中本信子氏の引揚体験記
北鮮から姉と弟の引揚げ体験記 茨城県 中本信子
戦前の生活状況
私は明治四十二年、本籍地徳島県名西郡浦庄村字下
浦において、歯科医である父河崎正信、母サイの長女
として生まれた。父は徳島市船場町で開業していたが、
父のところへ第一次世界大戦のドイツ人捕虜が歯の治
療によく来ていた。「私のドイツに残した子供もこの
子くらい」と言って幼稚園児の私を抱き上げたり、頭
をなでてくれたが、私は怖くて大声で泣き出してしま
った。また、「日本のドイツ人収容所は親切だ」と喜
んで父の分厚い本に美しいドイツの花文字で記念のサ
インをしてくれた話など、徳島で暮らした思い出にな
っている。
大正五年に弟智俊がこの船場町で生まれた。
大正六年に父が朝鮮総督府管轄の平安南道平壤道立
病院歯科医長を命じられ、家族を連れて赴任し、平壌
府南町に居住した。
大正八年に朝鮮に暴動が起こり、父も診療外は官服
にサーベル姿で各科の医官と一緒に警備に狩り出され
たが、日本官憲により間もなく暴動は治まり、平壌は
元の平和を取り戻した。父は昭和三年に官職を辞任し、
口腔外科、歯科一般を標示して開業した。平壌で生ま
れた弟妹三人を加え家族七人が平壤府寿町に住み、私
たちは両親の元で小学校、中学校、女学校を皆同じ平
壤で学び育った。
「女の子でも何か生涯役に立つような資格を身につ
けさせてやりたい」という父の考えにより、私は昭和
七年に平壤から近い京城歯科医学専門学校を卒業(第
三回生)し、結婚までの四年間父の元で歯科医療に専
念した。
私が主人(十人きょうだいの長男(内二人天折)と
結婚したときは、すでに三人の義姉妹が結婚していた
が、翌十二年に私たちに長女が生まれた。家庭は還暦
を迎えた義母と、私たち夫婦と子供及び義弟二人、義
妹二人の八人家族だった。
主人の両親はすでに明治四十三年の日韓統合以前に
故郷山口県より志を立てて、渡鮮し、北鮮平壤府水玉
町に居住。全鮮にわたって、朝鮮人向け陶器金物卸商
(主に食器)を経営していた。他にも西鮮清涼飲料会
社(主にサイダー、ラムネ)を持ち大きな店舗を構え
ていた。
現地の朝鮮の人たちとも仲良く融け合って、家族の
ような親密な交流が続いていた。特に主人の母は朝鮮
人の使用人を大事にして世話をし、朝鮮語も堪能であ
った。皆が平壤を愛しここを永住の地、第二の故郷と
してお互いに朝鮮人と学び合った。日本人家屋にも暖
かで子育てに適した温突が設置され、酷寒の平壤の冬
も幸せに過ごせた。
昭和十九年七月に長男が生まれた。
ところが、北鮮で終戦を迎えるという悲運がこよう
とは、当時はだれも知るよしもなかった。
博川に疎開して
平壤にもB
29
襲来の警報サイレンが鳴り響くように
なり、庭に造った防空壕に私は家族と一緒に、生まれ
て間もない長男を抱いてかけ込む日が続いた。幸いに
も米機は爆弾を投下しないで西へ消えホッとした。第
二次世界大戦で欧州では独ソ戦争、アジアでは日本が
米英連合軍により致命的打撃を受けているとき、家族
が相談してまだ安全と思われる博川郡の叔父宅へ、私
は子供二人を連れて、昭和十九年十月疎開した。叔父
は主人の母の実弟で長年平安北海博川に住み、葡萄酒
製造工場を経営していた。工場には現地の朝鮮人が大
勢働いていて、叔父夫婦も彼らのために親身になって
よく面倒をみていたので、朝鮮の人たちも叔父を親の
ように慕っており、何の問題もなく平和な生活が続い
ていた。
叔父夫婦には子供がなかったので、私の子供を大変
かわいがってくれて長女はすぐに、平壤の山手小学校
(一年生在学中)から博川小学校へ途中編入させてく
れた。静かで平和な村だった博川も日本の敗色が濃く
なるにつれ、物資は不自由になり、昭和十九年の暮れ
から二十年の五月ごろになると叔父の工場も葡萄酒の
原料が入らなくなり製造停止となった。機械は軍に徴
用され砲弾に変わった。次第に朝鮮人が集会を開いて
は不穏な行動を取るようになり博川小学校も閉鎖、い
つの間にか朝鮮人の間に赤衛隊が組織され、腕に赤い
腕章を巻いた朝鮮人グループが、日本人家屋に押し入
ってはお金や食糧の略奪が繰り返されるようになった。
日本人は外出できず、終日窓を閉めカーテンを引き、
赤衛隊が門扉を破る音がすると、私たち親子とチエネ (
朝鮮人のお手伝いの娘、叔父が世話している孤児)
叔父は押し入れに隠した。
彼らは銃剣を持って侵入して来るので、毎日毎日が
恐怖の連続で子供は怯えて私から離れなかった。主人
が迎えに来てくれることもできず、平壤も大変なのか
音沙汰なく毎日が気が気でなかった。そんなある夜更
け、叔父夫婦を親のように慕っているオモニ(朝鮮人
のお手伝いさん、朝鮮語でお母さんの愛称)が私の部
屋に来て「奥さん平壤帰りたいか」と言った。私は
びっくり仰天し、飛び上がって喜んだ。「私、平壤帰
りたい、私、平壤帰りたい」子供を引き寄せ、オモニ
にすがって泣いた。「お父ちゃんとこへ行こうね」二
人の小さい子を抱きしめた。すでに叔父さんたちにも
話がしてあると言う。ご恩返しをしたいと言ったそう
である。「あした朝五時、主人トラック平壤行く、三
人乗るいいよ」オモニが変装用の白いチョゴリ(私と
子供用上衣)、チマ(長いスカート)、おんぶ用布、既
婚の女が前髪を包む白い布、朝鮮靴まで揃えて持って
来てくれている。もう三時間しかない。とにかく少し
でも子供を眠らせなくてはと寝床に入れて、哺乳用具、
おむつ、身の回りの物を大急ぎで手提げへ押し込み、
変装の支度に取り掛かった。白い上衣とスカートをつ
け、髪を朝鮮風に結び角隠しのような白い布をかぶり
後で結んだ。赤ちゃんだった長男を腰にのせ、おんぶ
するため布で背中とおしりを包み、前へ回してしっか
りと結んだ。ところが歩こうとしたらよろけて歩けな
い。オモニが笑うけれど、私には生まれて初めての経
験でこんなふうに子供をおぶったことがなかった。何
だか情けなくなってきてポロポロ涙が落ちる。「よく
似合うわ」と叔母さんが励ましてくださる。ようやく
腰で調子をとって歩くことを覚えた。グルッと横に回
せばすぐ赤ちゃんは母乳が飲める仕組み。朝鮮の人の
知恵に驚いた。
門にトラックの音がしオモニの主人が来てくれて叔
母さんと話をした。「私たちはほかの皆さんと一緒に
汽車で平壤に出るから、心配しないで先に帰りなさ
い」と言われた。「どうぞ御無事で」とお世話になっ
たお礼を述べ、オモニの主人の運転するトラックに乗
せてもらった。
彼は人気のない山道ばかり全速力で平壤へ走った。
こんなことってあるだろうか。オモニ夫婦の善意がな
かったら、と思うと感謝で胸がいっぱいになる。私は
この人たちに何もしてあげていないのに……。突然ト
ラックの前方に赤い腕章をつけた怖い男が三人現われ
手を上げて「のせろ」とどなった。オモニの主人が私
たちに、「日本語ダメ、殺される」と小さい声で強く
注意してくれた。何だか恐ろしくなって、子供を抱え
込み「だまってるのよ」とささやいた。頭から血がス
ーと引いていくようだった。ドタドタと男たちが乗り
込んできた。娘の顔が真っ青だ。かわいそうに……。
親の心が感応するのか二人の子供は泣かなかった。オ
モニの主人はさぞハラハラ心配だったことだろう。
赤衛隊の朝鮮人たちは私たちをこの運転手の家族と
思ったのか無関心だった。トラックが夕暮れ近く我が
