1945年8月15日を境とした朝鮮半島の日本人
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8月 |
3日 |
平安南道 |
城巖面大安里 |
名古屋の大同製鋼本社が戦災に遭い、300名が移動してくる(森田、234頁) |
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8月 |
8日 |
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咸鏡北道 |
清津 |
・深夜、ソ連軍の攻撃。 |
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朝鮮総督府交通局清津埠頭局:事務所の書類・印鑑などを焼却 |
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咸鏡北道 |
羅津 |
満鉄羅津埠頭旅客係:ソ連機による空襲。羅津から撫順へ逃避。 |
午後11時55分、数十機のソ連軍機の編隊来襲 |
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8月 |
9日 |
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咸鏡北道 |
清津 |
午前からソ連軍飛行機5機による爆撃(森田39頁) |
午前9時、咸鏡北道警察部長がソ連軍来襲と発表(森田37頁) |
咸鏡北道庁内の10数名に召集令状がでる。(森田37頁) |
埠頭に陸揚げした朝鮮銀行未発行券172箱のうち、90箱が焼失8森田39頁) |
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咸鏡北道 |
亜吾地 |
午前1時20分頃、豆満江対岸からソ連軍の砲撃有り。(森田50頁) |
午後6時に避難命令。(森田50頁) |
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咸鏡北道 |
慶興 |
張鼓峰付近のソ連軍が砲撃し、進軍。(森田35頁) |
午前三時半、青鶴洞から交戦中の連絡を受ける。(森田35頁) |
第127師団下の一個中隊が敗退。(森田35頁) |
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咸鏡北道 |
羅津 |
ソ連軍の爆撃。日本軍と満鉄関係者は、列車で避難開始。 |
羅津港停泊中の11隻の船舶航行不能 |
午後3時、学校の勅語や御真影を移転。 |
各配給所では、一ヶ月分の米・味噌・醤油配給。 |
朝、日本軍全面撤退し、古茂山へ移動 |
羅津の海軍などは清津に移動 |
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咸鏡北道 |
雄基 |
8月9日午前9時から、ソ連軍が雄基市内を砲撃。8月9日、日本軍退却。 |
雄基警察署長梅津貢氏によると、午前0時4分からソ連軍の来襲が開始したという(森田、33頁) |
午前5時30分から空襲開始。(森田33頁) |
雄基港内の18隻の船舶が航行不能(森田33頁) |
雄基邑民は裏山に避難(森田33頁) |
夕方に羅津要塞司令部の指示で、邑民全民が避難開始(森田33頁) |
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咸鏡北道 |
羅南 |
・ラジオ放送が途絶。朱乙温泉に白系ロシア人ヤンコフスキー伯爵一家在住。脱出ルートは3。第1は、咸興→本山→鉄原→京城(内陸ルート)、第2は、咸興→元山→襄陽→注文津(日本海沿岸ルート)、第3は、咸興→興南→海路→注文津(海上ルート)。 |
羅南師団兵事部長が管下の朝鮮人徴兵適齢者や在郷軍人に召集令状を出し、10日に応召者による部隊編成 |
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咸鏡北道 |
咸興 |
咸興にある第34軍は第17方面軍の指揮下に編入。(森田38頁) |
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咸鏡北道 |
城津 |
ラジオでソ連軍参戦を聞く(片山386頁) |
