植民地空間「群山」を考えるーー研究



テーマ:植民地空間としての群山を考える


(1)概要
学校教育を通じて、学生は歴史的時間を遡及することができ、過去を概念として想像することができる。しかし、個人の主観で語られた資料(Oral History)を媒介して歴史が語られる場合、それは客観的な歴史認識の大きな障碍となるだろう。一方、歴史的建造物は現在の空間にそのまま残っているので、概念としてではなく、実物として接することができる。
   歴史認識問題を語る場合、歴史がどのように論じられているかが問題視され、歴史を論じる上で必要な資料が論じられることはあまりない。特に、現在直接見て・触れて・感じられる歴史的建造物が歴史認識にどのように役立つか、もしくは役立たないかが積極的に論じられてこなかったといえる。そこで、本共同研究では歴史建造物に関して考えてみたい。


(2)本共同研究の経緯説明
   2005年の夏、九州大学と高麗大学は群山市の旧日本人居留地内に点在する日本家屋に関する共同調査を実施した。その調査の最終日に、両大学学生が参加するワークショップを行ったが、重要な論点が一つ浮上した。それは、韓国に残されている日本家屋を保存すべきか、という問題である。これに対する答えは、高麗大学側と九州大学側で微妙な差がみられた。両校とも基本的には保存したほうがいいという考えであり、高麗大学側がより積極的に保存を主張した。一方、九州大学側からは、日本家屋は日本人が気候の合わない韓国に無理やり作ったもので、その破損もひどいので、その修復を住人に負担させたり、改修を妨害したりしてはならないという意見が出された。
   歴史的建造物の保存はそのような予算という現実的な問題がある。こうした予算をどうするのか、また歴史的建造物は何のために保存するのか、といった問題に明確な結論を導き出すことができなかった。


(3)討論会の開催(8月4日)
以上の成果を踏まえて初日には討論会を開き、この問題を再度議論したい。
例)歴史的建造物は保存する必要があるのか(例えば植民地統治や部落などの負の遺産も残すべきだろうか)。また、あるとしたらその予算はどうすればいいのか。





韓国学生:日本の植民地時代の建物で現在残っているものを見ることはとても大事だと思います。朝鮮総督府が爆破されたことに関しては、そうするしかなかったものもあります。撤去された物と今残っているもの、それらを含めてお話するのはちょっと難しいです。

韓国学生:日本の植民地時代の建物は当然、保存しておかなくてはならないと思います。日本人であるとか韓国人であるということは関係なく、建物として価値があると思います。

韓国学生:韓国にある日本の建物はすべて保存すべきであると思います。総督府はあった場所が問題だったわけであるし、解体して保存しておくべきだったと思います。そのまま活用し、保存しておくことが歴史的に有意義だと思います。

日本学生:僕は、この群山調査で日本家屋を見て、やっぱ日本家屋というのは消えるべき運命なのかなと思いました。というのが、日本家屋というのは、やっぱり日本の気候に対応して作ってあるものであって、韓国の気候に対して作ってあるものではないと思うんですよ。さっき、白石君が言ったように、やっぱ第2の日本にするために、こういう風に日本の家をいっぱい建てて、自分たちが住みやすいように、日本人が住みやすいようにしたんですけど、やっぱ、日本家屋は冬場、韓国ではあまり良くないですし、仮にその文化的価値があるからといって、僕も保存したいと思いますけど、やっぱ住んでいる人の立場からしてみると、やっぱ経済的余裕があれば、やっぱ変えたいのかなぁと思うし、価値があるから保存しろというのは僕らのエゴなのかなぁと思いました。





<旧>               <現>
カ-6-⑲
 
旧群山税関本館
        
1899年群山が開港され、鉄道および港湾施設の建設と伴い税関が建てられた。元々は現在残されている本館の建物以外にも多数の倉庫と付属建物があったが、ほとんど撤去された。本館の保存状態は(何ヶ所か手を加えたところはあるが)良好であり、今後も歴史教育の現場として保存されることを期待する。

キ-1-33
 
群山府庁
        

カ-1-⑤
 
朝鮮銀行群山支店              
     
1923年に設立され、解放後は「韓国銀行(旧朝鮮銀行)→ 韓一銀行群山支店 遊楽施設」とその用度が変化された。遊楽施設として使用されてからは、建物の前面部と内部改造された。現在は火災によって内部が消失し、営業も中断されている状態である。

カ-3-①
 
長崎十八銀行群山支店
     
1907年に群山に設立された最初の銀行。日本に米穀を搬出や土地を競売するための目的で設立された。解放後「大韓通運群山支店」として使われたが、現在は中古家具販売店が使用している。建物の内部は確認できなかったが、正面は改造されステインレスシャーシが設置されている。





群山市内の日本家屋(調査エリアに限定)

(1)商店(싸인텍
日本統治期に「本町通」と呼ばれた地域にあり、旧朝鮮銀行群山支店の向側に位置する。何回かその用途変更し、日本家屋の原形はなく、しかも現在「싸인텍」という店が使用しているが、大きな看板のために建物がよく見えない状態になっている。
建物の中を覗いてみると、1階はほとんど破損し原形を確認することができない。2階は壁、屋根など日本家屋の形態を確認することができる。

 
 









(2)一般家屋
日本統治期旭町という名称の住居地域である。この日本家屋は木造1階建てで日本式庭園がそのまま残されている。しかし、建物自体は修理・増築され、当時の姿を失いつつあるが、いまだ建物の中には押入れや床の間などが残されている。
    
2-3-③

(3)群山市庁3庁舎
日本統治期調達業務を随行する官公所の建物として建てられたが、現在「群山市庁3庁舎」の建物として、セマウル運動群山市支会をはじめ、多数の社会団体が共同で使用している。



6-2-③


(4)商店(송원액자
日本統治期銀行として使用されたが、解放後には検疫所として用途変更された。群山港と隣接している。現在は「송원액자」という商業施設として使用されている。



(5)商店(햇빛촌)、一般家屋
この一帯は、日本統治期に「明治通り」と呼ばれた地域である。その当時「公設市場」があった。後ほど、群山で初めて建てられた「常設市場」があった場所でもある。現在、日本家屋はほとんど残されてない。
  
ウ-3-⑭                          ウ-3-41


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