北朝鮮からの引揚記 神奈川県 玉 井 廣 道
北朝鮮からの引揚記
神奈川県 玉 井 廣 道
咸興は李朝発祥の地、若い李成桂が学んだとい
う巨刹を始め、由緒ある霊廟・景勝・古跡の残る
土地でもあった。城川江・湖漣川という二つの川
で造成された咸興平野は広く、近在の生産物資の
集積所であり、ここを拠点に事業を拡大する日本
人も多く、守備隊も置かれていた。
陸軍教導団を出て六年間の軍籍を経て、二十六
歳で出家した父廣観和尚は、十年間伊勢四天王寺
の師匠の元で厳しい弁道修行をして印可を受け、
三十七歳の大正二(一九一三)年、雲水の行脚姿
で無一物でこの地、咸興に来た。そして、この新
開地の荒れすさんだ心の人たちを対象に、布教活
動を展開した。
辻説法や托鉢で街角に立ち、大正四年にはやん
ばんの長屋を借りて、曹洞宗布教所の看板を出し
て屋内の説教も始めた。やがて説教に耳を傾ける
者が増え、安心のために寺院の建立がこの地に必
要であると思う有志が増えて浄財が集まり、大正
六年の秋には本堂の落成を見、ここに禅寺盤竜山
興福寺の開山となる。
爾来三十年にわたって、警察署や兵営での座禅
指導や、仏教青年会を組織して青少年の善導を行
い、刑期を終えた者の保護観察や、老少の者へ安
心を与える説教活動を続けたのである。廣観和尚
は寺院経営の傍ら、併せて学齢超過のために学校
へ通えなかった朝鮮の子弟を収容するため、私設
学術講習会と名付けた準小学校を設立して、教育
事業を行った。朝鮮の子弟の教育には普通学校が
あったが、数が足りず希望通り進学できなかった
者が多かったので、この講習会は大変喜ばれ、教
室を増設して収容した。終戦のころには六教室と
なり、昼は三百人の女子、夜は百人の成年男子が
学んでいた。
信徒たちの要望を入れて、大正十三年には観音
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堂を建て、西国三十三番の御詠歌を唱える観音講
中ができた。伊勢から豊受稲荷を奉請して、商家
の要望にも応えた。八月の盆には二百人ほどの女
の子が浴衣を着て集まり、境内で輪になって楽し
い盆踊りもできた。年中行事や日々の日課を怠ら
ない廣観和尚であったが、戦時中には信徒の信仰
の結晶である梵鐘を献納し、寒修行の際の浄財を
飛行機献納資金に回したりした。四人の息子のう
ち末子廣道だけを残して、三人も陸海軍に送り出
していた。
昭和二十(一九四五)年の八月初旬から体調を
崩した廣観和尚は、終戦の詔勅を高熱の続く病床
で聞いた。九月に入って小康を得たときは、講習
会の教室から朝鮮古来の言葉を教える「オンモ
ン」の斉唱が聞こえるようになった。見舞いに来
た韓鎮悳教頭に「これまで、この小さな規模でよ
く子弟を育ててきたが、日本人学校の設備が全部
空くことになる。これからは新しくできる委員会
に図って、大きな設備に吸収してもらうように。
小細工を使ってはいけない」と事業完了宣言をし
た。
公会堂の屋上には赤旗がひるがえった。日の丸
に青の絵具で巴を描き、四隅に算木を書き加えて
大極旗をこしらえたが、揚げる機会が無かった。
本堂・観音堂は、清津・羅南などから身一つで
逃げて来た避難民であふれた。やがて、ソ連軍の
戦車やトレーラーが轟音を立てて南下して来た。
先頭を切って入って来たのは、ボールヘッドで腕
に入れ墨をした囚人兵だった。肩から自動小銃を
逆さに下げて、夜は日本人の民家に入り込み、「マ
ダム ダワイ ダワイ!」と叫んで婦人や娘を捜
しては、引き出して犯していた。
ある夜更け、炊事場の引き戸がガタガタたたか
れ、つっかえ棒が倒され、一人で煎餅布団で寝て
いた私の枕元に、フェルト長靴のソ連兵が侵入し
て来た。寝たふりをしている顔をのぞき込み、男
と認めたので侵入した所から去って行った。膝が
ガクガク震えているのを見て行ったはずなのに。
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二重の襖を隔てた隣室には、三人の娘を連れた城
津の寺の親子が息を潜めていたが、私の寝たふり
作戦で三人の娘には何事もなく終わって良かった。
マンドリンと呼ばれた自動小銃を突きつけられて
は、だれも助けに入ることはできない。集団から
離れてソ連兵に捕まった人は、悪魔に捧げられた
生け贄のごとくとなり、悔し涙に暮れたことだっ
た。この地獄のような日は、コミンダン(憲兵)
が来るまで続いた。
昼は毛布を肩にした水兵の集団や丸腰の歩兵の
集団が、足を引きずって北へ連行されて行った。
この兵士たちは、この後七年も八年もシベリアで
苦労することになるのであった。
官舎や一戸建ての家に住んでいた日本人は、住
居を接収されて集団生活を強いられた。九月二十
四日に「日本人は全員、市営グラウンドに集合す
るように」との通達が人民委員会からきた。「殺
されても仕方がない。重病人を置いてはグラウン
ドに行けない。このまま家にいる」という母の言
葉に、父母を置いてグラウンドに集合した。スタ
ンド最上段に機関銃を数丁据えて威嚇する中で、
中央の壇上で代表が演説を始めた。「君たち日本
人の中の帝国主義者たちは、朝鮮の財産を奪い文
化を壊し、言語まで奪った。我々は、決して民衆
を苦しめることはしない。帝国主義日本を憎むが、
お前たちを憎まない。不穏な企てがないか摘発を
する間、お前たちをここに集めておくのである」
と声高にしゃべっていた。そして延々と夕方まで
留め置かれて、その間家宅捜索があり、隠匿した
武器の出た者、戦時中の官憲の履歴の分かった者
などが逮捕されたようであった。日本統治下の刑
務所で、思想犯と呼ばれて収監されていた者は真
っ先に釈放されて、人民委員会や保安隊の幹部と
なり、報復のための日本人投獄があった。
残暑の厳しい中で発疹チフスの流行が始まった。 しらみ 着の身着のままの避難民は、たくさんの虱をたか
らせていた。DDTの知られていないころで、さ
らし粉を真っ白に撒き、ソ連軍の蒸気洗濯自動車
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が収容所を回って肌着を消毒して行ったが、効き
目はわずかだった。その虱によって伝染する発疹
チフスは、確実に死亡者を増やしていった。病床
の父に代わって十五歳の小坊主の私は、頼まれて
は葬儀に赴いた。虱がはい上がるのを嫌って、民
家を訪れる医者は長靴のまま部屋に入るが、引導
を渡す僧は死者の枕元に直接座らなければならな
かった。病人の体に付いていた虱は、体が冷えて
くると髪の毛のある頭の方に集まってきた。その
虱を見ながら読経するのであった。孤児になった
ことも理解できない幼い姉弟が、母親の葬儀が行
われている隣の部屋で、哀愁を帯びた赤旗の旋律
で替え歌を歌っていた。「かあちゃんがー、かえ
らんかなー」
咸興中学校四年生在学中であった私は、興南の
燃料工場で勤労動員中に終戦を迎えた。八月十七
日には、全生徒が学校に集まって閉校宣言を聞い
たのであるが、私は十三日の盆の入りから衣を着
て棚経回りをしていたし、父の看病もあり学校に
は一切顔を出せなかった。自分が再帰熱に感染し、
死線をさ迷うことになる十二月末までは、日本人
世話会の葬儀屋に頼まれて読経に赴いていた。引
導を渡し戒名をつけたのは、およそ百十七人を数
えた。観音堂前の藤棚の下が死体置き場になり、
筵に包まれた死体が運び込まれ、兵隊崩れが毎日
十体くらいずつ大八車に積んで、遠い山の埋葬所
に運び上げていた。全市では道立病院だけでは足
りず、商業学校の校舎を臨時病院にして患者を収
容したが、そのほとんどは死を迎え筵包みにされ、
山の埋葬所に送られた。羅南の和尚清野さんも、
女中代わりに母の看病をしてくれた人も亡くなっ
た。身寄りの連絡先も告げないで発疹チフスで死
亡したため、その死はだれにも伝えられないまま
で、これこそ野垂れ死にだった。
母は、本堂や観音堂を埋めている避難民の世話
をしている間に自身が発疹チフスに感染し、十日
間ほど高熱に苦しみながら息を引き取った。大谷
医師から譲ってもらったカンフルを注射したが、