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京城 |
第17方面軍参謀副長菅井斌麿少将を羅南師管区部隊へ派遣(森田38頁) |
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10日 |
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咸鏡北道 |
羅津 |
ソ連軍が上陸。 |
午後2時、北村留吉府尹が軍が府民を置き去りにしたと知る。府民に避難命令を出す。(森田32頁) |
羅津警察署と羅津憲兵隊は破壊。(森田32頁) |
朝鮮銀行羅津支店藤崇正氏は銀行内の約三〇〇〇円の紙幣を焼却。(森田32頁) |
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咸鏡北道 |
阿吾地 |
朝鮮人造石油社員全従業員が会寧へ向け待避。8森田50頁) |
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咸鏡北道 |
会寧 |
ソ連軍の飛行機よりビラ投下。日本語と朝鮮語を併記。(森田51頁) |
会寧駐屯の日本軍は撤退(森田51頁) |
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咸鏡北道 |
雄基 |
埠頭、税関、兵営、警察署、憲兵隊など破壊。(森田34頁) |
警察署留置所内の50名の収容者を釈放(森田34頁) |
100名以上患者が入院する道立病院が焼失、全員自決(森田34頁) |
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咸鏡北道 |
清津 |
交通局清津駅勤務家族や清津警察署家族:清津から元山へ避難(8月15日以降、元山から京城へ)(片山339頁) |
清津港の阿波川丸が航行不能(森田39頁) |
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平壌 |
大邱の第120軍が済州島ではなく、、平壌への転進命令が下りる。(森田38頁) |
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11日 |
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咸鏡北道 |
雄基 |
朝鮮人が赤旗で上陸したソ連軍を歓迎 |
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咸鏡北道 |
羅南 |
第17方面軍参謀副長菅井少将、午前5時に到着。羅南師管区司令官西脇中條と面会。その後、渡辺知事、加納警察部長と面談。(森田38頁) |
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咸鏡北道 |
会寧 |
会寧を出発する列車は避難民で鈴なり(森田51頁) |
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咸鏡北道 |
城津 |
午前8時、城津駅集合、城津道立病院の家族ら午前10時発京城行きに乗車。(片山386頁) |
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海州 |
朝鮮総督府警備課の短波で講和条約の報を知る。 |
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咸鏡北道 |
清津 |
ソ連軍の艦砲射撃開始(森田39頁) |
午後6時清津発の列車で清津警察署の家族60余名を引率し元山経由で、8月14日江原道高城へ到着。(片山400頁) |
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宣川 |
満州からの疎開者2347名到着。 |
昭和国民学校(軍人家族約千百名、満州航空千3百名、建国大学百50名、満鉄2百名)、宣川農業学校(軍酒保百名、中央観象台50名)、旭国民学校(満鉄5百名、興農金庫4百5十名)、武徳殿(満鉄8百名)、本願寺(軍人家族百名)、南国民学校(軍人家族千2百名)に集結(森田259頁) |