家の裏通りで止まった。三人の男たちは飛び下りてど
こかへ行ってしまった。オモニの主人が連絡に走り私
の主人が飛んできて、「よう戻ったなー」と小さい娘
を抱き上げて泣いた。七月に平壤に帰って来て、八月
に入った途端、平壤と博川間の交通が遮断された。
叔父夫婦も何とか無事に平壌へ帰られたようだ。も
う少し私たちが平壤へ帰るのが遅かったら、オモニ夫
婦の善意がなかったら、私たちは家族と生き別れにな
ったかもしれない。
日本の終戦直前にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して
参戦し、北朝へ侵攻するとは、当時の私たちには思い
もよらないことだった。
博川から帰壌後、私たちは家族と一緒に水玉町の家
で終戦の詔勅を拝した。
北鮮に居住していた日本人は終戦の年も帰国できず、
ソ連占領下で苦難の抑留生活を強いられた。その後の
引揚げについては、より多くの体験と苦労をそのまま
書き残してあった亡き弟の手記を次章に引用すること
にした。
戦争集結より平壤脱出引揚げまで
(弟)河崎智俊の遺稿より
私(智俊)は昭和十四年父の母校東京歯科医学専門
学校を卒業後、満州国新京病院歯科医長として派遣さ
れ、昭和十五年関東州大連聖愛病院に転任中に結婚。
昭和十七年父病気のため急速同病院を辞任し平壤へ帰
り、父を助けて歯科医療に専念。その間平壤府歯科医
師会理事を兼任中、戦局は次第に緊迫し昭和十九年七
月、私は平壤府警防団第二分団救護班団長を命じられ、
危急の場合地区住民の避難訓練に従事していた。
私たち日本人は報道機関の統制によって終戦のその
日まで敗戦を知り得なかったが、彼らは短波放送で世
界の情勢を完全に把握し、終戦の前に既に日本の敗戦
を予知していたらしく、終戦の日が近づくにつれて日
本人に対する朝鮮側の圧迫も、加速度的に加わった。
昭和二十年八月十五日の終戦詔勅を聞いてからの私
たちの生活は大逆転をし、敗戦国民というレッテルを
はられてしまった。それ以来、我々は目、耳、口をふ
さがれて全く人間としての自由を奪われてしまった。
来る日も来る日も不安と焦燥でおかしくなりそうだっ
た。
終戦の日を期して彼らは過去三十六年の日本統治の
悪政を批判し、朝鮮独立万歳を叫んで街頭を謳歌し始
めた。終戦の二日前に関東軍の将来を心配したその家
族(大方婦女子)三千余人が、奉天、新京地区より避
難して来た。その人たちはいったん日本人遊廓に収容
された。次の移動が一日の差で蹉跌を来し、その人た
ちの予想もしなかった苦難が始まった。
そのころから日本語の使用が禁じられた。また、す
べての行政機関が占拠され、道庁、府庁、警察、学校、
そして銀行、郵便局が全くその機能を停止してしまっ
た。そのころ、日本の無力を見てとったソ連軍は、か
つての不可侵条約を無視して、昭和二十年八月九日朝
鮮国境を突破して南下し、一方、天山、羅津、清津に
艦砲射撃を加え破竹の勢いをもって進攻してきた。
平壤には二十師団。航空隊も。高射砲隊もあり、私
たちも大きな期待を寄せていたが、師団長は内地へ遁
走し、軍は全く無抵抗でソ連軍に占拠された。残留日
本人にそのしわ寄せがきて、日本人居留民団が作られ
たが全く無力で彼らの言いなりになった。また、日本
人会を通して武器の接収、家屋の捜索が始まった。
ソ連軍の平壤占拠は昭和二十年九月二十四日午前六
時であった。我々もソ連軍人壌を祝って赤旗を立てさ
せられた。
ソ連軍による男狩り(十八歳〜四十五歳)そのうち、
在郷軍人はもちろん、役立ちそうな日本人男性は抑留
されソ連へ送られた。日本人会会長は次々と警察へ連
行された。彼らはかっての行政機関の代表者(知事、
府事、警察署長)その他の幹部職員を満州国の延吉へ
送った。
ソ連軍(下士官一人、兵三人、通訳一人)による家
屋接収はいとも簡単に実施された。住居を奪われた日
本人は、未接収に実施された。住居を奪われた日本人
は、未接収の日本人家屋に集結させられ雑居生活を強
いられた。また、どこの軍隊にもあるように、長い問
の戦いに飢え切ったソ連軍は、略奪、暴行を欲しいま
まにして、夜昼なく犠牲に供せられる女たちは数知れ
ず。日本人会も日本共産党が幅をきかせて暴力をふる
い、我々に強制労働を命じた。
一方ソ連軍は道庁を接収して「北朝鮮ソ連軍司令
部」を設置し、いよいよ占領行政が始まった。平壤神
社も破壊されソ連兵戦没将兵の慰霊場となった。かつ
ての日本人が設置した警察に愛国班長以上の日本人が
次々と召喚され尋問責めが行われ、そのため哀れ故国
日本を夢見ながら刑場の露と消えた人も数知れず。
街頭には日本軍人が、また、日赤看護婦が次々と満
州へ連れて行かれた。北鮮の共産化は着々と実施され、
いつの問にかソ連へ亡命していた金日成が多数の部下
将兵を連れて意気揚々と帰ってきた。彼は直ちに保守
系朝鮮人、親日系朝鮮人を圧迫して人民政府をつくり、
かつての日本人の行政機関を一手に収めて彼らの運営
するところとなった。
我々に対する圧迫はますます強くなり、勤労奉仕、
堤防工事将校官舎の雑役などが日本人会を通して狩り
出された。この勤労奉仕に出たまま帰らない婦女子は
哀れにも数知れなかった。
金日成の人気は圧倒的で、彼の率いる二万の軍隊が
その後ろ盾である。スターリンの肖像画と彼のを並べ
て、あらゆる集会場に掲げられ、すべての行政機関が
ソ連式になった。
私の関係していた医療面でも、完全に国営となり開
業は統轄され、七つの人民病院が設置された。(第一
〜第七人民病院)
日本人の開業医の器械、薬品は文句なしに接収され
て、満州その他の引揚げ朝鮮人医師、歯科医師に家ご
とに配布された。薬局もまた同様であった。そしてこ
れらはすべて「北朝鮮人民政治委員会保健部」によっ
て統轄された。
私たちの家屋は朝鮮人(刑事・洗濯屋)によって接
収され、私はソ連軍直轄の第七人民病院へ勤務を命じ
られた。この病院は日本人のために設けられ、在留日
本人及び日本人避難民がその対象であった。また、こ
の第七人民病院には七つの診療所が分院として持たれ、
その内の一つ「解放軍診療所」が私の受持ちで、「市
辺里」にあった。そこには終戦前に避難してまた関東
軍将校の家族たちがいて、大部分が婦女子であった。
その人たちは打ち続く苦難の中で病にかかるものが多
く、集団生活特有の皮膚病や発疹チフスが猛威をふる
った。特に昭和二十年十二月には本疾患に羅患するも
のが、収容人員の八割、死亡者も千二百余人となった。
これら死者の取扱いは困難を極め、棺桶もなく毎日四
人、五人と大八車にござを敷いてその上に直接ころが
し、その上にむしろをかけて約四キロメートル離れた
山に埋めるというより捨ててくる。次の死者を運んで
行ったときは、山犬が食い荒らしているという状態で、
各診療所関係を総合すると約二万人を下るまいと思わ
れる。
当時私たちの生活も底をつき、時の日本人会は、北
朝鮮人民委員会を通して内地引揚げを何回となく懇願
してきたが、その見通しは全く困難を極め、昭和二十
年も十二月を過ぎ二十一年になってしまった。
ソ連軍は一挙に南下して開城まで進出したが、また、
米軍によって追い返されたので三十八度線をますます
強化する一方、朝鮮人青年の軍隊教育を始めた。日本
人は食うに食なく、住む家もなく街頭に日本人の乞食
が出始めた。