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遂に救うことができなかった。肺炎も併発してい
たのだ。張り板にかんなをかけて棺を作り、大八
車で墓地へ運んだ。
昼は依然として衣を着て葬式の家を回り、夜は
父の看病をしたが、その父も栄養失調に老衰も加
わって、二週間後に母の後を追うように逝ってし
まった。一山の住職の遷化に当たってどのように
すべきかと、参考文典を読みあさった。盛大に見
送りたかったので、連絡のついた日妙寺の和尚に
伴僧として来てもらい、十五歳の小僧にできる限
りの威儀で送った。大八車で山へ運んだのは十二
月半ばで、寒く冷たい風が吹いていた。十二月二
十五日には、戒名を彫った朝鮮風の石碑を運び上
げ、セメントをこねて立てた。
その翌日辺りから回帰熱に感染して発病し、高
熱を発し生死の境をさ迷ったが、父母の使い残し
たカンフルがあったので、注射してもらい、幸い
体力が残っていたので一月半ばには回復した。零
下二十度の極寒の時期であっても、餓死・凍死に
よる死者は確実に出る。結氷期以前に、山の斜面
に深さ二メートルぐらいの壕を延々と掘ってあっ
たが、その中へ三段積みくらいで、筵に包まれた
死体が並べられていた。みんなこんなことで死に
たくはなかったのでしょうが、致し方のないこと
だった。わずか五カ月の間に、約二万六千人の人
がこうして土の下へ入れられたのだった。
二月になると、歩いて三十八度線を越えようと、
焼き米を腰に付けて南下を始める者が増えてきた。
途中で悪い朝鮮人に金品を奪われる者もあったが、
逆に思いがけない親切を受けたりして、鉄原で三
十八度線を越え、議政府の収容所にたどり着いた
とのこと。
三月には、本堂・観音堂を占領していた避難民
の生き残りの者もいろいろな方法で南下を始め、
遂には無人になってしまった。畳はあちこち焦げ、
位牌棚の位牌はすべて燃料にされて残っていなか
った。それでも御本尊の釈迦牟尼佛は至極円満な
相をしておられ、燭台・輪灯・木魚などとともに
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残されていた。寺のある軍営通りは、人民委員会
の都市計画で道路拡張工事が始められる予定で、
それがいつになるにせよ取り壊しが始まっては、
廣観和尚の心血を注いだ聖地が無惨に汚されてし
まう。幸い、戦前に駒沢大学を出ている朝鮮の知
己が、古刹歸州寺の末寺極楽庵の庵主の息子であ
ることを知った私は、本堂・観音堂にある仏像仏
具の一切を、歸州寺に保管してもらうことに決め
た。
日本に帰らず、父母の墓守で一生を終えようと
考えた私は、仏具一切を運び終えたら、そのまま
自分も歸州寺に住みたいと考えていた。
三月中旬、伊勢伝来の本尊像・観音像・梵鐘代
わりの大太鼓・輪灯・燭台・香炉・木魚・鉦その
他の仏具一切を大切に包み、牛車に乗せて運んだ。
湖漣川を渡り、巨大な王子墓定和陵を過ぎ、残雪
の谷川沿いの山道を、御者と一緒に牛車を押して
登った。朝鮮語を全く話せない私は、精いっぱい
の笑顔で答えるだけだったが、極楽庵住職の老夫
人は、「息子のつもりで迎えます。いつまでもい
るように」と親切に言ってくれた。三日ほどは永 しんちゅう 住の覚悟で過ごしたが、朝夕二回真 鍮どんぶり
の白飯にキムチやコチジャンをつけて食べ、陽の
射さない庵で言葉も分からずに過ごすことに不安
を感じ、病院へ行くと言って山を下りた。一生墓
守で過ごすという決心は、簡単に崩れたのであっ
た。
がらんとした家で、既に母が買いためていた米
は底をついてしまい、何とか食いつなぐために布
団を売り、余分な衣類を売り、建具のガラスを売
ったが、いよいよ日銭を稼がなくてはならなくな
った。大通りの空き地が、日本人風太郎のたまり
場になっていた。一緒になってしゃがんでいると、
求人の朝鮮人やソ連兵が雇ってくれるのだ。山に
つないである食用の牛を、約十五キロメートル離
れた興南まで連れて行く仕事があった。雇い主は
ソ連軍だ。一頭につき二十五円の賃金を払うとい
う。二頭で五十円だと意気込んで綱を解いたら、
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気の荒い牛で角突き合いを始めた。生まれて初め
ての牛引きは、一頭でさえ手に余るものだった。
長い道を牛を追って歩き、日の暮れにやっと興南
に着き、二十五円と黒パン一片を受け取って空き
家に野宿した。また、別の仕事では建物の取り壊
し作業で、頭から埃にまみれて天井を突き壊し、
床をはいだこともあった。米一升が四十円のとき
で、それに近い賃金がもらえた。脱出に備えて朝
鮮銀行券を蓄えなくてはいけなかったが、ソ連軍
の軍票でもらったので、朝鮮餅を買ったり市場で
豆腐を食べたりして、浪費してしまった。マッチ
工場で軸詰めの仕事もあった。神戸にいたことが
あるという四十代の主人は日本語が上手で、刷毛
で小箱の側面に赤燐を塗りながら、親切に声を掛
けてくれた。タバコの葉を刻み、紙巻きタバコを
手作りして、市場で売る日本人もいた。ソ連軍将
校官舎での薪割りや、子守りやメイドの仕事もあ
った。地味だが、確実に貯蓄のできる仕事はマッ
チ箱貼りだった。経木を細く切り、紙で貼り合わ
せて中箱と外箱を作った。これは一箱二十銭で、
一日二百箱は作れた。屋内で楽にできる、良い仕
事の一つだった。
五月何日かに日本人世話会から達しが来て、冬
の間に山の斜面に作った集団墓地が荒れてきたの
で整理したいから、道具を持って集まるようにと
いうことだったが、既に南下脱出した者が多く、
咸興に残っている日本人はわずかだった。スコッ
プや鍬を担いで山道を登ったが、共同墓地を見て
皆は唖然とした。厳冬期の埋葬では遺体を穴の中
に放り込み、二、三段に積み上げて、その上に一
尺ほど土をかぶせただけだった。暖かくなって凍
土が溶け始めると、土が陥没して死臭に誘われて
野犬が集まり、遺体を引き出して荒らし回ったの
で、異様な状態になっていた。「気の毒に! 済
まなかった!」と手を合わせ、遺体を埋め直し土
を充分に盛り上げた。作業を進めるうち死臭も気
にならなくなり、三日間続けてすっかり整地を終
え、「日本人二万六千人埋葬」と記した供養塔を
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建てた。ついでに、松林の中の旧墓地にある父母
の墓に参った。年末に、セメントを練って建てた
朝鮮風の石碑が傾いているので直そうとしたら、
大きく土が陥没して低く平らに納まった。墓地か
ら下がる山道は、咸興名物のリンゴ園が続いてい
た。ちょうどリンゴや梨の花盛りの時期であった
ので、良い香りの中、蜂が舞っていた。
残りわずかになった日本人を見て、いよいよ引
揚げの日も近いと悟った私は、重大な忘れ物があ
ることに気付いた。本堂と観音堂の間に、鉄筋コ
ンクリート造りの五メートル四方の納骨堂があっ
た。鍵を開いて中に入ると、三方の壁面に三段の
棚があって、そこには興福寺三十余年にわたる信
徒の遺骨が並んでいた。本来墓地に納まるべき遺
骨だが、内地に帰るとき連れて帰りたいという遺
族の希望で預かっているのであった。しかし、終
戦時に引き取りに来た人はわずかだった。引き取
り手の無いこの大量の遺骨を、そのままにしてお
けなかった。やがて取り壊される予定の建物であ
った。
安全な地に埋葬することに決めた私は、棺を五
つ買い求め大八車を借り、兵隊崩れを二人雇った。
白布に包まれた骨箱を、棺に詰め直して蓋をし重
ねた。入りきれない骨箱は、その上に並べてロー
プをかけた。移設先は、共同墓地の塹壕であった。
つづら折れの山道を、膝が地に着くようにして、
大八車を押して登った。道から穴までの斜面を、
幾度も往復して運んだ。納骨堂の中では整然と並
んでいた遺骨を、年代順も縁者も皆バラバラに穴
の中に重ね、大量に土を盛り上げ、興福寺結縁納
骨所と書いた太い柱を立てた。物言わぬ遺骨では
あったが、親族の詣でることの絶対無い異国の土
に眠ることになる魂の泣き声が、松林の中に聞こ