12日 咸鏡北道 清津 午前1時、19師団・公務員・警察署家族などを乗せた列車が出発し、京城に到着(片山340頁) 午後、清津刑務所の囚人が釈放される。(片山341頁) 平安南道 平壌 平安南道庁は短波ラジオ放送(サンフランシスコ放送)で、ボツダム宣言受諾を知る。(森田182頁) 13日 咸鏡北道 城津 ソ連軍4機の爆撃で、日本の海防艦2隻沈没(片山383頁) 咸鏡北道 羅南 避難列車出発―午前12時30分発鏡城駅発、16日午前4時30分、明川駅着 、17日午前4時吉州駅着、17日午後5時城津駅着、20日午後12時30分城津駅発、21日午後1時30分京城駅着 咸鏡北道 咸興 第17方面軍参謀副長菅井少将、第34軍司令部に到着 咸鏡北道 会寧 川和田郡守は日本人に撤退命令を発する。茂山へ移動(森田51頁) 警察署・邑事務所・郵便局・税関・朝鮮銀行・朝鮮殖産銀行・朝鮮金融組合・鉄道関係施設・軍施設が全焼(森田51頁) 13日午後11時に出発した鉄道関係者を乗せた列車は、清津を経て18日朝京城へ到着。(森田52頁) 咸鏡北道 清津 清津から城津へ避難列車。8月15日、城津から平壌へ。8月16日、平壌から京城へ汽車で避難。 午前11時半、ソ連軍が清津港に上陸。清津漁港の北の海岸に上陸(森田40頁) 特設警備第451大隊が反撃。未教育の朝鮮人が多数含まれる特設警備第451大隊は無防備なまま。 咸鏡南道 咸南 朝日新聞咸興支局長より8月15日の玉音放送あると知る(片山394頁) 平安南道 平壌 古川知事が曹晩植氏(当時、江西在住)に終戦に伴う非常事態の道政の協力を仰ぐ(森田182頁) 14日 平安南道 博川 約800名が博川国民学校に収容(森田260頁) 咸鏡南道 咸興 朝日新聞咸興支局長による通報によって、咸鏡南道庁幹部は終戦を知る(森田164頁) 海州 同盟通信海州支局に終戦の確報が届く。 清津 第410特設警備工兵隊が反撃。ソ連軍1個師団が上陸。(森田41頁) 羅南 羅南駅から最後の避難列車が発車 仁川 ・8月15日正午に重大放送があると予告。 忠清南道 大田 朝、総督府警務局から忠清南道庁警務部に連絡があり、京城への警部派遣要請があった。(森田、86頁) 15日 黄海道 海州 ・午前4時、同盟通信から黄海道庁に伝わる。同日午前8時、朝鮮軍に、暗号電報。同日午前9時、朝鮮総督府から道庁首脳部に伝わる。正午、玉音放送。 ・同日、日本語新聞『黄海日報』終刊。 咸鏡北道 清津 ソ連軍戦車部隊が上陸。 咸鏡北道 会寧 会寧駅に残った機関車9両と貨車3両を連結して、会寧の鉄道関係者が避難、清津に向かうが、既に戦場であったために、古茂山へ。(森田52頁) 会寧に到着した羅津の満鉄関係者約2000名が満州に避難。列車10両で出発し、南陽で豆満江を渡河。同日0時30分に図門駅に到着。ソ連軍の空爆を受けて、死者約200名、負傷者約340名を出す。その後、清津へ向かうが、戦場であったために、再度北上し、撫順に到着する。撫順には約6500名の満鉄関係者が集結。(森田53頁) 日本軍が朝鮮商業銀行・醤油製造工場・カソリック教会などを焼却。(片山352頁) 咸鏡北道 咸興 玉音放送。「終戦に関する天皇陛下のお言葉は、むしろ安堵感さえ与えてくださった」。咸興日本軍司令部より「咸興在留邦人の生命、財産は軍が保証し、日本に安全に帰国させる」との布告 第17方面軍参謀副長菅井少将、第34軍司令部で玉音放送を聞く(森田39頁) 咸鏡北道 古茂山 ソ連軍の空襲 咸鏡北道 秋乙 正午、玉音放送は雑音のみ。午後2時、解散式。 咸鏡北道 安岳 平穏 郭山 正午、玉音放送。 亀城 正午、玉音放送 黄海道 沙里院 玉音放送を聞く。日本人は悲嘆にくれた。朝鮮人側は独立を祝福して万歳を叫んで町を練り歩き、日本人に対する感情も悪化してきた。終戦後2,3日して沙里院神社が焼失。 載寧 正午、玉音放送 宣川 正午、玉音放送 黄海道 鎭南浦 玉音放送を聞く。「内容を十分理解できぬまま放送終了」。8月15日、多数の朝鮮人が「マンセーイ、マンセーイ」と開放の喜びを表現した行進。「難しい言葉遣いと音声のひずみや雑音のために内容はほとんど分からなかった」、「本土決戦の覚悟を促す内容だと思った」「(鎭南浦)街の中心部では朝鮮人の大集団が日の丸を加工した太極旗を掲げて『マンセーマンセー』と叫んで練り歩いた」 宣川 正午、玉音放送。「午後になって町中のあっちこっちから沸きあがった。