群山永和洞(旧大和町・旭町)土地台帳調査


群山永和洞(旧大和町・旭町)土地台帳調査

                                                                松原孝俊、新城道彦
佐賀里有加、小俵京子、柴田福音


はじめに

九州大学韓国研究センターは、日本統治下朝鮮の民衆史研究に力点をおいてきた。これまでの歴史が国を中心に論じられてきたことで無視されてきた人々に光を当て、民衆という視点から日本統治とは何だったのかを解明しようとしているのである。
そこでわれわれが着目したのは群山という地であった。群山とは日本への米穀の移出地であり、日本人が多く移り住んだ土地である。それゆえ、そこには日本人街が形成され、多くの日本家屋が建築された。日本人街は今回調査した永和洞(当時は大和町、旭町といわれた)を中心に形成されため、現在でも日本家屋を数多く目にすることができる。
2005年の調査では、旧群山市街地の日本家屋が現在どの程度残っているのかを調査するため、街並全体を写真に収めてきた[1]。そして「日帝の残滓」といわれる日本家屋を直接体感した。だがそれは、現在まで「残った」日本家屋を目にすることのできる市街を体感したに過ぎなかった。もちろん日本統治期の大和町、旭町を直接体感することはタイムマシーンが無ければ不可能である。しかし、旧日本人街がどのような歴史を経たのか、そこにどのような人々が住んでいたのか、現在目にすることができる日本家屋はどのような街並の中に存在していたのか、それを知ることは可能だといえる。それは土地台帳を基に地図を作成すればいい。そこで2006828日から93日まで群山市庁を訪問して土地台帳を入手、さらに1年をかけてそれら土地台帳をデータ化、分析して「1920年現在」「1930年現在」「1940年現在」の土地の所有者がわかる地図を作成した。
 以下に群山の概略を記した後に、資料作成の方法と構成について説明したい。


1.群山の概略

 1.1群山の位置
群山は韓国全羅北道北西部の市で、錦江下流南岸に位置する。北は錦江を隔てて忠清南道舒川郡と接し、西は黄海に面する。南は全羅北道金堤市、東は益山市に接する。
  
                        

群山の位置


            
                                  
                 永和洞(旧大和町・旭町)


1.2 開港の経過[2]
 韓国最初の開港地は1876年の日朝修好条規による釜山である。以後、1880年には元山、1982年には仁川、1897年には鎮南、木浦、1899年には馬山、城津、群山が続々と開港した。群山は開港したことによって全羅道内でもっとも早く発展したが、そのような発展には他の開港場が軍事的・政治的目的だったのに対して、群山が経済的支配のみを目的とした異例の開港場だったことも関係した。
沃溝群山は条約によらず勅許をもって189951日に開港が宣言された。同年62日には群山馬山浦城津居留地規則(韓文では租界)が日仏英米露独の6カ国代表と韓国外部大臣の間で調印され、各国居留地(共同租界)が開設された[3]。居留地の官治行政は同年より19062月までは領事によって行われた。各国居留地では居留地行政は居留地規則により居留地会が行うことになっていた。群山の場合、居留地運営は沃溝管理と日本領事(木浦領事館群山分館主任)と日本人代議員の三者による協議で行われていた。居留地会規則によると居留地会には、居留地で公共の工事、警察の設置・維持、居留地内での犯罪者の逮捕・拘禁・処罰、公道の管理、居留地内での各種営業の許認可・取締、居留地内での衛生・風紀の取締・予防・禁止、居留地会用庁舎の建設、必要に応じた公債の発行、韓国政府に代わる地租の徴収などの広範な職務権利が与えられていた。
 居留地会事業の財源の大部分は居留地の地区公売代金とその地区から徴収される地租から韓国政府への代金と地租一部の支払いを差し引いたものだった。居留地の土地の売却は居留民の払下希望申出によって、監理が決めた期日に競売する方法がとられた。買い手は日本人がほとんどだったが、その中には清国の有力商人も含まれていた。韓国政府から留保した土地を日本人が永借するには、地主である韓国政府が公売によって日本人に貸与する方法がとられた。
19051117日、第二次日韓協約の締結によって日本政府は韓国の外交権を剥奪し、漢城に統監府を置いた。1906年には開港場に領事館に代わって理事庁を設置、領事館の一切の業務を引き継いだ。群山にも木浦領事館群山分館に代わって群山理事庁が設置され、政治上の重要性を増した。