切羽詰まった日本人はソ連軍の引揚げ許可を待たず
して、三十八度線越えを企画するものがあっても、大
部分はソ連軍や朝鮮軍に捕らえられ、海州のそばの一
孤島へ強制収容されるか銃殺された。しかし、そのよ
うなときにも、日本人と個人的に親交のあった朝鮮の
人は、ソ連軍や朝鮮軍にかくれて我々を慰めてくれた
り、物、心両面からの援助を惜しまず、内地引揚げの一
日も早からんことを祈ってくれた。しかしこれら愛深
い親日家も、時代の流れには勝てず、政府の圧迫によ
って次第にその影をひそめ、民族独立という主流の中
に包含されてしまった。日本人の脱出者がますます増
え、また落ご者も多くなり、ついに終戦の翌年六月こ
ろからソ連当局が一日五十人ずつ、三十八度線越境を
黙認したけれど、それはもちろん生命の保障のない脱
出である。北朝鮮人民政府は、この黙許と同時に脱出
ルートの警戒を厳重にした。また落ご者のために、所
々に露天の収容所を設け、医療保護を行うことになり、
日本人医師の選抜派遣を命令してきた。私は進んでこ
の命令に応じた。行き先は黄海道、市辺里である。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と諺にあるよう
に、私は決意し家族も我が身も捨てて虎穴に飛び込む
ことにした。このころソ連将校や朝鮮人は小遣い稼ぎ
のために貨物自動車や汽車で日本人を開城まで輸送す
るからと、法外な大金を要求した。日本人の中には金
を工面して自動車や汽車に乗ったものの事実は全くこ
れに反して幾多の婦女子の暴行事件、機関車の行方不
明などの計画的暴行を受ける結果になった。
一日五十人の越境黙認がますますその数を増し、一
日四百人、五百人となり、また脱出途中の落ご者も次
第に多くなった。市辺里経由の脱出ルート三つの中で
一番危険も少なく、また利用者も多い左記の経路を選
ぶことにした。
市辺里―大南―小南―三十八度線―開城
私はこの市辺里にある診療所の医務室勤務を命じら
れた。私はソ連軍司令部発行の自分の写真入りの証書
を持って家族(父、母、妻、子供二人、弟妹の七人)
を平壤に残し、後ろ髪を引かれながら身を捨てて虎穴
に飛び込んだ。
私の班は医師一人、看護婦四人、助手三人の第一班
で目的地市辺里へ車で向かった。市辺里は平壤から三
十里の所にあって、途中には脱出日本人が続々と列を
なし、親が子の手を引き、老人を背負い、互いに励ま
し合い我々の自動車の方に手を振っている。乗せてあ
げたくても乗せられない。この気持ちの切なさ、ただ
大声で励ますだけだった。だれもが開城へ、開城へと
向かっている。我々の方も部落を通過するごとに厳重
な荷物検査と人員検査があった。
目的地市辺里に到着したのは夜中の一時であった。
当時市辺里にはまだソ連軍の進駐もなく部落には旧日
本の警察所がその医務室に当てられ、朝鮮人警察署長
が行政警備に当たっていた。すでに市辺里には脱走日
本人が充満していて河原で野宿していた。署長が我々
医療班の到着を心から喜んでくれて土地の人たちも非
常に温順で、署長の命で我々にはこの地一流の料理店
がその宿舎に当てられた。私は主任医師として医務室
を開設、部落民の要望も入れ部落の人たちの医療にも
当たった。私は署長から日本人所有の医薬品検査係も
命じられた。一時間三十分おきに続々と押し寄せる日
本人満載のトラック、どの顔にも三十八度線突破の決
意が見え、青天井を仰いで野宿するのである。仮医務
室はたちまち満員となり河原に急造の藁ぶき病室が作
られた。そこで病気や、けがの手当てを受けて三十八
度線に向かうのだが、経済的にゆとりのない人は全コ
ースのほとんどを歩いて突破せねばならなかった。
親に捨てられた子、迷い子、子に捨てられた親、ソ
連軍の犠牲となった娘たち。行方不明の子、あらゆる
悲劇が敗戦という現実の中でつくり出された。目的を
達し得ず病に倒れ、無念の涙にくれながら、犬猫のよ
うに野たれ死する人々の慟哭、所々に白骨が見られ異
郷の土になり果てる姿は、とても涙なしには見られな
かった。
落ご者の多くは強行軍による外傷、栄養失調、母乳
不足により餓死する乳児、重症結核による大喀血、子
供を残して病没する母親、毎日が悲惨の連続だった。
昼夜の別なく医療に努力しているうちに二週間は夢
の間に過ぎ、三週目になった。
夜中突然ソ連軍の襲撃に遭い、「娘ダバイ(早く)」
に押し問答、やっと撃退したものの、我々はソ連軍に
よって留置場へ連れて行かれ、医療の中止を余儀なく
させられた。その将校は私の胸に銃を突きつけ「娘二
十人を出すか、否か」と迫ったが、私の説得で何とか
その場は治まりやっと釈放された。しかし、この後も、
娘二十人の代価として危険にさらされることを直感し
た私は、日本人会連絡員に託して身の危険を家族に告
げた。家族も引揚団体の方も驚き、平壤脱出を準備し、
一週間日に幸運にも家族と市辺里で再会することがで
きた。市辺里を脱出のルートにと決意したことが実現
するよう、切に祈った。家族八人(両親、私たち夫婦
と子供二人、弟妹)を含め平壤脱出団体三百八十人が
そろったのでソ連軍、朝鮮軍及び日本人会に連絡して、
私の任務を解消してくれるよう手続をしたところ、後
任派遣が決定したので、その到着を待ち三十八度線を
突破することになった。
このときの当局の許可条件は、できるだけ多くの病
人や婦女子を連れて突破せよとのことであった。私の
市辺里での昼夜兼行の勤務は署長の認めるところとな
り、私たちのために一夜送別の宴を設け私の努力を賞
賛激励してくれた。国境を越えた署長の温かい心尽く
しに一人泣かされた。敗戦後こんなことは想像だにし
なかったし前代未聞のことである。「誠心」こそあら
ゆる民族を通して永久に変わらぬ真理である。
このときほど自分を幸福なものに感じたことも、更
に医師としての責任を痛切に感じたこともなかった。
明日の三十八度線突破コースの構想にいっか明け始め
た東の空に、真紅の太陽が我々の前途に輝いていた。
私はここで平壤からの引揚団体と市辺里の三百二十
人を含め、老人、婦女子を中心に約七百人を七班に編
制した。お世話になった市辺里警察署長と五人の刑事
諸氏に別れを告げる時がきた。お互いの手を堅く握り
明日への前途を祝し合った。種々の情報の総合判断を
すると、目的地開城までは、約六十キロ、途中の乗り
物として牛車、これは全コースの三分の一、二十キロ
で大南まで、それから先は危険が伴うので牛車は行か
ぬ由、それより四十キロはどんな病人、老人、婦女子
でも徒歩で突破ということであった。三十八度線国境
にはソ連軍の前哨がおり警戒厳重、三十八度線上の山
々は標高四百メートルの峻険な山とのことで、我々
の団体としては少し荷が重すぎるように感じた。
午前六時諸般の準備が完了し、我々脱出団体は市辺
里を出発し、いよいよ三十八度線に向かうことになっ
た。第一班・第二班を先頭にそれより百メートルおい
て本隊(第三、第四、第五、第六)これより十メート
ルおいて第七班、進行体系として第一、第二、第七班
には比較的元気な男性を主として、本隊には病人、老
人、若い娘たちを伴って編制、お互いに連絡を緊密に
し、先頭は中村氏、最後は団長の私がつとめた。
私は連絡員数人を連れて一人の犠牲者も出さないよ
う気を配りながら前進した。私は多少朝鮮語が話せた
ので途中全部朝鮮語を使った。
