として現れるまでには、なおそこばくの時間を要するであろう。なんとすれば文学や芸術派人生観社会観の分泌物であり、花であるから、或る観念や信念だけで即時に産まれるものではない。酒のように醸の期間を要する。いずれにしても今後の朝鮮文学や芸術は、唯だ郷土色を帯びる以外に朝鮮的な伝統から離れることだろう。朝鮮に住んでいる日本人の作った文学や芸術ということになって、日本文学、日本芸術の地方的一分野を形づくるに止まることだろう。このことは、力ある朝鮮文人や芸術家は朝鮮人より生まれるであろうところの政治家や軍人がそうであろう如く東京において出世するだろうことを意味する。恰も九州人や東北人がそうであるように。
(七) 七十年前の教育界 伊東致昊
 この意義深い始政三十周年記念日を迎えるに当り、先ず私は朝鮮教育界の七十年前を回顧して誠に感慨無量なるものがある。
 当時における半島人の教育状況を、方法、目的、範囲等の三つに分けて今日のそれと比較考察してみるに、私の様な八十歳に近い老年のものには全く隔世の感がある。
教育の方法
 即ち当時七歳の私自身が、既にその不完全な方法による極めて狭い範囲の教育によって出発したのだった。つまりそのころは教育機関として別に政府が施設をするわけでもなく、ただ民間の有力な人人(両班)が書堂というものを普通の有力な家庭に設けて漢文の先生を招き、月謝として一年に籾で何十石かを支払うことになり、方方からこれも一部有力な人々の子孫達のみが集って教育を受けたものだった。また豊裕な家庭(これも両班のみ)では家庭教師を置いて子弟教育に当ったものだ。
こんなわけで教育の恩沢を受けるものは半島人口のほんの一割に過ぎず、後の九割に当る一般大衆は教育から全く除外されむしろ教育の必要すら感じなかった程であった。況や女子教育においては問題外であった。
目的と範囲
 そんなわけで当時の教育の科目は単なる漢学一方で、特権階級のみが、これを習得して官位を得る一つの試験準備的な役割のみに使われていたものだ。従ってその教育方法も至って幼稚なもので、朝先生から何章かの漢文を教えられると、それを一生懸命に暗誦して夕方先生の前でその通りに暗誦さえすれば立派に勉強したことになった。その次が書を習い達筆を期することにあり、再興の過程に達したとき、はじめて漢詩を創り、それで一通りの学問を卒えたことになっており、今日の如く自然科学者が数学とか、美術とかを教える多彩な総合的教育とは凡そ縁遠いものであった、むしろ才能のあるものが図画のようなものを描いたり跳ね廻って運動でもやるものなら先生から学徒の異端者の如く見られ処罰すら受けたのである。
こんな不完全な教育の中から経国済世に足る優れた大人物が生れ得なかったのもむしろ当然すぎることであろう。而も此教育制度は李朝末まで続いた。此誤れる教育制度こそは李朝の滅亡を招来したものであった。
今日の教育
 ところが併合するや、この陋幣は、さっぱりと排除され、一

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御心の下に、現代的教

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され、半島民衆すべてが貴賎の別を問わず、一様に教育の恩沢を蒙るようになった。先ず方法において革新的であり、国家の親心で立派な施設の下に広範囲に亘り豊富な内容をもった教育を受けることが出来るのみならず、努力の如何によっては、どんなにでも出世が出来ることだ。これが若し併合前の制度であったとしたら百姓の子であれば如何に努力をしても官吏にはなれないのであった。しかも今日の教育の目的は単なる簡易獲得への手段ではなく、国民の知識啓蒙を図り、また精神訓育を行って士農工商あらゆる方面にその特殊技能を伸して思う存分活躍、生活を楽しみながら国家のため奉公が出来るのである。

筆者紹介 伊東致昊氏は、韓末の栄将尹英烈男の長男として元治元年生、早く米国に遊学明治二十九年韓国外務大臣として複雑多端な当時の外交陣頭に起ち
敏腕を振い、併合後は官界を退き開城に今の松都中学の前身たる漢英学院を建設して専ら育英事業に献身努力す、また大正五年に朝鮮基督教青年会長に就任半島青年の父として精神的指導をなして今日に至る【写真=伊東致昊氏】

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写真(伊東致昊氏)あり 省略]


ここにおいて併合と同時われわれ半島知識層の者が憂慮していたところの教育制度の所謂欧米諸国が植民地に対する教育制度の過酷への聯想は、全く解消されむしろこの三十年間の血の通う温い統治方法によって、われわれは当局へ無限の感謝と信頼を覚えるのである、これこそは一視同仁の大御心を体した歴代半島統治者各位の卓抜な人格と深遠なる愛情の発露として、世界のいずれの国にも見ることの出来ない外地民族統治への成功を示すものと固く信じるのである。
 欧米諸国が、その植民地民衆の教育に当り取る方法は、恰度半島の七十年前に用いていた特権階級のみに重きを置き、一般民衆の教育は除外するのと全く同様な手段を取り、一部特殊な人々にのみ高等教育を施すのに反しわが国は半島民衆教育に当り、内地と同様、国民皆学を目標として特に初等教育に力を入れる現状にあり、これは蓋し人類史あって以来その例を他に見ない善政を物語る実証だと思う。殊に最近の新聞によると半島には近き将来に義務教育制が実施されるということであるが、これこそは内鮮一体の最後の仕上げを物語るものであってわれわれ半島民衆はただ皇恩の鴻大無辺に感泣する次第である。又半島特別志願兵制度によって半島青年諸子が皇国臣民であると同時に皇軍の一勇士として祖国の為干城となる尊い任務を帯びて第一線に活躍し得るということは、単に兵役の義務を内地同胞と同分し得たのみでなく、半島民衆への当局の温い親心の現れとして本当にこれで一億同胞の一人としての資格を備え得た喜びを感ずるものがある。
この際われわれは一層協力してありがたき聖旨に副い奉るように御奉公の実を挙げて、新東亜圏確立を目指す国策に従い一路邁進してこの偉業の完成に最善を尽してこそ大君の赤子としての光栄ある義務を果たすことになると信ずる。
その意味で半島青少年達は、実にありがたい聖代に生を享け、輝かしい前途を控えた人生に遭遇し得たことを深く感謝すると共に、自己の担う皇民的任務の如何に偉大であり、尊いかを吟味熟慮してその使命達成に奮

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