 1.3 群山の居留民団と商業会議所
 群山では開港1年目の1899年早くも居留民会が設立され、13人の議員で居留地の自治が行われていた。居留地内の公共財産の管理・処分について議決し、歳入歳出の決定と決算報告の承認や負担金徴収方法の決定などが主たる議決事項だった。居留民会の法人化が求められ、1906年には居留民団として統監府から公権力が与えられた。居留民団の主な事業は、魚市場の公設、屠獣場の整理、公設病院の開設、墓地・火葬場の設置、遊郭の開設、上水道の敷設であったが、これらは多少の曲折はあったもののことごとく成功した。居留民会議長は初代議長の保高正記を除いては、23代安部榮一郎、4代中柴萬吉いずれも米穀関係商人が占めた。
韓国における日本人関連の商業会議所の起源は1879年創立の釜山商業会議所で、圧力団体的性格の強いものであった。群山では1907年居留民団が群山理事庁に商業会議所の設立認可申請をした。群山では米質検査・湖南鉄道建設・築港問題などを商業会議所が中心となって執行、また関係各局に陳情・請願運動を行い、群山開港場発展に貢献した。1933年築港完成に至るまでの商業会議所会頭は、初代磯部謙哉、2代森常吉、3代大沢藤十郎、4代樋口虎三、5代松本市五郎、6代赤松繁夫、7代梶太三郎、8代花岡鶴松だった。このうち3代大沢藤十郎、7代梶太三郎、8代花岡鶴松は大和町・旭町の人間であった。資料(6)「大和町・旭町の土地所有者一覧」を参照のこと。

年代
戸数
日本人居住者数
1897
1
1
1898
3
4
1899
13
38
1900
20
57
1901
27
78
1902
34
99
1903
82
230
1904
90
251
1905
95
263
1906
103
340
1907
122
447
1908
152
564
1909
180
693
1910
212
870
渡航年
氏名
生業
1899
大澤藤十郎
荷受問屋・金融
下田吉太郎
米穀貿易商
田中福市
米穀輸出業・籾摺業
家房吉
米穀輸出業・籾摺業
金谷萬吉
鉄工業
岡田末吉
酒類商
酒井秀吉
金物商
扇安太郎
扇安太郎
保高正記
陶器商
1900
中井福三郎
米穀貿易商
門脇理一郎
大阪商船代理店主任
その後独立
徳永音松
鉄砲商
岡部恒祐
輸入雑貨商
1901
藤阪重次郎
米穀買出し・雑貨輸入商
中井徳次郎
呉服商
矢野三郎
呉服商
金森玄三
貿易商
布井嘉造
大阪五百井長出張所主任
その後米穀商
中柴萬吉
農業・酒類・食品業
1902
安部榮太郎
木村支店主任
その後米穀貿易商
千葉胤矩
雑貨商・新聞事業
岩田猪之助
米穀貿易商
高瀬平治郎
金巾・紡績糸等輸入品
1903
小西槌松
貿易商
花岡鶴松
米穀その他貿易商
横山與市
煙草・マッチ販売
貸家業
藤井寛太郎
米穀貿易商
1904
辻川忠八
貿易業
磯部謙哉
福田又支店主任
(表1)群山における日本人居住者数        (表2)主な渡航者

     部分は大和町・旭町の土地台帳に記載されている名前。詳しくは資料(6)「大和町・旭町の土地所有者一覧」を参照のこと。
 


農事経営者として最初に群山に渡航したのは宮崎佳太郎で、1903年に渡航し瞬く間に巨万の富を築いた。そもそも群山は地理的にも地質的にも他地域に劣っていたが、韓国での土地所有に意欲を燃やして渡航した者が相継いだ。しかし、二重売りや二重抵当を行う韓国人悪徳者が多かったため、日本人地主は群山農事組合・江景土地組合を設立して土地台帳を備え、台帳への登録を課した。もっとも日本人土地所有者も自ら農業に従事する者は少なく、高利の金貸しを行う者も多かった。
1909年には群山における日本人農事経営者は90人に達し、他の開港場に比べてもっとも多く、所有面積、1人あたりの経営規模も共に最大であった。群山での日本人農事経営者のうち、投資額10万円以上の者は大倉喜八郎、藤本合資会社、細川護成、熊本利平、岩崎久彌の5人、5万円以上のものは荒巻源治、韓国勧農会、大橋與一、宮崎佳太郎、楠田義達、川崎藤太郎、中柴萬吉、桝富安左衛門、眞田茂吉、島田八十八の10人であった。
群山港貿易の特徴は、まず米穀一辺倒で輸出総額の87%を占めていた点である。群山は日本への米の移出地であり、ほとんどが阪神地域に移出された。その米は決して良米ではなく、労働者や下層階級層へと流通していった。第2の特徴は輸出超過であったことで、他の開港場が輸入超過であったことに対し異例のことであった。第3の特徴は群山港貿易の大部分は対日本貿易だったことである。以下に18991901年まで(表3)と19021909年まで(表4)の貿易総額などの表を示しておく。