各部落を通過するご)とに、検疫料十円、荷物検査料
十円、部落の通過料十円、計三十円を徴収された。そ
の夜は大南で一泊、ここは朝鮮側の検査だけですみ、
翌朝五時太陽が昇るのを待ってただひたすらに、小南
に向かった。小南は北朝鮮の国境第一線で警戒も特に
厳重で、朝鮮軍人の往来も激しくいよいよ国境近くを
思わせるに十分であった。ここには日本人会から派遣
された日本人駐在員がいて、あらゆる困難を克服して
駐在しておられ何かと世話をしてくださった。これは
私たちにとって暗夜の一燈でどんなに嬉しかったこと
か。駐在員の話によると、これからは山道で朝鮮側の
歩哨と、ソ連軍約一個中隊の警備本部があり、さらに
先の三十八度線に歩哨が約二時間おきに送られている。
この歩哨の交代時間をねらって突破せよ、とのことだ
った。小南ではソ連軍自身の厳重な検査(身体荷物)
があり、私が大事に持っていた唯一の通行手形の証明
書も、朝鮮側発行の証明書も取り上げられ破棄された。
母の持っていた観音経も、平壤での貴重な重要書類、
記念写真類も全部接収破棄された。我々の持っていた
日用品入りのリュックサックもほとんど空になってし
まった。それでもそれが当然のようにだれも、何にも
言わなかった。ただ内地へ帰れるという目的さえ達成
できれば、そんなことは問題ではなかった。
我々の国境突破が近づくにつれて、私は団長として
の責任の重大さを感じた。小南で一泊だがどうしても
眠れなかった。平壤脱出後三十日が経過していた。そ
の間昼夜の別なく恐らく私の生涯を通してあれほど緊
張して身、心共に酷使したことはあるまい。徹夜の連続
であったが人間の精神力の偉大さに驚嘆する。これも
皆先祖の御加護と深く感謝して眠れぬ夜を明かした。
いつの間には空一面に輝いていた星が消え、うす明
るく東の空が白み始めた。いよいよ三十八度線の山々
が見え出した。団長として最後の注意を一同に話し、
無事突破を祈った。どの団員の顔も必死の形相凄まじ
く、既に突破の意気軒昂なるものを感じた。この山を
越えれば懐かしい故郷へ帰れる。一人の犠牲者も出さ
ないこと。これが私のただ一つの願いである。過去一
ヵ年の不安と焦燥、精神的、肉体的疲労から皆が解放
されるのだ。
万一の場合は、団員全部を内地へ送り、私一人の犠
牲で済めば、とも思った。
いよいよ突破の時が来た。予定のとおり第一班を先
頭に一列に並び、最後に私が落ご者を監視しながら進
んだ。途中全身の力をふりしぼり身内に助けられて登
って行く病人、母乳不足で餓死寸前の赤ん坊を捨てよ
うとする栄養失調の母親など、叱りつけたり、励まし
たりしながら皆で最後の力をふりしぼり、頑張って、
頑張って、ついに私たちは頂上を極めることができた。
だれもが無言、一生懸命だった。
そのとき突然、威嚇射撃の銃砲の音、皆、顔面蒼白、
肝をつぶして立ちすくむ。沈黙、どうなることか。こ
の問二十分。不幸中の幸いかそれっきり何も聞こえな
くなり銃声は消えた。
再び沈黙の行進、本当に皆命がけだった。前方に開
城の町が点在している。いつの間にかだれの顔にも涙
があとから、あとから流れ出てくる。開城。開城。
終戦前であれば平壤から汽車で三時間のこの町であ
ったのに……。
今こそ生涯忘れることのない町が我々の眼前にある。
北鮮にはいまだ脱出の機会を得ずして、故郷の山河を
夢に見つつ残留している多くの同胞がいることを思え
ば、何となく足も遅れがち、一日も早く御無事に帰国
をと願わずにはいられなかった。平壤の町、国籍、民
族を超えて学び育った町ともお別れだ。
こうして最初の計画どおり私の団体からは一人の落
ご者も出ず、全員無事開城の米軍直轄の日本人収容所
(テント)に収容された。
心身ともに疲労から解放され、だれの顔にも安堵の
色が見られ、土間の上とはいえ初めて前後不覚に安ら
かに眠ることができた。ここで日本人会に、一同無事、
一人も犠牲者がないことを報告し、関係者から賞賛を
受け再び開城医務室勤務を命じられた。さすがに米軍
収容所の周囲には鉄柵が張りめぐらしてあったが、行
動は自由であった。百人収容のテントが八十。ここで
検疫、諸般の手続完了までテント生活、検疫の終了し
た者から順次十日間の滞在機関を終わり釜山へ送られ
た。
釜山の日本人収容所で再び厳重な身体検査と検疫が
行われ、内地への連絡船を三日間待った後、引揚船に
向けて米軍の上陸用舟艇に乗り込んだ。このとき、妻
が貧血を起こし、今少しで残されるところを強引に連
れ込んだ。
引揚船は船長以下船員は全部日本人で船室は我々に
懐かしい青畳で、やっと伸び伸びすることができた。
食事は久しぶりに味噌汁と米麦の御飯、合掌。感謝の
涙でしばらくは食事ものどを通らなかった。朝鮮の
山々とも、平壤とも永遠のお別れだ。再びこの玄界灘
を渡ことはあるまいと思った。折から満月の朝鮮の海
を引揚船はすべるがごとく一路内地へ。
この夜、船長の配慮で慰安会が行われ、皆が笑顔で
喜んで夜の更けるのも忘れていた。
翌朝午前八時、佐世保港沖に停泊、ここでまた検疫
のため三日間船内生活を送った。
忘れもせぬ、昭和二十一年九月十四日、やっと佐世
保上陸が許可された。今でも記憶に残るのは、佐世保
港の壁に、
「此処は皆様方の夢に見た内地です。どうか、御安
心下さい」
と書かれてあったことだ。内地、内地、私たちは手の
舞い、足の踏むところを知らなかった。
平壤出発以来四十日余り、上陸後私たちは引揚者寮
に入り諸種の(衣類、食糧、お金千円)給付を受けた。
引揚団員の一人一人に配給された五勺のサントリーウ
ィスキーを持って皆私のところへ集まり、私も父と大
いに飲み語り合った。苦楽生死を共にした七百人の
方々とも永遠の別れとなった。明日はそれぞれの故郷
へ向かうはずである。
終わりに
私(信子)の家族親族グループ二十八人も昭和二十
一年五月、平壤駅―貨車―沙里院経由海州間軽軌―鶴
蜆下車―徒歩―部落で越境許可を待ち徒歩で三十八度
線越え―開城―京城―仁川港―佐世保に同年六月二十
五日無事に帰ることができた。
弟の家族は八人を含めて七百人の北鮮脱出団員の
方々も、また、終戦直前召集された軍医の夫が戦死し、
南鮮の晋州道立病院から引き揚げた妹親子も、敗戦を
海外異郷の地で迎えるという苦難を体験した。それぞ
れの引揚げの時期、ルートは違っても、その過程での
苦しみを超えて、全員が無事に、生きて祖国へ引き揚
げて来ることができたことは、敗戦にまつわる海外居
住者の歴史的境涯の中での奇跡のように思われる。私
たち世代のだれでもが否応なく経験した戦争の悲惨さ、
残酷さ、と同時に心の底からこみ上げてくるものは、
平和への切実な願いである。後世を生きる人々の幸せ
を思えば、その前途ある輝かしい人生を二度と再び戦
争の傷跡で汚すことがないように、ここに心からなる
「不戦の祈り」を捧げ、今は亡き弟の冥福を祈るもの
です。
【執筆者の横顔】
中本信子さんは徳島県名西郡浦庄村で開業していた
河崎正信歯科医師の長女として、明治四十二年生まれ、
現在水戸市に在住している。
大正六年に徳島県の父親が朝鮮総督府の医務官とし
て任用され、平壤の道立病院歯科医長に命ぜられた。
当時、信子さんは八歳、弟の智俊氏は二歳で両親と
ともに渡鮮したのである。学業優秀なところがら二人
とも歯科医師となった。つまり河崎家は平壤府の名士
戦前の生活状況