『ジョソンドクリツマンセイ、マンセイ』と言う。太極旗や赤旗を振る。 羅南 正午、玉音放送。満州公主峰在住軍人家族到着。 咸鏡南道 咸興 午前10時、岸勇一知事が第34軍司令部に終戦を通知。(森田164頁) 岸勇一知事は咸鏡南道の業務を鄭民朝(松永光弘)内務部長に移管(森田164頁) 咸鏡南道 元山 正午、玉音放送。「何時の間にか用意したのか赤旗と朝鮮旗を両手に持った朝鮮人が『マンセイ、マンセイ』叫びながらうごめきながら道に溢れ、朝鮮だけがお祭りのようにざわめきながら日本人は一歩も外に出られない」 平安北道 新義州 午前8時30分から、山地靖之知事は道庁に部課長、新義州府内の官公署長、工場・事業所の経営者、有力者などを招集。(森田189頁) 午後2時から、山地知事は新義州付近の朝鮮人有力者30名を道庁に招聘し、新義州の治安維持を依頼。(森田189頁) 民族主義系李裕弼氏を会長とする新義州治安維持会が結成。(森田189頁) 平安南道 平壌 正午の玉音放送と共に、曹晩植氏を委員長とする平安南道治安維持委員会が結成(副委員長は玄俊赫氏)。(森田182頁) 朝鮮人によって、日本語の使用が禁じられた。 すべての日本行政機関などが機能停止 朝鮮人によるデモ(森田182頁) 平壌神社が焼失(森田182頁) 江原道 高城 夜中から「万歳、万歳」の声がおき、町内に保安隊が結成。(片山403頁) 京城 正午、京城中学のグランドで全校生徒が整列する中を、雑音でほとんど意味を解し得ない終戦の詔勅がラジオ放送され、校長先生より戦争が終わったことを聞かされた。 終戦の詔勅が放送されたのに、市街地は深夜に至るまで意外なほどに静寂な一日だった。 清州 ラジオ放送を聞いた先生から終戦を聞く。「帰路途中で一軍の朝鮮人たちに会いました、今になって考えれば独立回復の祝賀でもあったのですが、『マンセイ』の歓喜と共に、あの巴のデザインの国旗が打ち振られていました。 黄海道 海州 同盟通信社海州支局から伊坂和夫警察部長(朝鮮人)に対して、ボツダム宣言受諾を通知(森田177頁) 江原道 鉄原 正午、玉音放送。 慶尚南道 釜山 正午、玉音放送を聞く。「内容を十分理解できぬまま放送終了」。多数の朝鮮人が「マンセーイ、マンセーイ」と開放の喜びを表現した行進。 午前6時に重大ニュース発表と予告。正午、玉音放送。 忠清南道 大田 午前4時に、総督府より「終戦の詔勅が下りる」という一報あり。(森田86頁) 午前11時、鳥川僑源(鄭僑源)知事が太田市内の有力者に終戦の詔勅ラジオがあると伝達(森田86頁) 全羅北道 木浦 ・終戦の詔勅、街は騒然となった。「日本の警察安泰なり」と空よりビラ。 20,仁川 京畿道 仁川 ・玉音放送 8月 16日 咸鏡北道 城津 朝鮮人保安隊が結成される(片山349頁) ソ連軍が城津府尹・城津駅長・城津警察署長など連行・逮捕(片山387頁) 国境方面から避難してきた日本人が城津府内になだれ込む。避難民収容所は学校。(片山387頁) 咸鏡北道 清津 朝鮮人が赤旗を立てて、市内を行進。日本人の荷物の略奪。 朝鮮人保安隊が組織される、委員長は黄大聖(片山349頁) 黄海道 海州 朝鮮人デモが始まる。 海州神社昇神式。 咸鏡北道 吉州 ソ連軍の空襲(森田42頁) 北鮮製紙工場の従業員及び家族750名が鳳岩駅へ避難。(森田56頁) 咸鏡北道 永安 永安にあった日本窒素関係者約1300名が、城津・新北青を経由して、8月18日に興南へ避難(森田163頁)(森田243頁) 安岳 夕刻、暴民起きる。夜、安岳神社焼き討ち。 亀城 朝鮮人による独立祝賀行列 咸鏡南道 咸興 咸興刑務所にいた約200名の政治犯や経済犯が釈放された。刑務所からの釈放者が咸興府庁に押しかけて、庭瀬信行府尹に対して府尹の権限を朝鮮人職員に移譲させた。道庁は拒否。(森田165頁) 釈放者リスト:宋成寛・金在奎・朴庚得・文会彪・崔浩敏・朱致旭・韓祉福・朱璋淳・朱啓燮・金清哲・朱文禎ら(森田165頁) 宋成寛らが咸鏡南道人民委員会を結成。その翌日、咸鏡南道共産主義者協議会に変更(森田165頁) 咸鏡南道 羅南 ソ連軍の空襲(森田42頁) 咸鏡南道 興南 朝鮮人独立祝賀行列 平安北道 新義州 約2万名がデモ開始(森田189頁) 新義州刑務所から全受刑囚約1000名が釈放(森田189頁) 宣川 独立運動のデモ 定州 定州神社焼失 朝鮮人多数、。独立万歳を叫びデモ行進。 日本人居留民会設立。