(表3)※表3、表4いずれも額の単位は日本円
貿易総額
輸移出額
輸移入額
1899
5,530
2,070
3,400
1900
118,410
5,980
5,830
1901
1,560
8,340
7,260

(表4
外国貿易額
輸出額
輸入額
内国貿易額
移出額
移入額
1902
414,252
311,124
103,128
893,304
533,462
359,842
1903
1,253,448
842,192
411,256
1,218,781
587,148
631,633
1904
1,012,278
417,330
594,948
1,326,354
580,253
746,119
1905
725,792
362,911
362,981
1,593,742
858,411
735,331
1906
1,135,240
645,015
490,225
1,713,133
920,327
792,806
1907
2,839,719
1,924,475
915,224
1,235,753
243,895
991,858
1908
2,806,834
1,833,392
973,442
1,300,691
368,622
932,069
1909
2,962,966
2,049,530
913,436
1,205,753
331,237
874,516



2. 資料作成の方法と構成

今回の調査は群山市庁に赴いて土地台帳を入手し、それを整理することから始めた。それを整理したものが資料(1)「土地台帳一覧」である。
その土地台帳一覧を基にして日本統治期の永和洞(大和町・旭町)を地図に復元することにした。しかしこれは単純な作業ではなかった。地図の番地と土地台帳に記載されている番地を見合わせれば、その番地がどの土地区画を表しているかを知ることができる。しかし、大和町・旭町の番地と現在の永和洞の番地は異なるため、現在の番地が書かれた地図と見合わせても大和町・旭町の土地区画を見出すことはできない。それゆえ、大和町旭町時代の土地区画を知るためには、現在の番地がどのような経緯を経て形成されたのかを知らなければならない。土地台帳には現在の番地がどの番地から分割・統合されて形成されたかが記載されているので、分割された土地同士を統合し、統合された土地同士を分割すれば、過去の土地区画を解明することができるはずである。
そこでわれわれは、資料(2)「永和洞(旧大和町・旭町)の現在の地図」と土地台帳を手掛かりに、個々に分割された土地を、ジグソーパズルを解くようにつなぎ合わせていった。そして大和町・旭町から永和洞への土地分割経緯を現代から過去に遡る形で明らかにした。それを樹形図化したのが資料(3)「 大和町・旭町から永和洞への土地分割経緯」である。これを基に1910年代から現代に至る土地区画の変遷を知ることが可能となった。
さらにこの土地分割経緯を基にブロックごとの所有者(内地名、朝鮮名、企業名、その他)の変遷を色分けしたものが資料(4)「ブロックごとの所有者別変遷」である。
こうしてできたブロックごとの資料をまとめることで、大和町・旭町の土地所有を知る地図を作成することが可能となった。しかし土地分割の変遷は各ブロックで異なるため、大和町・旭町全体の変遷を一つにまとめることは難しい。そこで1920年1月1日、1930年1月1日、1940年1月1日時点に限って大和町・旭町の土地所有を確認できる地図を作成することにした。それが資料(5)「土地台帳から復元した1920年、1930年、1940年の所有者別地図」である。
 尚、土地台帳に現れた1945年以前の大和町・旭町の土地所有者名を内地名、朝鮮名、団体名(企業名)に分割し一覧とした、資料(6)「大和町・旭町の土地所有者一覧」を最後に添付しておいた。