える夕暮れの山中だった。
夏になると、米の飯も滅多に食べられなくなっ
た。コーリャンの赤いパサパサした味気ない食事
であった。栄養失調になっていることも知らない
でいたら、小学校のときの友人が来て、ジャガイ
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モとワカメの味噌汁を作ってくれた。脱出する闇
船に乗るには、八百円を準備しなくてはならなか
った。日本銀行券は、内地に上陸してから必要だ
から胴巻きにしまい込み、朝鮮銀行券とソ連軍票
で当座を賄った。母が生前、帯を材料にしてリュ
ックサックを縫っていたので、父の残した雲水の
袈裟行李と応量器を詰めた。書類は検査で取られ
るというので、わずかな写真と一緒に底に隠し入
れた。ソ連兵に取られなかった時計と万年筆は、
貴重品であった。
咸興在留日本人最後の引揚げ集団は、いよいよ
九月十七日朝出発することに決定した。亡父と日
露戦友会でつながっていた芳賀氏は、朝鮮人の夫
人と共に残留することになったが、そのほかのす
べての日本人が今回は根こそぎ脱出することにな
った。
既に道路工事は始められており、興福寺の本
堂・観音堂は取り壊しが進んでいた。遊び慣れた
庭の桜や松、講習会の校舎に別れを告げて、咸興
駅に集合した。飯盒に米五合、握り飯数個と焼き
米を携帯した。
ソ連軍には話はついているのに、何度かトラブ
ルが起き、無蓋車から降ろされてソ連兵と通訳に
引き立てられる人が出たりして、わずか五駅しか
離れていない呂湖に十四時に到着した。ここで、
興南からの最後の引揚者と合流して乗船した。我
が漁船には百六十八人同乗、咸興・興南の最後の
引揚者を乗せた漁船十隻は入り海に一泊し、翌晩
月の出を待って出帆した。出てすぐ西湖津沖で二
百二十日過ぎの大時化に遭い、死ぬほどの苦しい
思いをして出港地に避難したが、四隻だけが集ま
った。九月二十日三時に再び出港、狂瀾怒涛の文
字通り木の葉のような船で突き抜けた。
団長の古橋さんは軍刀をござに巻いて抱き、舵
のそばに頑張った。胴の間には老人、幼児が真っ
青な顔をして、様々な姿で転がっていた。若い者
は甲板に横になった。風向きが変わる度に、厚い
刺し子を着た船頭や水夫たちが、帆網を曳いて踏
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みつけていった。大声での話し声も、風のため吹
き千切られて届かなかった。「ギーギー」ときし
む帆柱。「ドシンドシン」とたたきつける波。舳
に飛び上がり、「ドサッ」と流れ込むしぶき。中
天の星は、帆柱と一緒にひどく揺れて見えた。吐
き尽くした胃の腑からは、体中を激しくけいれん
させて苦い胃液が込み上げた。夜が明けても、う
ねりは高かった。
元山沖にソ連軍の哨戒機を認めて、船尾に赤旗 い る か を立てた。やがてうねりも小さくなり、海豚が現
れて波の上でジャンプを見せてくれた。
二十二日の昼、三十八度線の注文津に着いた。
いか釣り船に乗り移り、砂浜に上がった。体中が
まだ激しく揺れ続いていた。ほとんど飲まず食わ
ずで五日間船の中にいたのだから、無理もないこ
とだ。米軍のトラックが迎えに来て、松林に囲ま
れたキャンプに入った。五十人ぐらいを詰め込め
るテントが、二十幾張りかあった。有刺鉄線に囲
まれた収容所は、事務所、炊事場、便所など清潔
に保たれていた。ここで一列に並び、頭から爪先
まで真っ白にDDTの洗礼を受け、両腕にコレラ
とチフスのワクチンを注射された。
そら豆、グリンピースなど、豆ばかりのお粥と
コンビーフを空き缶に受けて食べた。九日間の収
容所生活は、便所使役・炊事使役があり、出す物
入る物の衛生には十分気を付けていた。夜間には、
ローソクの光の中で演芸会。「明日は迎えの船が
来る」と心待ちの生活。夕方、帰国準備をして出
て行った一団が、船が満員でがっかりして戻って
来たこともあった。
十月一日、上陸用舟艇(LST)に乗船した。
白ペンキを塗った船倉やパイプ式の棚などを安ど
の眼で眺めた。同日二十時出港、朝鮮半島が夕闇
の中に消えていった。
甲板の銃座の下で寝たり、錨用ハッチに潜り込
んでシャツについた虱を数えたり、炊事使役で十
五度もローリングする甲板を、食缶をぶら下げて
走ったりした。夜には、舷側の夜光虫が美しく光
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っていた。
十月四日の朝、佐世保港外に着いたが、米軍艦
隊の入港を待ったので、十一日になって港内に入
った。ところが、ここでの上陸は不可能というこ
とになって、十四日十五時、大竹港に向け出港し
た。何と無駄に日時が費やされたことか。
関門海峡は機雷の心配があり、それを避けて鹿
児島開聞岳を眺め九州南端を回った。日向灘を航
行中に、船内で老婆が死亡した。せっかくここま
で来ていながら、祖国の土を踏めなかったのは心
残りだったろう。水葬することになり、手の空い
ている者は左舷に並んで見送った。冷たい鉄のパ
イプを抱かせメリケン袋の中に入れられ、船長、
事務長ら乗組員が敬礼するうち、海に投げ入れら
れた。いつまでも青白く見えて海中に沈んでいっ
た老婆の冥福を祈り、船はその場を汽笛を鳴らし
て一周。再び北に向かった。
十五日夕刻、四国三津ヶ浜に仮泊。安芸の灘の
潮流の治まるのを待って、十六日朝抜錨。夕刻大
竹港に入り、十八日朝上陸開始。舳の扉がガラガ
ラと倒されて、暗い船倉いっぱいに青い海と大竹
港の白砂が開けた。
大竹の海兵団跡の収容所に三泊し、その間に引
揚証明書の交付、リュックサック、毛布、衣服、
帽子などの支給、新円交換、帰郷地申請などを行
い、そして虱だらけの下着やぼろ袋の焼却をした。
二十一日十七時、やっと帰郷列車に乗れた。広
軌を見慣れている者には岩国駅の線路は狭く、ロ
ーカル線かと思った。二十二日三時、大阪駅で乗
り換えた。大きな袋、ちぐはぐな服装、真っ暗な
車内、喧騒な引揚列車は東へ東へと向かって走っ
た。同十二時、名古屋駅にて再び乗り換えた。マ
ッチ箱貼りや闇船での脱出、注文津収容所などで
苦労を共にした人たちとは、ここで別れた。
中央線でも乗り換えがあって、夜遅く着いた長
野駅では引揚者用の宿舎に泊まり、十月二十三日
夕、本籍地の保科村にたどり着いた。咸興を出て
から一カ月と一週間の引揚げ行だった。
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長兄は、満州の四平街の関東軍航空隊にいて消
息不明。次兄は、朝鮮元山の海軍航空隊にいたが、
ソ連軍進駐の直前に福岡の雁の巣に空路復員して
いた。三兄は、横須賀の潜水艦隊に所属していた
が、負傷して草津で療養中に終戦となり、復員し
ていた。
その後、二人の兄と協議の末に、私は小諸海応
院へ小僧として預けられることに決まった。住職
の普山式があるので、人手が必要だったのである。
法戦の練習、須彌壇の掃除、仏具の運び込みなど
多忙な日を過ごした後、下男の生活に戻ると、浅 ぶ りょう 間の噴煙を望みながら無 聊をかこちだし、海応
院を飛び出した。遠州森の大洞院、伊予の瑞応寺
の修行道場を回ったが、どうも落ち着けなかった
私は、寺から離れることに方針を変えた。末子で
親が手放さず、十六年間一度も内地へ渡っていな
かった私は、親戚とのつながりも薄かった。三兄
が付き添って、保科村の父方と柏原村の母方の両
伯父と交渉し、私の長野中学進学費用を折半で出
すことに話が決まった。入学までの三カ月間、無
駄飯を食えないから、復員局地方世話課の臨時雇
に勤めた。県出身の戦死者が、どの戦場でどのよ
うに死去したかを克明に記録していく仕事だった。
記録作業を続けながら、私は考えた。朝鮮咸興中
学校で仮卒業証書をもらっているのに、今さら伯
父たちに学費を出してもらって長野中学に入り直
すことはないと、軌道修正をした。
たまたま知り合った清水氏の話で、長野市相の
木の農民組合長の家に書記として住み込んでしま
った。現状を突き破りたいだけの若気の至りで、
伯父たちは呆気にとられたろう。肥料や農薬を反