会長は児玉恒記氏(定州地方法院市庁検事)、副会長は大村栄太郎氏(定州警察署長)。連絡所はいろは旅館。9月2日に日本人世話人会設立(森田144頁) 黄海道 海州 朝鮮人のデモ(森田177頁) 朝鮮人経済犯・政治犯が釈放される。朝鮮共産党黄海地区委員会(委員長は金徳永氏、閔徳元・田在裕両氏。本部は海州警防団南山分団)、海州保安隊(隊長は李澄澤氏、本部は海州警察署)、建国準備委員会黄海道支部(委員長は金応洵氏、場所は道庁第1会議室)が結成(森田177頁) 黄海道 海州 朝鮮人デモが始まる。 海州神社昇神式。 羅南 ・神社焼失 江界 ・江界神社焼失。 京城 早朝から京城の街という街、通りという通りは昨日までとは一変し、人の波で埋まっていた。人々は是まで見たこともない太極旗や赤旗を掲げて口々に叫んでいた。『ジョソンドクリツマンセイ、ジョソンヒャグションマンセイ』。 朝鮮神宮の神儀の遷座――・本多課長、高松所長 朝鮮神宮の御宝物―飛行機便にて京城から東京へ 全州 ・早朝全職員出校が伝達された。日本人職員は国旗やその他重要書類の焼却作業を手際よく済ませて即時解散した。 釜山 ・京城電気前に朝鮮民衆の示威運動 全南裡里梨坪面 朝に「日の丸の赤の半分を濃紺で二つ色に塗り、四場に点々をつけた太極旗という旗が家々に林立」 平安南道 平壌 8月16日か、17日に平壌発釜山行きの最後の列車が出発。 朝鮮人政治犯・経済犯など約3000名が釈放。(森田182頁) 平安南道治安維持委員会は朝鮮建国準備委員会平安南道支部と改称(森田182頁) 17日 咸鏡北道 茂山 午後6時、無蓋貨車で茂山鉱山家族約400名が発車。18日午後7時、白岩に到着。(片山370頁) 咸鏡北道 清津 戦闘中に逮捕された日本人21名(男)が捕虜として、船でウラジオストックに連行(森田、238頁) 咸鏡北道 城津 朝鮮人保安隊による日本軍武装解除を拒否(森田162頁) 咸鏡南道 咸興 咸興中学校閉校式(玉井402頁) 咸鏡南道 羅南 ソ連軍の空襲(森田42頁) 羅南師管区司令部は朱乙漁游洞へ後退(森田42頁) 平安北道 新義州 道内の学校にある御真影・御霊代の焼却命令(森田189頁) 約2万名の朝鮮人が市中をデモする(森田189頁) 新義州刑務所の全受刑者約1000名の釈放(森田189頁) 平安南道 平壌 日本人及び親日系朝鮮人が南下開始。(森田183頁) 黄海道 海州 刑務所から政治犯や経済犯が釈放。同日、建国準備委員会設立。同日、在海州日本人会設立。同日、道内各地に警備電話を通して、日本人会結成を命じる。 海州日本人世話人会設立。会長は万代龍助氏、副会長は小出怜氏・上村篤実氏。(森田142頁) 黄海道 兼二浦 ・朝鮮建国兼二浦同志会結成。建国万歳デモ 載寧 ・デマが乱れ飛ぶ。 咸鏡南道 元山 ・清津府庁の家族約200名が到着。 京畿道 仁川 ・午後3時頃、朝鮮総督府水田財務局長談話(日本人の預金は、郵便局に預金するか、日本に送金すべし) 午後4時、仁川神社ご神体を処分 朝鮮人は街頭に集合、独立万歳を連呼しつつ、狂喜乱舞する。 朝鮮人治安自治会設立(自治会長は、金容圭氏、府会議員、西京町会長) 京城 京城日本人会結成。会長は穂積真六郎(京城電気会社社長)、副会長は久保田豊(朝鮮電業社長)・渡辺豊日子(朝鮮重要物資営団理事長)。事務所は京城府中区長谷川町朝鮮商工経済会。ただし、この名称は8月19日に「京城内地人世話人会」に改称(森田133頁) 忠清北道 清州 内地人親和会設立。会長は鮎川栄治氏(朝鮮貨物自動車支店長)、副会長は市川幸右衛門(朝鮮運送支店長)、伊藤東之進(清州商工会議所理事)、事務所は邑事務所に置く。本会は24日に「清州日本人世話人会」と改称。(森田141頁) 江原道 鉄原 日本人救助委員会設立(森田145頁) 18日 茂山 渡辺知事以下道庁職員により、茂山営林署に咸北道庁防衛本部を設立(片山357頁) 咸北及び満州からの避難者約3万名(片山357頁) 吉州 ソ連軍機による爆撃(森田57頁) 平安北道 新義州 「鴨江日報」が朝鮮語で発行。(森田189頁) 海州 ・朝鮮語版新聞『特報』刊行(同年9月初めに『自由黄海日報』、同年9月17日に『日刊自由黄海』)。 宣川 ・宣川神社焼失。 定州 ・定州の行政・経済の権力が日本人から朝鮮人へ。接収された預金、約3000万円。 平壌 平壌日本人会設立。会長は今井頼次郎氏(西鮮合同電気社長)、副会長は本島文市氏・森幸次郎氏。