私は明治四十二年、本籍地徳島県名西郡浦庄村字下
浦において、歯科医である父河崎正信、母サイの長女
として生まれた。父は徳島市船場町で開業していたが、
父のところへ第一次世界大戦のドイツ人捕虜が歯の治
療によく来ていた。「私のドイツに残した子供もこの
子くらい」と言って幼稚園児の私を抱き上げたり、頭
をなでてくれたが、私は怖くて大声で泣き出してしま
った。また、「日本のドイツ人収容所は親切だ」と喜
んで父の分厚い本に美しいドイツの花文字で記念のサ
インをしてくれた話など、徳島で暮らした思い出にな
っている。
大正五年に弟智俊がこの船場町で生まれた。
大正六年に父が朝鮮総督府管轄の平安南道平壤道立
病院歯科医長を命じられ、家族を連れて赴任し、平壌
府南町に居住した。
大正八年に朝鮮に暴動が起こり、父も診療外は官服
にサーベル姿で各科の医官と一緒に警備に狩り出され
たが、日本官憲により間もなく暴動は治まり、平壌は
元の平和を取り戻した。父は昭和三年に官職を辞任し、
口腔外科、歯科一般を標示して開業した。平壌で生ま
れた弟妹三人を加え家族七人が平壤府寿町に住み、私
たちは両親の元で小学校、中学校、女学校を皆同じ平
壤で学び育った。
「女の子でも何か生涯役に立つような資格を身につ
けさせてやりたい」という父の考えにより、私は昭和
七年に平壤から近い京城歯科医学専門学校を卒業(第
三回生)し、結婚までの四年間父の元で歯科医療に専
念した。
私が主人(十人きょうだいの長男(内二人天折)と
結婚したときは、すでに三人の義姉妹が結婚していた
が、翌十二年に私たちに長女が生まれた。家庭は還暦
を迎えた義母と、私たち夫婦と子供及び義弟二人、義
妹二人の八人家族だった。
主人の両親はすでに明治四十三年の日韓統合以前に
故郷山口県より志を立てて、渡鮮し、北鮮平壤府水玉
町に居住。全鮮にわたって、朝鮮人向け陶器金物卸商
(主に食器)を経営していた。他にも西鮮清涼飲料会
社(主にサイダー、ラムネ)を持ち大きな店舗を構え
ていた。
現地の朝鮮の人たちとも仲良く融け合って、家族の
ような親密な交流が続いていた。特に主人の母は朝鮮
人の使用人を大事にして世話をし、朝鮮語も堪能であ
った。皆が平壤を愛しここを永住の地、第二の故郷と
してお互いに朝鮮人と学び合った。日本人家屋にも暖
かで子育てに適した温突が設置され、酷寒の平壤の冬
も幸せに過ごせた。
昭和十九年七月に長男が生まれた。
ところが、北鮮で終戦を迎えるという悲運がこよう
とは、当時はだれも知るよしもなかった。
博川に疎開して
平壤にもB
29
襲来の警報サイレンが鳴り響くように
なり、庭に造った防空壕に私は家族と一緒に、生まれ
て間もない長男を抱いてかけ込む日が続いた。幸いに
も米機は爆弾を投下しないで西へ消えホッとした。第
二次世界大戦で欧州では独ソ戦争、アジアでは日本が
米英連合軍により致命的打撃を受けているとき、家族
が相談してまだ安全と思われる博川郡の叔父宅へ、私
は子供二人を連れて、昭和十九年十月疎開した。叔父
は主人の母の実弟で長年平安北海博川に住み、葡萄酒
製造工場を経営していた。工場には現地の朝鮮人が大
勢働いていて、叔父夫婦も彼らのために親身になって
よく面倒をみていたので、朝鮮の人たちも叔父を親の
ように慕っており、何の問題もなく平和な生活が続い
ていた。
叔父夫婦には子供がなかったので、私の子供を大変
かわいがってくれて長女はすぐに、平壤の山手小学校
(一年生在学中)から博川小学校へ途中編入させてく
れた。静かで平和な村だった博川も日本の敗色が濃く
なるにつれ、物資は不自由になり、昭和十九年の暮れ
から二十年の五月ごろになると叔父の工場も葡萄酒の
原料が入らなくなり製造停止となった。機械は軍に徴
用され砲弾に変わった。次第に朝鮮人が集会を開いて
は不穏な行動を取るようになり博川小学校も閉鎖、い
つの間にか朝鮮人の間に赤衛隊が組織され、腕に赤い
腕章を巻いた朝鮮人グループが、日本人家屋に押し入
ってはお金や食糧の略奪が繰り返されるようになった。
日本人は外出できず、終日窓を閉めカーテンを引き、
赤衛隊が門扉を破る音がすると、私たち親子とチエネ (
朝鮮人のお手伝いの娘、叔父が世話している孤児)
叔父は押し入れに隠した。
彼らは銃剣を持って侵入して来るので、毎日毎日が
恐怖の連続で子供は怯えて私から離れなかった。主人
が迎えに来てくれることもできず、平壤も大変なのか
音沙汰なく毎日が気が気でなかった。そんなある夜更
け、叔父夫婦を親のように慕っているオモニ(朝鮮人
のお手伝いさん、朝鮮語でお母さんの愛称)が私の部
屋に来て「奥さん平壤帰りたいか」と言った。私は
びっくり仰天し、飛び上がって喜んだ。「私、平壤帰
りたい、私、平壤帰りたい」子供を引き寄せ、オモニ
にすがって泣いた。「お父ちゃんとこへ行こうね」二
人の小さい子を抱きしめた。すでに叔父さんたちにも
話がしてあると言う。ご恩返しをしたいと言ったそう
である。「あした朝五時、主人トラック平壤行く、三
人乗るいいよ」オモニが変装用の白いチョゴリ(私と
子供用上衣)、チマ(長いスカート)、おんぶ用布、既
婚の女が前髪を包む白い布、朝鮮靴まで揃えて持って
来てくれている。もう三時間しかない。とにかく少し
でも子供を眠らせなくてはと寝床に入れて、哺乳用具、
おむつ、身の回りの物を大急ぎで手提げへ押し込み、
変装の支度に取り掛かった。白い上衣とスカートをつ
け、髪を朝鮮風に結び角隠しのような白い布をかぶり
後で結んだ。赤ちゃんだった長男を腰にのせ、おんぶ
するため布で背中とおしりを包み、前へ回してしっか
りと結んだ。ところが歩こうとしたらよろけて歩けな
い。オモニが笑うけれど、私には生まれて初めての経
験でこんなふうに子供をおぶったことがなかった。何
だか情けなくなってきてポロポロ涙が落ちる。「よく
似合うわ」と叔母さんが励ましてくださる。ようやく
腰で調子をとって歩くことを覚えた。グルッと横に回
せばすぐ赤ちゃんは母乳が飲める仕組み。朝鮮の人の
知恵に驚いた。
門にトラックの音がしオモニの主人が来てくれて叔
母さんと話をした。「私たちはほかの皆さんと一緒に
汽車で平壤に出るから、心配しないで先に帰りなさ
い」と言われた。「どうぞ御無事で」とお世話になっ
たお礼を述べ、オモニの主人の運転するトラックに乗
せてもらった。
彼は人気のない山道ばかり全速力で平壤へ走った。
こんなことってあるだろうか。オモニ夫婦の善意がな
かったら、と思うと感謝で胸がいっぱいになる。私は
この人たちに何もしてあげていないのに……。突然ト
ラックの前方に赤い腕章をつけた怖い男が三人現われ
手を上げて「のせろ」とどなった。オモニの主人が私
たちに、「日本語ダメ、殺される」と小さい声で強く
注意してくれた。何だか恐ろしくなって、子供を抱え
込み「だまってるのよ」とささやいた。頭から血がス
ーと引いていくようだった。ドタドタと男たちが乗り
込んできた。娘の顔が真っ青だ。かわいそうに……。
親の心が感応するのか二人の子供は泣かなかった。オ
モニの主人はさぞハラハラ心配だったことだろう。
赤衛隊の朝鮮人たちは私たちをこの運転手の家族と
思ったのか無関心だった。トラックが夕暮れ近く我が
家の裏通りで止まった。三人の男たちは飛び下りてど
こかへ行ってしまった。オモニの主人が連絡に走り私