当割で計算して配給したり、供出米を運んだり、
山村の薪の買い出しに出たり、市役所に書類を届
けたり、結構頭を使うし信用してもらえて楽しく
やれる仕事だったのに、六カ月経つとどうも「転々
虫」が騒ぎ出し、「どうせ一人なら可能性の多い
都会の方が良い。上野の山に野宿しても良いから
上京するんだ」と、駒沢大学に復学中の次兄を煩
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わせて上京した。
焼野原の東京は転入が制限されていたが、引揚
証明書を使って麻布区役所で転入手続きを済ませ
た。芝の青松寺は長兄が立職式をした寺で、芸州
浅野侯の菩提寺で大きな寺院だが、鉄筋コンクリ
ート造りの本堂を残すだけで、山門はじめ堂宇す
べて焼跡になっていた。本堂裏には、解体された
爆弾三勇士の銅像が仰向けに転がっていた。方丈
は東洋大学の学長を兼ねて多忙で、末寺の住職が
寺務を手伝っていた。昼は受付にいて墓前の読経
を頼まれたり、夜は神田の正則英語学校に通って
いたが、方丈の急死に逢い、青松寺を去って世田
谷豪徳寺に移った。ここは井伊家の菩提寺であり、
戦災を免れた寺で、世田谷中学の生徒が十人くら
い寄宿していた。早朝、方丈が鈴を鳴らしながら
各部屋を回った。起き出して本堂の読経に加わる
者、台所の大釜で粥を煮る者など、厳しい暮らし
をしていた。昼は受付に座り、納骨堂で読経をし
たり、ときには長靴を履いて農作業もした。ここ
の納所坊主は二週間勤めたが、中学生たちの利己
的な行動が、私の孤独な魂にザラザラ当たってや
りきれなかった。
なまじ未練がましく、禅寺に寄生しているのが
良くないのかとも考えた。完全に市井に飛び込ん
で一人で生きる方が良いと、つてを頼って渋谷駅
前大和田マーケット内の顔役を訪ねた。片腕を肩
から失っている旅順工大出の秀才の過去に何があ
ったか知らないが、「俺の世話をしながら古着屋
を始めるか、そのためには舎弟になる盃を受ける
ことになるが」と言った。「古着のことはよく分
からないが、堅気のままでいたいのですが」と考
えを述べた。「よし! それなら俺の口利きだと
言って、道玄坂の肉屋に入り込め」と、有力者の
一言で肉屋の小僧に転進することができた。
大和田マーケットの下の四畳に、主人夫婦と赤
子、猿ばしごを登った屋根裏に主人の弟と私が寝
た。朝早く道玄坂肉屋の店を開け、冷蔵庫から肉
盆を出しショーウインドーに並べた。私は、注文
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取りと配達が主な仕事だった。焼跡の続く乃木神
社辺りから神宮外苑を通り、信濃町の慶応病院へ
自転車で回った。ときには、竹皮をさばいて肉を
売った。菓子屋の小僧が腰をかがめて、「兄さん
はどちらのお身内ですか」と仁義を切り始めたり
した。路地で大がかりな喧嘩があって、共同水道
で血の汚れを洗って行く者もいた。大晦日には、
真っ赤な手に息を吹きかけながら、冷蔵庫を苛性
ソーダで洗った。さよなら、昭和二十二年よ。
二月には、肉の配達で知り合った麻布霞町高台
のお屋敷番に頼み込み、敷地内の石垣につけて焼
けトタンで囲ったバラックに居住することを承知
してもらった。周囲は麦畑で、一望の焼野原の谷
を隔てて高樹町の日赤病院まで見渡された。夜は、
旧麻布三連隊兵舎の米第八軍宿舎から、消灯ラッ
パが聞こえてきた。このバラックに、床を張って
兄弟三人が一緒に住むことになった。住居が決ま
ったから、肉屋は三カ月で辞めた。飯田橋職業安
定所では、鶯谷の保険勧誘員と公正取引委員会の
二カ所を紹介された。公取の口頭試問で「尊敬す
る人は?」と聞かれ、「道元です」と答え、座禅
や正法眼蔵を弁じて部長のおめがねにかない、翌
二月十四日から総務部文書課に出勤となった。ガ
リ版で原稿を切ったり、タイピストがステンシル
に打った「集中排除法」や「事業者団体法」を謄
写版で印刷したり、製本して国会議事堂に届けた
り、官報を受け取ったりした。医者になるより法
律家が早道だと考えた私は、中央大学夜間部の試
験を受けた。入試のための勉強を全くしないで、
合格できるはずはなかった。当落の結果は、生き
甲斐に影響した。合格した者は、五時には机の上
を片付け夜学に出掛けて行った。「あゝ、あいつ
は確実に出世の道を歩いているのだな」と敗北感
を味わった。
雑炊腹で満員電車に乗って勤めを続けたが、先
行きは明るくなかった。「法律の勉強は田舎でも
できる。大学を落第した今、経済的に苦しい東京
にいる意味はない」と、勝手な理屈を付けた私は、
412
再び信州の組合長の元に戻った。
一年経っているのに、組合長は快く復職させて
くれた。農地改革や飯綱山の開拓など、組合長の
抱負実現のいろいろな仕事は楽しかったが、一度
都会で暮らした者には、農村のゆったり流れる時
間は苦痛に感じられた。供出割り当てや長野名物
の花火見物をして、十月末東京に舞い戻った。疎
開者が続々東京に戻り始めていた。
緊急の就職口探しは、公取の係長に斡旋しても
らったが、石炭庁も大手門内にあった国会図書館
も経済安定本部も、皆断られた。半月前までは確
実に人手不足だったと聞いてがっかりした。鶴見
女学校勤務の、次兄の止宿している総持寺山門脇
の光華寮に転がり込んで職探しをしたが、だんだ
ん心配になってきた。
そんなとき、新聞広告に出た東京地裁職員採用
試験に早速飛びついた。一月半ばに試験があり、
十八日に合格通知をもらえた。「事務官補、書記
官補とも十三人中の一番と三番で最高裁の名簿に
登載された」という成績での辞令だから、天にも
昇る心地だった。一月二十五日から東京地方裁判
所民事第二部に勤務した。戸棚の中には、公判記
録の綴り込みがぎっしり並んでいた。この部では、
家屋明け渡しの請求訴えがほとんどであった。書
記官の指示を受けて公判記録を出したり、原告・
被告・証人の呼び出し状を作成したり、口頭弁論
の清書を綴り込んだりする仕事で、埃だらけにな
って書類と取り組む毎日であった。裁判所の書類
の虫たちは、公取の仲間のような話し合いをする
ようなゆとりもなかった。「屋上でソ連民謡を学
習します」とか、「社交ダンスを教えます」と誘
いが掛かったが、屋上には赤旗が立てられ、若者
が激しい議論を吹っかけるので、苦手だった。大
体、裁判所は昔から菊の御紋が玄関に光っていて、
犯しがたい威厳のある所だったはずである。その
屋上に赤旗を立てるなんて、とんでもないと思っ
ていたのだ。
やたらに忙しい毎日であり、机を並べている者
413
同士の話し合いもなかった。刑事部の事務官の中
に、のんびり人生の夢を語る者がいた。あくせく
六法を読むでもなく、今の政府を攻撃するでもな
く、自分の生き方をゆっくりつかもうとする者が
いた。私も多感な十九歳であった。神でも仏でも
良い、自らを放下して盲目的にのめり込み、信じ
られるものがほしいと真剣に考えた。とにかく寂
しかったのである。自分の前に現れる者は、神で
も仏でも恋人でも何でも良かったのである。
そんなとき、始終大勢の子供たちに囲まれてい
る教師の姿が頭に浮かび始めた。私立中学校では
生徒募集のため、主立った教師が小学校巡りをし
た。そのときの雑談で、市内小学校では大幅な教
員不足で、人を集めている状態であることが分か
った。それを聞いた私は、早速その教師に紹介し
てもらい、末吉小学校を訪ねた。温厚な校長は、
傍にいたPTAの会長に「北朝鮮からの引揚者だ
そうだ。裁判所を辞めてでもと、教師を望んでい
る」と紹介しながら、もう自分の学校の教師にし
たつもりだった。私から転職の話を聞いた親切な
判事補は、「夜学に通うために教員になどなるな。
ここで生きた法律の勉強ができるじゃないか」と
忠告してくれた。子供を食い物にするなという教
訓は肝に銘じ、その後の人生で脳裏から離れない
ものになった。
指定された日に、採用面接試験の会場に出掛け
た。白髪の教職員課長に「なにっ。旧制中学四年
までしか勉強していないのか」「代用教員でも良
いんです」「田舎の学校とは違うんだ。大横浜で
は無理だな」恐らくこのままでは落第だったろう。