事務所は商品陳列館。後に華頂寺に移転(森田143頁) 咸鏡北道 会寧 日本人全員退去(片山355頁) 黄海道 海州 黄海日報は朝鮮人が編集し、朝鮮語と日本語で刊行。9月に「自由黄海日報」。9月17日に「日刊自由黄海」へと改称(森田177頁) 19日 咸鏡北道 清津 ソ連軍との戦闘が終結。日本人在留者約400名(森田、238頁) 咸鏡南道 元山 ソ連軍が元山占領。 宣川 ・宣川治安委員会成立。 江原道 鉄原 ・日本人救助委員会設立、 京城 ・朝鮮神宮焼却 黄海道 海州 海州所在の朝鮮セメント・鐘紡西鮮重工・朝鮮火薬から日本人従業員が追放される。(森田178頁) 全羅北道 群山 日本人世話人会成立。会長は樋口虎三氏(南鮮合同電気副社長)、副会長は光富嘉八氏(印刷業)、脇田春次氏(道会議員)、伊藤忠孝氏(府会議員)。事務所は商工経済会、後日、幼稚園に。(森田141頁)。 8月 20日 咸鏡南道 咸興 城津より到着した約4000名の日本人が到着(片山396頁) 咸興に@咸鏡北道避難民会が結成される。本部は武徳殿(森田、240頁) 咸鏡南道 興南 朱乙・吉州の日本窒素鉱業所の従業員が興南に到着(森田243頁) 咸鏡北道 清津 鈴木沙奈夫咸鏡北道内務部長がソ連軍に拘留された(森田160頁) 咸鏡北道 城津 ソ連軍が進駐。城津駅吉田助役他5名が銃殺された(森田162頁) 咸鏡北道 咸興 電信第56部隊、武装解除。300名が逃亡(森田195頁) 安岳 日本人世話人会設立。会長は岡田謙作氏(道会議員)、副会長は入部俊夫氏(郡守)。(森田143頁) 21日 咸鏡南道 元山 ソ連軍、進駐。乙種巡洋艦2隻・駆逐艦3隻・砲艦2隻・輸送艦5隻、約9000名のソ連軍(森田166頁) 午後7時に、多田司令官及び元山特別根拠地隊司令官堀少将に対して、ソ連軍は武装解除を命令。歩兵第362部隊はその日に元山に到着(森田167頁) 元山交通局職員が南下(森田261頁) 咸鏡南道 興南 暁部隊の船舶が警察官家族や松ヶ枝遊郭の女性たちを載せて出港。8月25日に敦賀港に到着(森田261頁) 咸鏡南道 咸興 ソ連軍の先遣隊が戦車を連ね、進駐、咸興占領。日本軍や警察などの武装解除(森田167頁)(片山394頁) 咸鏡北道 古茂山 ソ連軍が進駐(森田160頁) 咸鏡北道 城津 ソ連軍1個大隊が進駐。城津中流日本軍の武装解除(森田162頁) 釜山 ・引揚者第一便出発。興安丸。 仁川 ・朝鮮軍司令部の命により、引揚準備を開始 日本人有志32名が仁川日本人会組織準備委員会発議す。於:仁川神社。会長は加藤平太郎氏(朝鮮精米社長、副会長は小谷益次郎(仁川府会副議長)、森秀雄(仁川商工経済会会頭)、長野永治(東洋紡績工場長)。事務所は紅屋(市内宮町、池田氏店舗)(森田140頁) 22日 京城 東京の内務次官より朝鮮総督府政務総監宛の電報:「日本軍の武装解除は、38度線以北がソ連、以南が米軍となる見込み」(森田154頁) 咸鏡北道 茂山 茂山終結の咸鏡北道幹部は京城から帰任した佐々木経済警察課長により8月15日の終戦の詔勅を知る(森田160頁) 白茂線列車による避難民輸送を打ち切る。8月19日迄に1万数千名輸送(森田160頁) 咸鏡北道 咸興 歩兵第362部隊(7月25日、咸興にて現地応召者により編成)が武装解除(森田195頁) 咸鏡南道 咸興 第17方面軍参謀副長久保満雄少将が咸興に到着。ソ連軍ワックス中佐と武装解除に関して協議(森田167頁) 咸鏡南道 元山 ソ連上陸用船艇にてソ連兵が上陸。大村鎌次郎氏経営の製材工場は、従業員であった林が経営権を奪う。 元山駐留日本海軍将兵は4250名。下士官は富坪の日本軍兵舎、准士官以上は宣徳陸軍飛行場に収容(森田167頁) 仁川 ・仁川府庁による内地引揚輸送計画書および釜山丸引揚計画発表 23日 咸鏡北道 新站 ソ連軍が進駐(森田161頁) 咸鏡北道 兼二浦 兼二浦内地人クラブ結成。会長は田所怜氏(日本製鉄総務部長)(森田142頁)。 咸鏡北道 双浦 ソ連軍が進駐(森田163頁) 咸鏡北道 吉州 ソ連軍が進駐(森田163頁) 咸鏡南道 載寧 邑内318名、他地域からの日本人483名が岡田旅館、金井旅館、日出料亭に移動。(森田231頁) 咸鏡南道 咸興 日本軍の完全武装解除 進駐ソ連軍司令官チスチャコフ大将の宣言は、38度線以北の行政権掌握(片山394頁) 咸鏡南道 元山 第34軍の武装解除(森田168頁) 仁川 ・海上航行禁止令が米軍により発布 江原道 鉄原 在住の日本人約800名が38度線を南下(森田174頁) 京畿道 開城 ソ連軍が進駐(森田175頁) 24日 咸鏡北道 咸興 日本人世話人会設立準備会。