3.分析と問題提起

 今回の大和町・旭町の地図による復元はいわゆる日本人街と言われる街が実際にはどのような市街地を形成していたのか、そしてまたその市街がどのように変遷していったのかを全体像として把握することを補助するものである。もちろん、この資料のみで一つの論を立てるのは不可能であるが、作成した資料を通じて分かったことを書き記すこととする。
 まず一点目は日本人が作った街であるから当然のことながら日本人(内地人)名による所有が大部分を占めている。しかし、時代を経るにつれて、日本人街の中に少数ながらも朝鮮人が現れてくることが見て取れる。1920年には皆無だった朝鮮人が1930年、1940年には5箇所で見られるのである。その上、彼らは一部の例外を除いて一箇所に集住していた(9ブロックと10ブロックの間)。これは地図を作成しなければなかなか発見できないことである。
 もう一点は、現在に比べてそれぞれの土地所有面積が大きいという点である。現在の土地区画は当時の土地を細かく分割した結果できたものであり、当時から細かい土地区画をしていたわけではなかった。ところが現在の雑多な永和洞を歩いていると、当時もそのように小さな土地区分しており、小さな家屋が乱立していたと誤ったイメージを抱く可能性がある。現在の地図と当時の地図を見比べれば分かるが、当時は現在の3から4倍、大きいところではそれ以上の土地区画をしていた。それゆえ、その広大な土地に見合う日本家屋が建てられていたか、または広大な土地に小さな家屋を一軒のみ建てたのではなく、数軒の別棟を有していたと想像できる。永和洞に残った日本家屋を見る時はそうした点に留意して見なければならない。
 今後の課題としては、分析の一点目に挙げたことと関係するが、日本人街に住んだ朝鮮人とはどのような者であったのかという問題提起をすることができる。日本人街の研究となるとどうしても朝鮮に住んだ日本人(内地人)に注目しがちであるが、日本人街には朝鮮人も住んでいたのである。日本人街の全体像を解明するためには、そのような朝鮮人がどのような存在だったのかをも含めて研究していかなければならない。近年の研究で、朝鮮で暮らした日本人(内地人)が必ずしも日本に帰りたいと考えていたわけではなかったことが分かってきた。その理由としては、朝鮮で生まれてふるさとは朝鮮であるからといったものや、朝鮮に財産があるからといったものがあげられた。彼らは日本人(内地人)でありながら朝鮮で生まれ、朝鮮で生活し、朝鮮で財を築いたのであって、言うなれば日本(内地)と朝鮮の境界に生きた人々であった。そして今回の土地台帳調査によってその境界に生きる人々によって作られた朝鮮の日本人街に朝鮮人が住んでいたことが分かった。そうした朝鮮人は、朝鮮人街の朝鮮人から見れば日本人(内地人)街に生きる異質な存在であり、日本人(内地人)から見ても朝鮮人という異質な存在であったはずである。日本(内地)と朝鮮の境界に生きた日本人街の日本人(内地人)にも包摂されず、朝鮮人街に住む朝鮮人にも包摂されない、日本人街に住む朝鮮人とはどのような存在だったのであろうか。今後の課題の一つとしてこの問題を提起しておきたい。
『群山商工会議所月報』第123号(群山商工会議所、1934年)には群山における各職業別の内地人と朝鮮人の賃金が載せられている。日本人街に住んでいた朝鮮人がいかなる職業についていたかは不明であり、このデータにある朝鮮人が日本人街の朝鮮人を指しているとは決していえない。しかし、群山における内地人と朝鮮人の関係を知る上でこのデータは有効であると思われるので、以下に物価と合わせて掲載することとする。尚、表より内地人の最低賃金と朝鮮人の最高賃金がほぼ等しかったことがわかる。








一日の賃金19325月)  単位:円
職 別
最 高
最 低
大工職
内地人
3.00
2.00
朝鮮人
2.00
1.00
左官職
内地人
3.60
2.60
朝鮮人
2.00
1.20
指物工職
内地人
2.80
2.00
朝鮮人
1.50
1.00
錻力職
内地人
3.00
2.00
朝鮮人
2.00
1.50
煉瓦焼職
内地人
――
――
朝鮮人
――
――
鍛冶職
内地人
2.50
1.20
朝鮮人
1.20
0.70
船大工職
内地人
3.00
2.00
朝鮮人
2.50
1.50
畳職
内地人
3.00
2.00
朝鮮人
1.80
0.80
仲仕
内地人
3.00
2.00
朝鮮人
2.00
1.00
表具職
内地人
3.00
2.00
朝鮮人
2.00
1.50
洋服仕立職
内地人
2.50
1.50
朝鮮人
2.00
1.00
自転車職
内地人
1.20
0.80
朝鮮人
1.00
0.80
人力車夫
内地人
――
――
朝鮮人
0.90
0.60
石工職
内地人
3.50
3.00
朝鮮人
2.00
1.50
煉瓦職
内地人
3.40
2.80
朝鮮人
2.00
1.50
瓦焼職
内地人
1.50
1.00
朝鮮人
1.50
1.00
ペンキ職
内地人
2.80
2.40
朝鮮人
2.40
1.80
鐵工職
内地人
2.50
1.50
朝鮮人
1.50
1.00
車製造職
内地人
2.50
1.50
朝鮮人
2.50
1.00
桶職
内地人
2.00
1.50
朝鮮人
1.50
1.00
印刷植字職
内地人
――
――
朝鮮人
1.80
0.80
菓子職
内地人
2.50
2.00
朝鮮人
1.50
1.00
洗張染物
内地人
2.00
1.50
朝鮮人
2.00
1.00
籠職
内地人
2.50
2.50
朝鮮人
0.90
0.70