報告を聞いた末吉小学校の校長が、教職員課に電
話を入れてくれたので採用が決まり、私は教職四
十数年のスタートを切ることができた。
昭和二十一年十月に日本内地に引き揚げて、二
年半にしてさすらいを止め、安定することができ
たのである。その間たくさんの先達、知己、友人
と巡り会い、そのすべてから報いきれないほどの
恩恵を受けたと、有り難く思っている。
神奈川県 玉 井 廣 道
咸興は李朝発祥の地、若い李成桂が学んだとい
う巨刹を始め、由緒ある霊廟・景勝・古跡の残る
土地でもあった。城川江・湖漣川という二つの川
で造成された咸興平野は広く、近在の生産物資の
集積所であり、ここを拠点に事業を拡大する日本
人も多く、守備隊も置かれていた。
陸軍教導団を出て六年間の軍籍を経て、二十六
歳で出家した父廣観和尚は、十年間伊勢四天王寺
の師匠の元で厳しい弁道修行をして印可を受け、
三十七歳の大正二(一九一三)年、雲水の行脚姿
で無一物でこの地、咸興に来た。そして、この新
開地の荒れすさんだ心の人たちを対象に、布教活
動を展開した。
辻説法や托鉢で街角に立ち、大正四年にはやん
ばんの長屋を借りて、曹洞宗布教所の看板を出し
て屋内の説教も始めた。やがて説教に耳を傾ける
者が増え、安心のために寺院の建立がこの地に必
要であると思う有志が増えて浄財が集まり、大正
六年の秋には本堂の落成を見、ここに禅寺盤竜山
興福寺の開山となる。
爾来三十年にわたって、警察署や兵営での座禅
指導や、仏教青年会を組織して青少年の善導を行
い、刑期を終えた者の保護観察や、老少の者へ安
心を与える説教活動を続けたのである。廣観和尚
は寺院経営の傍ら、併せて学齢超過のために学校
へ通えなかった朝鮮の子弟を収容するため、私設
学術講習会と名付けた準小学校を設立して、教育
事業を行った。朝鮮の子弟の教育には普通学校が
あったが、数が足りず希望通り進学できなかった
者が多かったので、この講習会は大変喜ばれ、教
室を増設して収容した。終戦のころには六教室と
なり、昼は三百人の女子、夜は百人の成年男子が
学んでいた。
信徒たちの要望を入れて、大正十三年には観音
399
堂を建て、西国三十三番の御詠歌を唱える観音講
中ができた。伊勢から豊受稲荷を奉請して、商家
の要望にも応えた。八月の盆には二百人ほどの女
の子が浴衣を着て集まり、境内で輪になって楽し
い盆踊りもできた。年中行事や日々の日課を怠ら
ない廣観和尚であったが、戦時中には信徒の信仰
の結晶である梵鐘を献納し、寒修行の際の浄財を
飛行機献納資金に回したりした。四人の息子のう
ち末子廣道だけを残して、三人も陸海軍に送り出
していた。
昭和二十(一九四五)年の八月初旬から体調を
崩した廣観和尚は、終戦の詔勅を高熱の続く病床
で聞いた。九月に入って小康を得たときは、講習
会の教室から朝鮮古来の言葉を教える「オンモ
ン」の斉唱が聞こえるようになった。見舞いに来
た韓鎮悳教頭に「これまで、この小さな規模でよ
く子弟を育ててきたが、日本人学校の設備が全部
空くことになる。これからは新しくできる委員会
に図って、大きな設備に吸収してもらうように。
小細工を使ってはいけない」と事業完了宣言をし
た。
公会堂の屋上には赤旗がひるがえった。日の丸
に青の絵具で巴を描き、四隅に算木を書き加えて
大極旗をこしらえたが、揚げる機会が無かった。
本堂・観音堂は、清津・羅南などから身一つで
逃げて来た避難民であふれた。やがて、ソ連軍の
戦車やトレーラーが轟音を立てて南下して来た。
先頭を切って入って来たのは、ボールヘッドで腕
に入れ墨をした囚人兵だった。肩から自動小銃を
逆さに下げて、夜は日本人の民家に入り込み、「マ
ダム ダワイ ダワイ!」と叫んで婦人や娘を捜
しては、引き出して犯していた。
ある夜更け、炊事場の引き戸がガタガタたたか
れ、つっかえ棒が倒され、一人で煎餅布団で寝て
いた私の枕元に、フェルト長靴のソ連兵が侵入し
て来た。寝たふりをしている顔をのぞき込み、男
と認めたので侵入した所から去って行った。膝が
ガクガク震えているのを見て行ったはずなのに。
400
二重の襖を隔てた隣室には、三人の娘を連れた城
津の寺の親子が息を潜めていたが、私の寝たふり
作戦で三人の娘には何事もなく終わって良かった。
マンドリンと呼ばれた自動小銃を突きつけられて
は、だれも助けに入ることはできない。集団から
離れてソ連兵に捕まった人は、悪魔に捧げられた
生け贄のごとくとなり、悔し涙に暮れたことだっ
た。この地獄のような日は、コミンダン(憲兵)
が来るまで続いた。
昼は毛布を肩にした水兵の集団や丸腰の歩兵の
集団が、足を引きずって北へ連行されて行った。
この兵士たちは、この後七年も八年もシベリアで
苦労することになるのであった。
官舎や一戸建ての家に住んでいた日本人は、住
居を接収されて集団生活を強いられた。九月二十
四日に「日本人は全員、市営グラウンドに集合す
るように」との通達が人民委員会からきた。「殺
されても仕方がない。重病人を置いてはグラウン
ドに行けない。このまま家にいる」という母の言
葉に、父母を置いてグラウンドに集合した。スタ
ンド最上段に機関銃を数丁据えて威嚇する中で、
中央の壇上で代表が演説を始めた。「君たち日本
人の中の帝国主義者たちは、朝鮮の財産を奪い文
化を壊し、言語まで奪った。我々は、決して民衆
を苦しめることはしない。帝国主義日本を憎むが、
お前たちを憎まない。不穏な企てがないか摘発を
する間、お前たちをここに集めておくのである」
と声高にしゃべっていた。そして延々と夕方まで
留め置かれて、その間家宅捜索があり、隠匿した
武器の出た者、戦時中の官憲の履歴の分かった者
などが逮捕されたようであった。日本統治下の刑
務所で、思想犯と呼ばれて収監されていた者は真
っ先に釈放されて、人民委員会や保安隊の幹部と
なり、報復のための日本人投獄があった。
残暑の厳しい中で発疹チフスの流行が始まった。 しらみ 着の身着のままの避難民は、たくさんの虱をたか
らせていた。DDTの知られていないころで、さ
らし粉を真っ白に撒き、ソ連軍の蒸気洗濯自動車
401
が収容所を回って肌着を消毒して行ったが、効き
目はわずかだった。その虱によって伝染する発疹
チフスは、確実に死亡者を増やしていった。病床
の父に代わって十五歳の小坊主の私は、頼まれて
は葬儀に赴いた。虱がはい上がるのを嫌って、民
家を訪れる医者は長靴のまま部屋に入るが、引導
を渡す僧は死者の枕元に直接座らなければならな
かった。病人の体に付いていた虱は、体が冷えて
くると髪の毛のある頭の方に集まってきた。その
虱を見ながら読経するのであった。孤児になった
ことも理解できない幼い姉弟が、母親の葬儀が行
われている隣の部屋で、哀愁を帯びた赤旗の旋律
で替え歌を歌っていた。「かあちゃんがー、かえ
らんかなー」
咸興中学校四年生在学中であった私は、興南の
燃料工場で勤労動員中に終戦を迎えた。八月十七
日には、全生徒が学校に集まって閉校宣言を聞い
たのであるが、私は十三日の盆の入りから衣を着
て棚経回りをしていたし、父の看病もあり学校に
は一切顔を出せなかった。自分が再帰熱に感染し、
死線をさ迷うことになる十二月末までは、日本人
世話会の葬儀屋に頼まれて読経に赴いていた。引
導を渡し戒名をつけたのは、およそ百十七人を数
えた。観音堂前の藤棚の下が死体置き場になり、
筵に包まれた死体が運び込まれ、兵隊崩れが毎日
十体くらいずつ大八車に積んで、遠い山の埋葬所
に運び上げていた。全市では道立病院だけでは足
りず、商業学校の校舎を臨時病院にして患者を収
容したが、そのほとんどは死を迎え筵包みにされ、
山の埋葬所に送られた。羅南の和尚清野さんも、
女中代わりに母の看病をしてくれた人も亡くなっ
た。身寄りの連絡先も告げないで発疹チフスで死
亡したため、その死はだれにも伝えられないまま
で、これこそ野垂れ死にだった。
母は、本堂や観音堂を埋めている避難民の世話
をしている間に自身が発疹チフスに感染し、十日
間ほど高熱に苦しみながら息を引き取った。大谷
医師から譲ってもらったカンフルを注射したが、