(森田145頁) 北朝鮮進駐ソ連軍司令官チスチャコフ大将が咸興飛行場に到着。出迎えた櫛渕第34軍司令官と会談。(森田168頁) 咸鏡北道 延社 咸鏡北道幹部が到着。道庁本部は延社警察署。当時、約6000名の避難民。(森田161頁) 咸鏡北道 城津 朝鮮人暴動発生(森田162頁) 咸鏡南道 元山 平壌-元山の平元線の運航が停止(森田168頁) 平安北道 新義州 道庁内に、張基昌農商部長を中心に朝鮮人職員による道行政委員会が結成(森田189頁) 平安南道 平壌 ソ連軍カメンシュコフ少佐一行80名が飛行機で進駐。そしてソ連軍が平元線で平壌に進駐(森田183頁) 平壌で関東軍の代表として第四課参謀山形求馬少佐、第二課三宅勉中尉、満州国の代表として交通部土建統制司長桑原英治氏、総務庁参事官安井尋志氏、関東局の代表として経済課長石橋美之介氏および満鉄の代表が集まり協議した結果「満州疎開民総本部」を平壌に設け、桑原英治氏を総本部長に、石橋美之介・山形求馬氏を副部長に、安井尋志氏を総務部長に、森山正氏(満州国総務庁参事官)を平北本部長に、三宅勉氏を平壌団長にして、統制をとることになった(森田246頁) 平安南道 价川 价川日鉄鉱業所職員及び家族920名が朝鮮人労務者住宅(1棟5戸、20棟)に移動(森田、233頁) 江原道 全谷 ソ連軍が京元線を切断。38度線以北では全谷が終着駅(森田174頁) 京城 朝鮮神宮の御御霊代を京城飛行場から東京へ移送 8月24日午後6時を期して、100トン以上の船舶の航行禁止令(森田125頁) 京城ラジオで「内地人世話人会生まれる」の報道。朝鮮総督府企画課長から各道知事宛の通知(森田139頁) 京城 25日 咸鏡北道 延社 イワノフ少佐以下、80名のソ連軍がトラック三台で進駐。日本軍の武装解除。渡辺知事一行25名を清津郵便局裏庭のキャンプ連行。通訳は朱乙にいた白系ロシア人ヤンコフスキー氏(片山363頁)(森田161頁) ソ連軍に連行されたリスト:渡部肆郎知事、馬頭修地方課長、浅野清担学務課長、伊藤豊次商務課長、佐藤辰雄農務課長、穴田良三食料課長、佐々木実義経済警察課長、柴山栄山林課長、金子稔耕地課長、志満津邦生高等警察課員、中原羅津警察署員(森田161頁) 咸鏡南道 咸興 岸勇一知事とワックス中佐との交渉(森田168頁) 朝鮮民族咸鏡南道執行委員会が成立、都容浩が委員長、崔明鶴が副委員長。この委員会が咸鏡南道の治安・行政を継承(森田170頁) ソ連軍による命令で、「官舎にいる軍人家族は8月25日午前6時までに退去」が決定。(森田170頁) ソ連軍が、咸興在任の将官5名、第34軍司令官櫛渕中條、同参謀長川目少将、第59師団長藤田中條、同旅団長永島少将・上坂少将が飛行機でウオロシロフ収容所に移送(森田171頁) 平安北道 新義州 列車に日本人は乗車拒否される(森田189頁) 平安南道 鎮南浦 ソ連軍が進駐(先遣隊)、本隊は9月2日(森田187頁) 平安南道 成興 職員183名、および家族約600名が興和寮に移動(森田、233頁) 黄海道 金郊 京義線の38度線以北における南端金郊駅にソ連軍約70名が進駐(森田179頁) 黄海道 新幕 ソ連軍約300名が進駐。京義線は新幕駅で遮断(森田178頁) 京畿道 仁川 仁川内地人世話人会設立。会長は加藤平太郎氏(朝鮮精米社長)、副会長は小谷益す次郎(仁川府会副議長)、森秀雄(仁川商工経済会会頭)、長野永治(東洋紡績工場長)。事務所は紅屋、後に本町2丁目の松屋(森田140頁) 京畿道 開城 8月末に、会長は道立病院長高田誠一氏で日本人世話人会が設立。(森田140頁) 郭山 ・京城駅から列車、郭山へ北上。郭山に成立した各種政治団体「民主党・労働党、天道教青友党、民主青年同盟、農民組合、北朝鮮農民連盟、女性同盟、朝鮮文化協会、反日闘志後援会、仏教連合総務院、社会科学研究所などの支部」 全羅南道 木浦 日本人世話人会設立。会長は中島健三氏(府会副議長)、副会長は村上直助(商工経済会会頭)。(森田141頁) 全土 38度線で鉄道線路が切断 咸鏡南道 咸興 朝鮮民族咸鏡南道執行委員会が成立し、治安および行政権掌握を宣言(片山394頁) 1,憲兵、警察官に対して武装解除をする。2,官公署や公共物は委員会が継承する。