19325月の群山における物価
19314月における価格を100とする)
種別
品 名

卸 売
小 売
単位
価 格
指 数
単位
価 格
指 数
 穀  





玄米(三等合格品)
精 米(一等)
   
   
   
   
一石
 
一袋
19.60
22.00
9.50
14.00
9.50
125.2
137.0
125.8
112.0
  ―
一升
 
 
 
 
 
0.24
0.11
0.17
0.12
141.1
122.2
133.3

調


鰹  節
内地製醤油
朝鮮製醤油
内地製赤味噌
朝鮮製赤味噌
原  塩
煎  子
昆  布
一貫
百斤
九升樽
二十貫樽
 
百斤
 
一貫
 
13.00
18.00
4.50
4.20
24.00
11.80
0.98
2.00
2.50
2.90
89.7
97.8
100.5
105.0
177.8
90.7
133.3
125.0
82.9
 
百匁
一斤
一升
 
百匁
五升
 
百匁
 
1.50
0.22
0.65
0.60
0.17
0.08
0.17
0.30
0.30
0.34
88.2
110.0
92.8
120.0
106.3
88.8
85.0
100.0
120.0
117.6


内地製清酒
朝鮮製清酒
薬  酒
濁  酒
焼  酎
キリンビール
サッポロビール
サクラビール
サイダー
四斗五升樽
 
一石
 
一斗五升壺
四打箱
 
 
 
61.00
45.00
40.00
15.00
6.60
17.00
17.00
16.00
7.50
92.4
93.8
88.9
88.2
88.0
107.6
107.6
108.1
110.2
一升
 
 
 
 
一本
 
 
 
1.90
1.30
0.45
0.17
0.60
0.38
0.38
0.36
0.20
105.6
92.9
90.0
94.4
109.0
102.7
102.7
102.8
100.0

その他の食料
牛  肉
豚  肉
鶏  肉
鶏  卵
塩石首魚
塩  鯖
甘  栗
蕃  椒(唐辛子)
玉  葱
森永ミルク
十貫
 
一貫
 
一駄
千尾
十貫
三貫五百箱
四貫箱
十貫叺
百斤
十貫
 
四打箱
23.00
15.00
1.70
2.00
15.00
12.00
1.70
4.30
35.00
1.75
1.50
15.50
92.0
100.0
100.0
90.9
48.6
89.6
166.7
76.8
60.0
100.0
百匁
 
 
 
一連
一個
 
百匁
一斤
百匁
 
一缶
0.40
0.35
0.50
0.23
0.50
0.30
0.08
0.09
0.35
0.05
0.04
0.38
87.0
92.1
83.3
92.0
61.5
56.3
140.0
83.3
100.0
100.0

 









[1]日韓文化交流基金2005年度日韓青少年・草の根交流事業助成報告書「環太平洋韓国研究コンソーシアムを活用した日韓青少年によるオーラルヒストリー調査」200510
[2]古川昭『群山開港史』(ふるかわ海事事務所、1999年)参照。
[3]居留地(租界)は朝鮮における外国人の居留・営業のために、開港場の中に開設された地域で、専管居留地(租界)と各国居留地に分けられる。専管居留地は一国の国民に限って居留が認められ、18771902年の間に釜山・元山・仁川・馬山の4開港場に設置された。居留地の行政・司法は韓国の介入を許さず全て日本領事が行ったため、まったくの治外法権というべきものであった。各国居留地は18841897年の間に仁川・鎮南浦・木浦・群山・馬山浦・城津の6箇所に開設された。開設の目的の一つは日本から渡来するものの増加によって溢れかえった専管居留地の人間を収容するためであった。専管居留地に比べて面積が広大だったために1892年にはその人口が専管居留地を上回った。

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明治15年の外交官俸給は、件名一等属副田節領事ニ昇任朝鮮国在留被命ノ件 階層 国立公文書館太政官・内閣関係公文録公文録・明治十五年・第百九十七巻・官吏進退(外務省) レファレンスコード A01100238100 所蔵館における請求番号 公03405100(国立公文書館) 言語 日本語 作成者名称 外務卿 井上馨 資料作成年月日 明治15年05月31日 規模 5 組織歴/履歴(日本語) 太政官//内閣 内容 親展 朝鮮国京城公使館在勤外務一等属副田節儀領事ニ被任釜山港在留被命七等官相当年俸二千四百六十円

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釜山の韓語学所