402
遂に救うことができなかった。肺炎も併発してい
たのだ。張り板にかんなをかけて棺を作り、大八
車で墓地へ運んだ。
昼は依然として衣を着て葬式の家を回り、夜は
父の看病をしたが、その父も栄養失調に老衰も加
わって、二週間後に母の後を追うように逝ってし
まった。一山の住職の遷化に当たってどのように
すべきかと、参考文典を読みあさった。盛大に見
送りたかったので、連絡のついた日妙寺の和尚に
伴僧として来てもらい、十五歳の小僧にできる限
りの威儀で送った。大八車で山へ運んだのは十二
月半ばで、寒く冷たい風が吹いていた。十二月二
十五日には、戒名を彫った朝鮮風の石碑を運び上
げ、セメントをこねて立てた。
その翌日辺りから回帰熱に感染して発病し、高
熱を発し生死の境をさ迷ったが、父母の使い残し
たカンフルがあったので、注射してもらい、幸い
体力が残っていたので一月半ばには回復した。零
下二十度の極寒の時期であっても、餓死・凍死に
よる死者は確実に出る。結氷期以前に、山の斜面
に深さ二メートルぐらいの壕を延々と掘ってあっ
たが、その中へ三段積みくらいで、筵に包まれた
死体が並べられていた。みんなこんなことで死に
たくはなかったのでしょうが、致し方のないこと
だった。わずか五カ月の間に、約二万六千人の人
がこうして土の下へ入れられたのだった。
二月になると、歩いて三十八度線を越えようと、
焼き米を腰に付けて南下を始める者が増えてきた。
途中で悪い朝鮮人に金品を奪われる者もあったが、
逆に思いがけない親切を受けたりして、鉄原で三
十八度線を越え、議政府の収容所にたどり着いた
とのこと。
三月には、本堂・観音堂を占領していた避難民
の生き残りの者もいろいろな方法で南下を始め、
遂には無人になってしまった。畳はあちこち焦げ、
位牌棚の位牌はすべて燃料にされて残っていなか
った。それでも御本尊の釈迦牟尼佛は至極円満な
相をしておられ、燭台・輪灯・木魚などとともに
403
残されていた。寺のある軍営通りは、人民委員会
の都市計画で道路拡張工事が始められる予定で、
それがいつになるにせよ取り壊しが始まっては、
廣観和尚の心血を注いだ聖地が無惨に汚されてし
まう。幸い、戦前に駒沢大学を出ている朝鮮の知
己が、古刹歸州寺の末寺極楽庵の庵主の息子であ
ることを知った私は、本堂・観音堂にある仏像仏
具の一切を、歸州寺に保管してもらうことに決め
た。
日本に帰らず、父母の墓守で一生を終えようと
考えた私は、仏具一切を運び終えたら、そのまま
自分も歸州寺に住みたいと考えていた。
三月中旬、伊勢伝来の本尊像・観音像・梵鐘代
わりの大太鼓・輪灯・燭台・香炉・木魚・鉦その
他の仏具一切を大切に包み、牛車に乗せて運んだ。
湖漣川を渡り、巨大な王子墓定和陵を過ぎ、残雪
の谷川沿いの山道を、御者と一緒に牛車を押して
登った。朝鮮語を全く話せない私は、精いっぱい
の笑顔で答えるだけだったが、極楽庵住職の老夫
人は、「息子のつもりで迎えます。いつまでもい
るように」と親切に言ってくれた。三日ほどは永 しんちゅう 住の覚悟で過ごしたが、朝夕二回真 鍮どんぶり
の白飯にキムチやコチジャンをつけて食べ、陽の
射さない庵で言葉も分からずに過ごすことに不安
を感じ、病院へ行くと言って山を下りた。一生墓
守で過ごすという決心は、簡単に崩れたのであっ
た。
がらんとした家で、既に母が買いためていた米
は底をついてしまい、何とか食いつなぐために布
団を売り、余分な衣類を売り、建具のガラスを売
ったが、いよいよ日銭を稼がなくてはならなくな
った。大通りの空き地が、日本人風太郎のたまり
場になっていた。一緒になってしゃがんでいると、
求人の朝鮮人やソ連兵が雇ってくれるのだ。山に
つないである食用の牛を、約十五キロメートル離
れた興南まで連れて行く仕事があった。雇い主は
ソ連軍だ。一頭につき二十五円の賃金を払うとい
う。二頭で五十円だと意気込んで綱を解いたら、
404
気の荒い牛で角突き合いを始めた。生まれて初め
ての牛引きは、一頭でさえ手に余るものだった。
長い道を牛を追って歩き、日の暮れにやっと興南
に着き、二十五円と黒パン一片を受け取って空き
家に野宿した。また、別の仕事では建物の取り壊
し作業で、頭から埃にまみれて天井を突き壊し、
床をはいだこともあった。米一升が四十円のとき
で、それに近い賃金がもらえた。脱出に備えて朝
鮮銀行券を蓄えなくてはいけなかったが、ソ連軍
の軍票でもらったので、朝鮮餅を買ったり市場で
豆腐を食べたりして、浪費してしまった。マッチ
工場で軸詰めの仕事もあった。神戸にいたことが
あるという四十代の主人は日本語が上手で、刷毛
で小箱の側面に赤燐を塗りながら、親切に声を掛
けてくれた。タバコの葉を刻み、紙巻きタバコを
手作りして、市場で売る日本人もいた。ソ連軍将
校官舎での薪割りや、子守りやメイドの仕事もあ
った。地味だが、確実に貯蓄のできる仕事はマッ
チ箱貼りだった。経木を細く切り、紙で貼り合わ
せて中箱と外箱を作った。これは一箱二十銭で、
一日二百箱は作れた。屋内で楽にできる、良い仕
事の一つだった。
五月何日かに日本人世話会から達しが来て、冬
の間に山の斜面に作った集団墓地が荒れてきたの
で整理したいから、道具を持って集まるようにと
いうことだったが、既に南下脱出した者が多く、
咸興に残っている日本人はわずかだった。スコッ
プや鍬を担いで山道を登ったが、共同墓地を見て
皆は唖然とした。厳冬期の埋葬では遺体を穴の中
に放り込み、二、三段に積み上げて、その上に一
尺ほど土をかぶせただけだった。暖かくなって凍
土が溶け始めると、土が陥没して死臭に誘われて
野犬が集まり、遺体を引き出して荒らし回ったの
で、異様な状態になっていた。「気の毒に! 済
まなかった!」と手を合わせ、遺体を埋め直し土
を充分に盛り上げた。作業を進めるうち死臭も気
にならなくなり、三日間続けてすっかり整地を終
え、「日本人二万六千人埋葬」と記した供養塔を
405
建てた。ついでに、松林の中の旧墓地にある父母
の墓に参った。年末に、セメントを練って建てた
朝鮮風の石碑が傾いているので直そうとしたら、
大きく土が陥没して低く平らに納まった。墓地か
ら下がる山道は、咸興名物のリンゴ園が続いてい
た。ちょうどリンゴや梨の花盛りの時期であった
ので、良い香りの中、蜂が舞っていた。
残りわずかになった日本人を見て、いよいよ引
揚げの日も近いと悟った私は、重大な忘れ物があ
ることに気付いた。本堂と観音堂の間に、鉄筋コ
ンクリート造りの五メートル四方の納骨堂があっ
た。鍵を開いて中に入ると、三方の壁面に三段の
棚があって、そこには興福寺三十余年にわたる信
徒の遺骨が並んでいた。本来墓地に納まるべき遺
骨だが、内地に帰るとき連れて帰りたいという遺
族の希望で預かっているのであった。しかし、終
戦時に引き取りに来た人はわずかだった。引き取
り手の無いこの大量の遺骨を、そのままにしてお
けなかった。やがて取り壊される予定の建物であ
った。
安全な地に埋葬することに決めた私は、棺を五
つ買い求め大八車を借り、兵隊崩れを二人雇った。
白布に包まれた骨箱を、棺に詰め直して蓋をし重
ねた。入りきれない骨箱は、その上に並べてロー
プをかけた。移設先は、共同墓地の塹壕であった。
つづら折れの山道を、膝が地に着くようにして、
大八車を押して登った。道から穴までの斜面を、
幾度も往復して運んだ。納骨堂の中では整然と並
んでいた遺骨を、年代順も縁者も皆バラバラに穴
の中に重ね、大量に土を盛り上げ、興福寺結縁納
骨所と書いた太い柱を立てた。物言わぬ遺骨では
あったが、親族の詣でることの絶対無い異国の土
に眠ることになる魂の泣き声が、松林の中に聞こ
える夕暮れの山中だった。
夏になると、米の飯も滅多に食べられなくなっ
た。コーリャンの赤いパサパサした味気ない食事
であった。栄養失調になっていることも知らない
でいたら、小学校のときの友人が来て、ジャガイ
406
モとワカメの味噌汁を作ってくれた。脱出する闇
船に乗るには、八百円を準備しなくてはならなか
った。日本銀行券は、内地に上陸してから必要だ
から胴巻きにしまい込み、朝鮮銀行券とソ連軍票