の主人が飛んできて、「よう戻ったなー」と小さい娘
を抱き上げて泣いた。七月に平壤に帰って来て、八月
に入った途端、平壤と博川間の交通が遮断された。
叔父夫婦も何とか無事に平壌へ帰られたようだ。も
う少し私たちが平壤へ帰るのが遅かったら、オモニ夫
婦の善意がなかったら、私たちは家族と生き別れにな
ったかもしれない。
日本の終戦直前にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して
参戦し、北朝へ侵攻するとは、当時の私たちには思い
もよらないことだった。
博川から帰壌後、私たちは家族と一緒に水玉町の家
で終戦の詔勅を拝した。
北鮮に居住していた日本人は終戦の年も帰国できず、
ソ連占領下で苦難の抑留生活を強いられた。その後の
引揚げについては、より多くの体験と苦労をそのまま
書き残してあった亡き弟の手記を次章に引用すること
にした。
戦争集結より平壤脱出引揚げまで
(弟)河崎智俊の遺稿より
私(智俊)は昭和十四年父の母校東京歯科医学専門
学校を卒業後、満州国新京病院歯科医長として派遣さ
れ、昭和十五年関東州大連聖愛病院に転任中に結婚。
昭和十七年父病気のため急速同病院を辞任し平壤へ帰
り、父を助けて歯科医療に専念。その間平壤府歯科医
師会理事を兼任中、戦局は次第に緊迫し昭和十九年七
月、私は平壤府警防団第二分団救護班団長を命じられ、
危急の場合地区住民の避難訓練に従事していた。
私たち日本人は報道機関の統制によって終戦のその
日まで敗戦を知り得なかったが、彼らは短波放送で世
界の情勢を完全に把握し、終戦の前に既に日本の敗戦
を予知していたらしく、終戦の日が近づくにつれて日
本人に対する朝鮮側の圧迫も、加速度的に加わった。
昭和二十年八月十五日の終戦詔勅を聞いてからの私
たちの生活は大逆転をし、敗戦国民というレッテルを
はられてしまった。それ以来、我々は目、耳、口をふ
さがれて全く人間としての自由を奪われてしまった。
来る日も来る日も不安と焦燥でおかしくなりそうだっ
た。
終戦の日を期して彼らは過去三十六年の日本統治の
悪政を批判し、朝鮮独立万歳を叫んで街頭を謳歌し始
めた。終戦の二日前に関東軍の将来を心配したその家
族(大方婦女子)三千余人が、奉天、新京地区より避
難して来た。その人たちはいったん日本人遊廓に収容
された。次の移動が一日の差で蹉跌を来し、その人た
ちの予想もしなかった苦難が始まった。
そのころから日本語の使用が禁じられた。また、す
べての行政機関が占拠され、道庁、府庁、警察、学校、
そして銀行、郵便局が全くその機能を停止してしまっ
た。そのころ、日本の無力を見てとったソ連軍は、か
つての不可侵条約を無視して、昭和二十年八月九日朝
鮮国境を突破して南下し、一方、天山、羅津、清津に
艦砲射撃を加え破竹の勢いをもって進攻してきた。
平壤には二十師団。航空隊も。高射砲隊もあり、私
たちも大きな期待を寄せていたが、師団長は内地へ遁
走し、軍は全く無抵抗でソ連軍に占拠された。残留日
本人にそのしわ寄せがきて、日本人居留民団が作られ
たが全く無力で彼らの言いなりになった。また、日本
人会を通して武器の接収、家屋の捜索が始まった。
ソ連軍の平壤占拠は昭和二十年九月二十四日午前六
時であった。我々もソ連軍人壌を祝って赤旗を立てさ
せられた。
ソ連軍による男狩り(十八歳〜四十五歳)そのうち、
在郷軍人はもちろん、役立ちそうな日本人男性は抑留
されソ連へ送られた。日本人会会長は次々と警察へ連
行された。彼らはかっての行政機関の代表者(知事、
府事、警察署長)その他の幹部職員を満州国の延吉へ
送った。
ソ連軍(下士官一人、兵三人、通訳一人)による家
屋接収はいとも簡単に実施された。住居を奪われた日
本人は、未接収に実施された。住居を奪われた日本人
は、未接収の日本人家屋に集結させられ雑居生活を強
いられた。また、どこの軍隊にもあるように、長い問
の戦いに飢え切ったソ連軍は、略奪、暴行を欲しいま
まにして、夜昼なく犠牲に供せられる女たちは数知れ
ず。日本人会も日本共産党が幅をきかせて暴力をふる
い、我々に強制労働を命じた。
一方ソ連軍は道庁を接収して「北朝鮮ソ連軍司令
部」を設置し、いよいよ占領行政が始まった。平壤神
社も破壊されソ連兵戦没将兵の慰霊場となった。かつ
ての日本人が設置した警察に愛国班長以上の日本人が
次々と召喚され尋問責めが行われ、そのため哀れ故国
日本を夢見ながら刑場の露と消えた人も数知れず。
街頭には日本軍人が、また、日赤看護婦が次々と満
州へ連れて行かれた。北鮮の共産化は着々と実施され、
いつの問にかソ連へ亡命していた金日成が多数の部下
将兵を連れて意気揚々と帰ってきた。彼は直ちに保守
系朝鮮人、親日系朝鮮人を圧迫して人民政府をつくり、
かつての日本人の行政機関を一手に収めて彼らの運営
するところとなった。
我々に対する圧迫はますます強くなり、勤労奉仕、
堤防工事将校官舎の雑役などが日本人会を通して狩り
出された。この勤労奉仕に出たまま帰らない婦女子は
哀れにも数知れなかった。
金日成の人気は圧倒的で、彼の率いる二万の軍隊が
その後ろ盾である。スターリンの肖像画と彼のを並べ
て、あらゆる集会場に掲げられ、すべての行政機関が
ソ連式になった。
私の関係していた医療面でも、完全に国営となり開
業は統轄され、七つの人民病院が設置された。(第一
〜第七人民病院)
日本人の開業医の器械、薬品は文句なしに接収され
て、満州その他の引揚げ朝鮮人医師、歯科医師に家ご
とに配布された。薬局もまた同様であった。そしてこ
れらはすべて「北朝鮮人民政治委員会保健部」によっ
て統轄された。
私たちの家屋は朝鮮人(刑事・洗濯屋)によって接
収され、私はソ連軍直轄の第七人民病院へ勤務を命じ
られた。この病院は日本人のために設けられ、在留日
本人及び日本人避難民がその対象であった。また、こ
の第七人民病院には七つの診療所が分院として持たれ、
その内の一つ「解放軍診療所」が私の受持ちで、「市
辺里」にあった。そこには終戦前に避難してまた関東
軍将校の家族たちがいて、大部分が婦女子であった。
その人たちは打ち続く苦難の中で病にかかるものが多
く、集団生活特有の皮膚病や発疹チフスが猛威をふる
った。特に昭和二十年十二月には本疾患に羅患するも
のが、収容人員の八割、死亡者も千二百余人となった。
これら死者の取扱いは困難を極め、棺桶もなく毎日四
人、五人と大八車にござを敷いてその上に直接ころが
し、その上にむしろをかけて約四キロメートル離れた
山に埋めるというより捨ててくる。次の死者を運んで
行ったときは、山犬が食い荒らしているという状態で、
各診療所関係を総合すると約二万人を下るまいと思わ
れる。
当時私たちの生活も底をつき、時の日本人会は、北
朝鮮人民委員会を通して内地引揚げを何回となく懇願
してきたが、その見通しは全く困難を極め、昭和二十
年も十二月を過ぎ二十一年になってしまった。
ソ連軍は一挙に南下して開城まで進出したが、また、
米軍によって追い返されたので三十八度線をますます
強化する一方、朝鮮人青年の軍隊教育を始めた。日本
人は食うに食なく、住む家もなく街頭に日本人の乞食
が出始めた。
切羽詰まった日本人はソ連軍の引揚げ許可を待たず
して、三十八度線越えを企画するものがあっても、大