で当座を賄った。母が生前、帯を材料にしてリュ
ックサックを縫っていたので、父の残した雲水の
袈裟行李と応量器を詰めた。書類は検査で取られ
るというので、わずかな写真と一緒に底に隠し入
れた。ソ連兵に取られなかった時計と万年筆は、
貴重品であった。
咸興在留日本人最後の引揚げ集団は、いよいよ
九月十七日朝出発することに決定した。亡父と日
露戦友会でつながっていた芳賀氏は、朝鮮人の夫
人と共に残留することになったが、そのほかのす
べての日本人が今回は根こそぎ脱出することにな
った。
既に道路工事は始められており、興福寺の本
堂・観音堂は取り壊しが進んでいた。遊び慣れた
庭の桜や松、講習会の校舎に別れを告げて、咸興
駅に集合した。飯盒に米五合、握り飯数個と焼き
米を携帯した。
ソ連軍には話はついているのに、何度かトラブ
ルが起き、無蓋車から降ろされてソ連兵と通訳に
引き立てられる人が出たりして、わずか五駅しか
離れていない呂湖に十四時に到着した。ここで、
興南からの最後の引揚者と合流して乗船した。我
が漁船には百六十八人同乗、咸興・興南の最後の
引揚者を乗せた漁船十隻は入り海に一泊し、翌晩
月の出を待って出帆した。出てすぐ西湖津沖で二
百二十日過ぎの大時化に遭い、死ぬほどの苦しい
思いをして出港地に避難したが、四隻だけが集ま
った。九月二十日三時に再び出港、狂瀾怒涛の文
字通り木の葉のような船で突き抜けた。
団長の古橋さんは軍刀をござに巻いて抱き、舵
のそばに頑張った。胴の間には老人、幼児が真っ
青な顔をして、様々な姿で転がっていた。若い者
は甲板に横になった。風向きが変わる度に、厚い
刺し子を着た船頭や水夫たちが、帆網を曳いて踏
407
みつけていった。大声での話し声も、風のため吹
き千切られて届かなかった。「ギーギー」ときし
む帆柱。「ドシンドシン」とたたきつける波。舳
に飛び上がり、「ドサッ」と流れ込むしぶき。中
天の星は、帆柱と一緒にひどく揺れて見えた。吐
き尽くした胃の腑からは、体中を激しくけいれん
させて苦い胃液が込み上げた。夜が明けても、う
ねりは高かった。
元山沖にソ連軍の哨戒機を認めて、船尾に赤旗 い る か を立てた。やがてうねりも小さくなり、海豚が現
れて波の上でジャンプを見せてくれた。
二十二日の昼、三十八度線の注文津に着いた。
いか釣り船に乗り移り、砂浜に上がった。体中が
まだ激しく揺れ続いていた。ほとんど飲まず食わ
ずで五日間船の中にいたのだから、無理もないこ
とだ。米軍のトラックが迎えに来て、松林に囲ま
れたキャンプに入った。五十人ぐらいを詰め込め
るテントが、二十幾張りかあった。有刺鉄線に囲
まれた収容所は、事務所、炊事場、便所など清潔
に保たれていた。ここで一列に並び、頭から爪先
まで真っ白にDDTの洗礼を受け、両腕にコレラ
とチフスのワクチンを注射された。
そら豆、グリンピースなど、豆ばかりのお粥と
コンビーフを空き缶に受けて食べた。九日間の収
容所生活は、便所使役・炊事使役があり、出す物
入る物の衛生には十分気を付けていた。夜間には、
ローソクの光の中で演芸会。「明日は迎えの船が
来る」と心待ちの生活。夕方、帰国準備をして出
て行った一団が、船が満員でがっかりして戻って
来たこともあった。
十月一日、上陸用舟艇(LST)に乗船した。
白ペンキを塗った船倉やパイプ式の棚などを安ど
の眼で眺めた。同日二十時出港、朝鮮半島が夕闇
の中に消えていった。
甲板の銃座の下で寝たり、錨用ハッチに潜り込
んでシャツについた虱を数えたり、炊事使役で十
五度もローリングする甲板を、食缶をぶら下げて
走ったりした。夜には、舷側の夜光虫が美しく光
408
っていた。
十月四日の朝、佐世保港外に着いたが、米軍艦
隊の入港を待ったので、十一日になって港内に入
った。ところが、ここでの上陸は不可能というこ
とになって、十四日十五時、大竹港に向け出港し
た。何と無駄に日時が費やされたことか。
関門海峡は機雷の心配があり、それを避けて鹿
児島開聞岳を眺め九州南端を回った。日向灘を航
行中に、船内で老婆が死亡した。せっかくここま
で来ていながら、祖国の土を踏めなかったのは心
残りだったろう。水葬することになり、手の空い
ている者は左舷に並んで見送った。冷たい鉄のパ
イプを抱かせメリケン袋の中に入れられ、船長、
事務長ら乗組員が敬礼するうち、海に投げ入れら
れた。いつまでも青白く見えて海中に沈んでいっ
た老婆の冥福を祈り、船はその場を汽笛を鳴らし
て一周。再び北に向かった。
十五日夕刻、四国三津ヶ浜に仮泊。安芸の灘の
潮流の治まるのを待って、十六日朝抜錨。夕刻大
竹港に入り、十八日朝上陸開始。舳の扉がガラガ
ラと倒されて、暗い船倉いっぱいに青い海と大竹
港の白砂が開けた。
大竹の海兵団跡の収容所に三泊し、その間に引
揚証明書の交付、リュックサック、毛布、衣服、
帽子などの支給、新円交換、帰郷地申請などを行
い、そして虱だらけの下着やぼろ袋の焼却をした。
二十一日十七時、やっと帰郷列車に乗れた。広
軌を見慣れている者には岩国駅の線路は狭く、ロ
ーカル線かと思った。二十二日三時、大阪駅で乗
り換えた。大きな袋、ちぐはぐな服装、真っ暗な
車内、喧騒な引揚列車は東へ東へと向かって走っ
た。同十二時、名古屋駅にて再び乗り換えた。マ
ッチ箱貼りや闇船での脱出、注文津収容所などで
苦労を共にした人たちとは、ここで別れた。
中央線でも乗り換えがあって、夜遅く着いた長
野駅では引揚者用の宿舎に泊まり、十月二十三日
夕、本籍地の保科村にたどり着いた。咸興を出て
から一カ月と一週間の引揚げ行だった。
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長兄は、満州の四平街の関東軍航空隊にいて消
息不明。次兄は、朝鮮元山の海軍航空隊にいたが、
ソ連軍進駐の直前に福岡の雁の巣に空路復員して
いた。三兄は、横須賀の潜水艦隊に所属していた
が、負傷して草津で療養中に終戦となり、復員し
ていた。
その後、二人の兄と協議の末に、私は小諸海応
院へ小僧として預けられることに決まった。住職
の普山式があるので、人手が必要だったのである。
法戦の練習、須彌壇の掃除、仏具の運び込みなど
多忙な日を過ごした後、下男の生活に戻ると、浅 ぶ りょう 間の噴煙を望みながら無 聊をかこちだし、海応
院を飛び出した。遠州森の大洞院、伊予の瑞応寺
の修行道場を回ったが、どうも落ち着けなかった
私は、寺から離れることに方針を変えた。末子で
親が手放さず、十六年間一度も内地へ渡っていな
かった私は、親戚とのつながりも薄かった。三兄
が付き添って、保科村の父方と柏原村の母方の両
伯父と交渉し、私の長野中学進学費用を折半で出
すことに話が決まった。入学までの三カ月間、無
駄飯を食えないから、復員局地方世話課の臨時雇
に勤めた。県出身の戦死者が、どの戦場でどのよ
うに死去したかを克明に記録していく仕事だった。
記録作業を続けながら、私は考えた。朝鮮咸興中
学校で仮卒業証書をもらっているのに、今さら伯
父たちに学費を出してもらって長野中学に入り直
すことはないと、軌道修正をした。
たまたま知り合った清水氏の話で、長野市相の
木の農民組合長の家に書記として住み込んでしま
った。現状を突き破りたいだけの若気の至りで、
伯父たちは呆気にとられたろう。肥料や農薬を反
当割で計算して配給したり、供出米を運んだり、
山村の薪の買い出しに出たり、市役所に書類を届
けたり、結構頭を使うし信用してもらえて楽しく
やれる仕事だったのに、六カ月経つとどうも「転々
虫」が騒ぎ出し、「どうせ一人なら可能性の多い
都会の方が良い。上野の山に野宿しても良いから
上京するんだ」と、駒沢大学に復学中の次兄を煩
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わせて上京した。
焼野原の東京は転入が制限されていたが、引揚
証明書を使って麻布区役所で転入手続きを済ませ
た。芝の青松寺は長兄が立職式をした寺で、芸州
浅野侯の菩提寺で大きな寺院だが、鉄筋コンクリ
ート造りの本堂を残すだけで、山門はじめ堂宇す
べて焼跡になっていた。本堂裏には、解体された
爆弾三勇士の銅像が仰向けに転がっていた。方丈
は東洋大学の学長を兼ねて多忙で、末寺の住職が
寺務を手伝っていた。昼は受付にいて墓前の読経
を頼まれたり、夜は神田の正則英語学校に通って
いたが、方丈の急死に逢い、青松寺を去って世田
谷豪徳寺に移った。ここは井伊家の菩提寺であり、
戦災を免れた寺で、世田谷中学の生徒が十人くら
い寄宿していた。早朝、方丈が鈴を鳴らしながら
各部屋を回った。起き出して本堂の読経に加わる
者、台所の大釜で粥を煮る者など、厳しい暮らし
をしていた。昼は受付に座り、納骨堂で読経をし
たり、ときには長靴を履いて農作業もした。ここ
の納所坊主は二週間勤めたが、中学生たちの利己
的な行動が、私の孤独な魂にザラザラ当たってや
りきれなかった。
なまじ未練がましく、禅寺に寄生しているのが
良くないのかとも考えた。完全に市井に飛び込ん
で一人で生きる方が良いと、つてを頼って渋谷駅
前大和田マーケット内の顔役を訪ねた。片腕を肩
から失っている旅順工大出の秀才の過去に何があ
ったか知らないが、「俺の世話をしながら古着屋
を始めるか、そのためには舎弟になる盃を受ける
ことになるが」と言った。「古着のことはよく分
からないが、堅気のままでいたいのですが」と考
えを述べた。「よし! それなら俺の口利きだと
言って、道玄坂の肉屋に入り込め」と、有力者の
一言で肉屋の小僧に転進することができた。
大和田マーケットの下の四畳に、主人夫婦と赤
子、猿ばしごを登った屋根裏に主人の弟と私が寝
た。朝早く道玄坂肉屋の店を開け、冷蔵庫から肉
盆を出しショーウインドーに並べた。私は、注文
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取りと配達が主な仕事だった。焼跡の続く乃木神
社辺りから神宮外苑を通り、信濃町の慶応病院へ
自転車で回った。ときには、竹皮をさばいて肉を
売った。菓子屋の小僧が腰をかがめて、「兄さん
はどちらのお身内ですか」と仁義を切り始めたり
した。路地で大がかりな喧嘩があって、共同水道
で血の汚れを洗って行く者もいた。大晦日には、
真っ赤な手に息を吹きかけながら、冷蔵庫を苛性
ソーダで洗った。さよなら、昭和二十二年よ。
二月には、肉の配達で知り合った麻布霞町高台
のお屋敷番に頼み込み、敷地内の石垣につけて焼
けトタンで囲ったバラックに居住することを承知
してもらった。周囲は麦畑で、一望の焼野原の谷
を隔てて高樹町の日赤病院まで見渡された。夜は、
旧麻布三連隊兵舎の米第八軍宿舎から、消灯ラッ
パが聞こえてきた。このバラックに、床を張って
兄弟三人が一緒に住むことになった。住居が決ま
ったから、肉屋は三カ月で辞めた。飯田橋職業安
定所では、鶯谷の保険勧誘員と公正取引委員会の
二カ所を紹介された。公取の口頭試問で「尊敬す
る人は?」と聞かれ、「道元です」と答え、座禅
や正法眼蔵を弁じて部長のおめがねにかない、翌
二月十四日から総務部文書課に出勤となった。ガ
リ版で原稿を切ったり、タイピストがステンシル
に打った「集中排除法」や「事業者団体法」を謄
写版で印刷したり、製本して国会議事堂に届けた
り、官報を受け取ったりした。医者になるより法
律家が早道だと考えた私は、中央大学夜間部の試
験を受けた。入試のための勉強を全くしないで、
合格できるはずはなかった。当落の結果は、生き
甲斐に影響した。合格した者は、五時には机の上
を片付け夜学に出掛けて行った。「あゝ、あいつ
は確実に出世の道を歩いているのだな」と敗北感
を味わった。
雑炊腹で満員電車に乗って勤めを続けたが、先
行きは明るくなかった。「法律の勉強は田舎でも
できる。大学を落第した今、経済的に苦しい東京
にいる意味はない」と、勝手な理屈を付けた私は、
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再び信州の組合長の元に戻った。
一年経っているのに、組合長は快く復職させて
くれた。農地改革や飯綱山の開拓など、組合長の
抱負実現のいろいろな仕事は楽しかったが、一度
都会で暮らした者には、農村のゆったり流れる時
間は苦痛に感じられた。供出割り当てや長野名物
の花火見物をして、十月末東京に舞い戻った。疎
開者が続々東京に戻り始めていた。
緊急の就職口探しは、公取の係長に斡旋しても
らったが、石炭庁も大手門内にあった国会図書館
も経済安定本部も、皆断られた。半月前までは確
実に人手不足だったと聞いてがっかりした。鶴見
女学校勤務の、次兄の止宿している総持寺山門脇
の光華寮に転がり込んで職探しをしたが、だんだ
ん心配になってきた。
そんなとき、新聞広告に出た東京地裁職員採用
試験に早速飛びついた。一月半ばに試験があり、
十八日に合格通知をもらえた。「事務官補、書記
官補とも十三人中の一番と三番で最高裁の名簿に
登載された」という成績での辞令だから、天にも
昇る心地だった。一月二十五日から東京地方裁判
所民事第二部に勤務した。戸棚の中には、公判記
録の綴り込みがぎっしり並んでいた。この部では、
家屋明け渡しの請求訴えがほとんどであった。書
記官の指示を受けて公判記録を出したり、原告・
被告・証人の呼び出し状を作成したり、口頭弁論
の清書を綴り込んだりする仕事で、埃だらけにな
って書類と取り組む毎日であった。裁判所の書類
の虫たちは、公取の仲間のような話し合いをする
ようなゆとりもなかった。「屋上でソ連民謡を学
習します」とか、「社交ダンスを教えます」と誘
いが掛かったが、屋上には赤旗が立てられ、若者
が激しい議論を吹っかけるので、苦手だった。大
体、裁判所は昔から菊の御紋が玄関に光っていて、
犯しがたい威厳のある所だったはずである。その
屋上に赤旗を立てるなんて、とんでもないと思っ
ていたのだ。
やたらに忙しい毎日であり、机を並べている者
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同士の話し合いもなかった。刑事部の事務官の中
に、のんびり人生の夢を語る者がいた。あくせく
六法を読むでもなく、今の政府を攻撃するでもな
く、自分の生き方をゆっくりつかもうとする者が
いた。私も多感な十九歳であった。神でも仏でも
良い、自らを放下して盲目的にのめり込み、信じ
られるものがほしいと真剣に考えた。とにかく寂
しかったのである。自分の前に現れる者は、神で
も仏でも恋人でも何でも良かったのである。
そんなとき、始終大勢の子供たちに囲まれてい
る教師の姿が頭に浮かび始めた。私立中学校では
生徒募集のため、主立った教師が小学校巡りをし
た。そのときの雑談で、市内小学校では大幅な教
員不足で、人を集めている状態であることが分か
った。それを聞いた私は、早速その教師に紹介し
てもらい、末吉小学校を訪ねた。温厚な校長は、
傍にいたPTAの会長に「北朝鮮からの引揚者だ
そうだ。裁判所を辞めてでもと、教師を望んでい
る」と紹介しながら、もう自分の学校の教師にし
たつもりだった。私から転職の話を聞いた親切な
判事補は、「夜学に通うために教員になどなるな。
ここで生きた法律の勉強ができるじゃないか」と
忠告してくれた。子供を食い物にするなという教
訓は肝に銘じ、その後の人生で脳裏から離れない
ものになった。
指定された日に、採用面接試験の会場に出掛け
た。白髪の教職員課長に「なにっ。旧制中学四年
までしか勉強していないのか」「代用教員でも良
いんです」「田舎の学校とは違うんだ。大横浜で
は無理だな」恐らくこのままでは落第だったろう。
報告を聞いた末吉小学校の校長が、教職員課に電
話を入れてくれたので採用が決まり、私は教職四
十数年のスタートを切ることができた。
昭和二十一年十月に日本内地に引き揚げて、二
年半にしてさすらいを止め、安定することができ
たのである。その間たくさんの先達、知己、友人
と巡り会い、そのすべてから報いきれないほどの
恩恵を受けたと、有り難く思っている。
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