部分はソ連軍や朝鮮軍に捕らえられ、海州のそばの一
孤島へ強制収容されるか銃殺された。しかし、そのよ
うなときにも、日本人と個人的に親交のあった朝鮮の
人は、ソ連軍や朝鮮軍にかくれて我々を慰めてくれた
り、物、心両面からの援助を惜しまず、内地引揚げの一
日も早からんことを祈ってくれた。しかしこれら愛深
い親日家も、時代の流れには勝てず、政府の圧迫によ
って次第にその影をひそめ、民族独立という主流の中
に包含されてしまった。日本人の脱出者がますます増
え、また落ご者も多くなり、ついに終戦の翌年六月こ
ろからソ連当局が一日五十人ずつ、三十八度線越境を
黙認したけれど、それはもちろん生命の保障のない脱
出である。北朝鮮人民政府は、この黙許と同時に脱出
ルートの警戒を厳重にした。また落ご者のために、所
々に露天の収容所を設け、医療保護を行うことになり、
日本人医師の選抜派遣を命令してきた。私は進んでこ
の命令に応じた。行き先は黄海道、市辺里である。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」と諺にあるよう
に、私は決意し家族も我が身も捨てて虎穴に飛び込む
ことにした。このころソ連将校や朝鮮人は小遣い稼ぎ
のために貨物自動車や汽車で日本人を開城まで輸送す
るからと、法外な大金を要求した。日本人の中には金
を工面して自動車や汽車に乗ったものの事実は全くこ
れに反して幾多の婦女子の暴行事件、機関車の行方不
明などの計画的暴行を受ける結果になった。
一日五十人の越境黙認がますますその数を増し、一
日四百人、五百人となり、また脱出途中の落ご者も次
第に多くなった。市辺里経由の脱出ルート三つの中で
一番危険も少なく、また利用者も多い左記の経路を選
ぶことにした。
市辺里―大南―小南―三十八度線―開城
私はこの市辺里にある診療所の医務室勤務を命じら
れた。私はソ連軍司令部発行の自分の写真入りの証書
を持って家族(父、母、妻、子供二人、弟妹の七人)
を平壤に残し、後ろ髪を引かれながら身を捨てて虎穴
に飛び込んだ。
私の班は医師一人、看護婦四人、助手三人の第一班
で目的地市辺里へ車で向かった。市辺里は平壤から三
十里の所にあって、途中には脱出日本人が続々と列を
なし、親が子の手を引き、老人を背負い、互いに励ま
し合い我々の自動車の方に手を振っている。乗せてあ
げたくても乗せられない。この気持ちの切なさ、ただ
大声で励ますだけだった。だれもが開城へ、開城へと
向かっている。我々の方も部落を通過するごとに厳重
な荷物検査と人員検査があった。
目的地市辺里に到着したのは夜中の一時であった。
当時市辺里にはまだソ連軍の進駐もなく部落には旧日
本の警察所がその医務室に当てられ、朝鮮人警察署長
が行政警備に当たっていた。すでに市辺里には脱走日
本人が充満していて河原で野宿していた。署長が我々
医療班の到着を心から喜んでくれて土地の人たちも非
常に温順で、署長の命で我々にはこの地一流の料理店
がその宿舎に当てられた。私は主任医師として医務室
を開設、部落民の要望も入れ部落の人たちの医療にも
当たった。私は署長から日本人所有の医薬品検査係も
命じられた。一時間三十分おきに続々と押し寄せる日
本人満載のトラック、どの顔にも三十八度線突破の決
意が見え、青天井を仰いで野宿するのである。仮医務
室はたちまち満員となり河原に急造の藁ぶき病室が作
られた。そこで病気や、けがの手当てを受けて三十八
度線に向かうのだが、経済的にゆとりのない人は全コ
ースのほとんどを歩いて突破せねばならなかった。
親に捨てられた子、迷い子、子に捨てられた親、ソ
連軍の犠牲となった娘たち。行方不明の子、あらゆる
悲劇が敗戦という現実の中でつくり出された。目的を
達し得ず病に倒れ、無念の涙にくれながら、犬猫のよ
うに野たれ死する人々の慟哭、所々に白骨が見られ異
郷の土になり果てる姿は、とても涙なしには見られな
かった。
落ご者の多くは強行軍による外傷、栄養失調、母乳
不足により餓死する乳児、重症結核による大喀血、子
供を残して病没する母親、毎日が悲惨の連続だった。
昼夜の別なく医療に努力しているうちに二週間は夢
の間に過ぎ、三週目になった。
夜中突然ソ連軍の襲撃に遭い、「娘ダバイ(早く)」
に押し問答、やっと撃退したものの、我々はソ連軍に
よって留置場へ連れて行かれ、医療の中止を余儀なく
させられた。その将校は私の胸に銃を突きつけ「娘二
十人を出すか、否か」と迫ったが、私の説得で何とか
その場は治まりやっと釈放された。しかし、この後も、
娘二十人の代価として危険にさらされることを直感し
た私は、日本人会連絡員に託して身の危険を家族に告
げた。家族も引揚団体の方も驚き、平壤脱出を準備し、
一週間日に幸運にも家族と市辺里で再会することがで
きた。市辺里を脱出のルートにと決意したことが実現
するよう、切に祈った。家族八人(両親、私たち夫婦
と子供二人、弟妹)を含め平壤脱出団体三百八十人が
そろったのでソ連軍、朝鮮軍及び日本人会に連絡して、
私の任務を解消してくれるよう手続をしたところ、後
任派遣が決定したので、その到着を待ち三十八度線を
突破することになった。
このときの当局の許可条件は、できるだけ多くの病
人や婦女子を連れて突破せよとのことであった。私の
市辺里での昼夜兼行の勤務は署長の認めるところとな
り、私たちのために一夜送別の宴を設け私の努力を賞
賛激励してくれた。国境を越えた署長の温かい心尽く
しに一人泣かされた。敗戦後こんなことは想像だにし
なかったし前代未聞のことである。「誠心」こそあら
ゆる民族を通して永久に変わらぬ真理である。
このときほど自分を幸福なものに感じたことも、更
に医師としての責任を痛切に感じたこともなかった。
明日の三十八度線突破コースの構想にいっか明け始め
た東の空に、真紅の太陽が我々の前途に輝いていた。
私はここで平壤からの引揚団体と市辺里の三百二十
人を含め、老人、婦女子を中心に約七百人を七班に編
制した。お世話になった市辺里警察署長と五人の刑事
諸氏に別れを告げる時がきた。お互いの手を堅く握り
明日への前途を祝し合った。種々の情報の総合判断を
すると、目的地開城までは、約六十キロ、途中の乗り
物として牛車、これは全コースの三分の一、二十キロ
で大南まで、それから先は危険が伴うので牛車は行か
ぬ由、それより四十キロはどんな病人、老人、婦女子
でも徒歩で突破ということであった。三十八度線国境
にはソ連軍の前哨がおり警戒厳重、三十八度線上の山
々は標高四百メートルの峻険な山とのことで、我々
の団体としては少し荷が重すぎるように感じた。
午前六時諸般の準備が完了し、我々脱出団体は市辺
里を出発し、いよいよ三十八度線に向かうことになっ
た。第一班・第二班を先頭にそれより百メートルおい
て本隊(第三、第四、第五、第六)これより十メート
ルおいて第七班、進行体系として第一、第二、第七班
には比較的元気な男性を主として、本隊には病人、老
人、若い娘たちを伴って編制、お互いに連絡を緊密に
し、先頭は中村氏、最後は団長の私がつとめた。
私は連絡員数人を連れて一人の犠牲者も出さないよ
う気を配りながら前進した。私は多少朝鮮語が話せた
ので途中全部朝鮮語を使った。
各部落を通過するご)とに、検疫料十円、荷物検査料
十円、部落の通過料十円、計三十円を徴収された。そ
の夜は大南で一泊、ここは朝鮮側の検査だけですみ、
翌朝五時太陽が昇るのを待ってただひたすらに、小南
に向かった。小南は北朝鮮の国境第一線で警戒も特に
厳重で、朝鮮軍人の往来も激しくいよいよ国境近くを
思わせるに十分であった。ここには日本人会から派遣
された日本人駐在員がいて、あらゆる困難を克服して
駐在しておられ何かと世話をしてくださった。これは
私たちにとって暗夜の一燈でどんなに嬉しかったこと
か。駐在員の話によると、これからは山道で朝鮮側の
歩哨と、ソ連軍約一個中隊の警備本部があり、さらに
先の三十八度線に歩哨が約二時間おきに送られている。
この歩哨の交代時間をねらって突破せよ、とのことだ
った。小南ではソ連軍自身の厳重な検査(身体荷物)
があり、私が大事に持っていた唯一の通行手形の証明
書も、朝鮮側発行の証明書も取り上げられ破棄された。
母の持っていた観音経も、平壤での貴重な重要書類、
記念写真類も全部接収破棄された。我々の持っていた
日用品入りのリュックサックもほとんど空になってし
まった。それでもそれが当然のようにだれも、何にも
言わなかった。ただ内地へ帰れるという目的さえ達成
できれば、そんなことは問題ではなかった。
我々の国境突破が近づくにつれて、私は団長として
の責任の重大さを感じた。小南で一泊だがどうしても
眠れなかった。平壤脱出後三十日が経過していた。そ
の間昼夜の別なく恐らく私の生涯を通してあれほど緊
張して身、心共に酷使したことはあるまい。徹夜の連続
であったが人間の精神力の偉大さに驚嘆する。これも
皆先祖の御加護と深く感謝して眠れぬ夜を明かした。
いつの間には空一面に輝いていた星が消え、うす明
るく東の空が白み始めた。いよいよ三十八度線の山々
が見え出した。団長として最後の注意を一同に話し、
無事突破を祈った。どの団員の顔も必死の形相凄まじ
く、既に突破の意気軒昂なるものを感じた。この山を
越えれば懐かしい故郷へ帰れる。一人の犠牲者も出さ
ないこと。これが私のただ一つの願いである。過去一
ヵ年の不安と焦燥、精神的、肉体的疲労から皆が解放
されるのだ。
万一の場合は、団員全部を内地へ送り、私一人の犠
牲で済めば、とも思った。
いよいよ突破の時が来た。予定のとおり第一班を先
頭に一列に並び、最後に私が落ご者を監視しながら進
んだ。途中全身の力をふりしぼり身内に助けられて登
って行く病人、母乳不足で餓死寸前の赤ん坊を捨てよ
うとする栄養失調の母親など、叱りつけたり、励まし
たりしながら皆で最後の力をふりしぼり、頑張って、
頑張って、ついに私たちは頂上を極めることができた。
だれもが無言、一生懸命だった。
そのとき突然、威嚇射撃の銃砲の音、皆、顔面蒼白、
肝をつぶして立ちすくむ。沈黙、どうなることか。こ
の問二十分。不幸中の幸いかそれっきり何も聞こえな
くなり銃声は消えた。
再び沈黙の行進、本当に皆命がけだった。前方に開
城の町が点在している。いつの間にかだれの顔にも涙
があとから、あとから流れ出てくる。開城。開城。
終戦前であれば平壤から汽車で三時間のこの町であ
ったのに……。
今こそ生涯忘れることのない町が我々の眼前にある。
北鮮にはいまだ脱出の機会を得ずして、故郷の山河を
夢に見つつ残留している多くの同胞がいることを思え
ば、何となく足も遅れがち、一日も早く御無事に帰国
をと願わずにはいられなかった。平壤の町、国籍、民
族を超えて学び育った町ともお別れだ。
こうして最初の計画どおり私の団体からは一人の落
ご者も出ず、全員無事開城の米軍直轄の日本人収容所
(テント)に収容された。
心身ともに疲労から解放され、だれの顔にも安堵の
色が見られ、土間の上とはいえ初めて前後不覚に安ら
かに眠ることができた。ここで日本人会に、一同無事、
一人も犠牲者がないことを報告し、関係者から賞賛を
受け再び開城医務室勤務を命じられた。さすがに米軍
収容所の周囲には鉄柵が張りめぐらしてあったが、行
動は自由であった。百人収容のテントが八十。ここで
検疫、諸般の手続完了までテント生活、検疫の終了し
た者から順次十日間の滞在機関を終わり釜山へ送られ
た。
釜山の日本人収容所で再び厳重な身体検査と検疫が
行われ、内地への連絡船を三日間待った後、引揚船に
向けて米軍の上陸用舟艇に乗り込んだ。このとき、妻
が貧血を起こし、今少しで残されるところを強引に連
れ込んだ。
引揚船は船長以下船員は全部日本人で船室は我々に
懐かしい青畳で、やっと伸び伸びすることができた。
食事は久しぶりに味噌汁と米麦の御飯、合掌。感謝の
涙でしばらくは食事ものどを通らなかった。朝鮮の
山々とも、平壤とも永遠のお別れだ。再びこの玄界灘
を渡ことはあるまいと思った。折から満月の朝鮮の海
を引揚船はすべるがごとく一路内地へ。
この夜、船長の配慮で慰安会が行われ、皆が笑顔で
喜んで夜の更けるのも忘れていた。
翌朝午前八時、佐世保港沖に停泊、ここでまた検疫
のため三日間船内生活を送った。
忘れもせぬ、昭和二十一年九月十四日、やっと佐世
保上陸が許可された。今でも記憶に残るのは、佐世保
港の壁に、
「此処は皆様方の夢に見た内地です。どうか、御安
心下さい」
と書かれてあったことだ。内地、内地、私たちは手の
舞い、足の踏むところを知らなかった。
平壤出発以来四十日余り、上陸後私たちは引揚者寮
に入り諸種の(衣類、食糧、お金千円)給付を受けた。
引揚団員の一人一人に配給された五勺のサントリーウ
ィスキーを持って皆私のところへ集まり、私も父と大
いに飲み語り合った。苦楽生死を共にした七百人の
方々とも永遠の別れとなった。明日はそれぞれの故郷
へ向かうはずである。
終わりに
私(信子)の家族親族グループ二十八人も昭和二十
一年五月、平壤駅―貨車―沙里院経由海州間軽軌―鶴
蜆下車―徒歩―部落で越境許可を待ち徒歩で三十八度
線越え―開城―京城―仁川港―佐世保に同年六月二十
五日無事に帰ることができた。
弟の家族は八人を含めて七百人の北鮮脱出団員の
方々も、また、終戦直前召集された軍医の夫が戦死し、
南鮮の晋州道立病院から引き揚げた妹親子も、敗戦を
海外異郷の地で迎えるという苦難を体験した。それぞ
れの引揚げの時期、ルートは違っても、その過程での
苦しみを超えて、全員が無事に、生きて祖国へ引き揚
げて来ることができたことは、敗戦にまつわる海外居
住者の歴史的境涯の中での奇跡のように思われる。私
たち世代のだれでもが否応なく経験した戦争の悲惨さ、
残酷さ、と同時に心の底からこみ上げてくるものは、
平和への切実な願いである。後世を生きる人々の幸せ
を思えば、その前途ある輝かしい人生を二度と再び戦
争の傷跡で汚すことがないように、ここに心からなる
「不戦の祈り」を捧げ、今は亡き弟の冥福を祈るもの
です。
【執筆者の横顔】
中本信子さんは徳島県名西郡浦庄村で開業していた
河崎正信歯科医師の長女として、明治四十二年生まれ、
現在水戸市に在住している。
大正六年に徳島県の父親が朝鮮総督府の医務官とし
て任用され、平壤の道立病院歯科医長に命ぜられた。
当時、信子さんは八歳、弟の智俊氏は二歳で両親と
ともに渡鮮したのである。学業優秀なところがら二人
とも歯科医師となった。つまり河崎家は平壤府の名士
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