3,委員会は日本人を圧迫してはならない。4,日本人の生命財産はソ連軍および委員会が保証する(片山394頁) 京畿道 仁川 仁川日本人会組織準備委員会発足 26日 平安南道 平壌 北朝鮮駐留ソ連軍司令官チスチャコフ大将は平安南道人民政治委員会に対して「38度線は米ソ両軍の進駐の教会とするだけで政治的な意味は無い」と発言(森田154頁) ソ連軍本隊が進駐(兵力、3千から4千名)(森田183頁) 日本軍の武装解除(森田183頁)。三合里収容所に移動。その後、10月8日に興南の収容所に移動。(宮田英一、355頁) 平安南道人民政治委員会に行政・治安などを移管。事務所は山手国民学校(森田183頁) 平安南道人民政治委員会は、委員長曹晩植、副委員長は呉胤善・玄俊赫、内務委員は李周淵、農商委員は鄭基秀、財務委員は金炳淵、鉱工委員は金光鎮、治安委員は金翼、平壌府政委員は韓根祖、平壌治安署長は宋昌廉(森田185頁) 咸鏡北道 延社 延社警察署の国旗掲揚塔に太極旗(片山364頁) 咸鏡北道 白岩 イワノフ少佐が率いるソ連軍約700名が到着(森田162頁)(片山373頁は「茂山」)。イワノフ少佐は日本人代表30名に対して、現住地への帰還を要請。日本人の一部はそれを信じて移動。(森田162頁) 咸鏡南道 咸興 午前1時、日本窒素肥料興南工場にソ連軍25名が大石興南本部長に対して8月分給料400万円を奪取。(森田171頁) 日本窒素肥料興南工場の通用門に「日本人従業員入場禁止」の張り紙(森田171頁) 当時の興南在住の日本人は約2万9千名(森田171頁) 咸鏡南道内の官公署・公共団体施設・学校・金融機関・新聞社・交通機関・重要生産機関は朝鮮民族咸鏡南道執行委員会によって接収。(森田171頁) 江原道 襄陽 ソ連軍が進駐(森田174頁) 黄海道 海州 日本人らは、海州金融機関に3000万円。 土海線(土城ー海州間)、沙里院線(沙里院ー海州間)の列車が運行を停止(森田178頁) 黄海道 兼二浦 兼二浦駐在警備隊が避難、住民は放置。 仁川 ・仁川日本人世話会設立(会長は、加藤平太郎朝鮮精米社長) 平安北道 新義州 日本人世話人会設立。会長は多田栄吉氏、副会長は長沼昭夫氏・足立利夫氏。事務所は本町国民学校。後に常盤町国方商店、井上商店へ移転(森田144頁) 27日 平安北道 新義州 ヴィノドラフ少将がソ連軍司令官進駐を予告(森田189頁) 京城 朝鮮軍管区司令官は38度線が米軍・ソ連軍進駐の境界であると発表。日本人は初めてその南北朝鮮の分断を知る。当時の人口は南が約1600万、北が約950万である。(森田155頁) 羅南 ・日本人の権利は凡て剥奪される。 黄海道 沙里院 沙里院憲兵隊員・警察官らが南下。住民は、放置。 黄海道 海州 黄海道庁に道庁朝鮮人職員会(代表文定昌内務部社会課長)が成立(森田179頁) 平安北道 新義州 日本人世話人成立。 咸鏡北道 咸興 日本人世話人会成立。 志村豊彦咸興警察署長以下30余名をソ連軍が拘留。(森田171頁)(片山395頁) 朝鮮民族咸鏡南道執行委員会が咸興交通局を接収(森田172頁) 咸鏡北道 楡坪 ソ連軍、進駐(森田162頁) 咸鏡南道 興南 日本窒素肥料会社が接収(片山395頁) 京城 朝鮮総督府は終戦事務処理本部を設立(森田148頁) 平安南道 平壌 平壌放送局は日本語ではなく朝鮮語に変更(森田185頁) 「平壌毎日新聞」は最終版を刊行(朝鮮語)(森田186頁) 堂本平安南道警察部長以下、警察関係者が逮捕される(森田186頁) 江原道 伊川 ソ連軍が進駐(森田174頁) 28日 咸鏡北道 清津 咸鏡北道幹部が清津刑務所に収容。その後古茂山収容所に移動(森田163頁) 咸鏡南道 咸興 岸勇一咸鏡南道知事以下、道庁の部長・課長のほか21名が逮捕され、咸興のソ連軍兵舎(元日本軍兵舎)に拘留(片山395頁)(森田172頁) 平安南道 平壌 山沢佐一郎覆審法院院長ほか判事4名、検事7名が逮捕、拘留された(森田186頁) 京畿道 仁川 ・仁川府会議員懇談会開催 江原道 福渓・金化 ソ連軍が進駐(森田174頁) 江原道 平康 京城帝国大学高地療養研究所にソ連軍進駐。職員及び結核療養患者33名が8月31日南下するが、鉄原で阻止される。そして9月4日、再び南下する。月井里で下車し、9月9日に38度線を突破し、東豆川に到着。(森田262頁) 黄海道 海州 道内の日本人に対して、北部は南川、中部は沙里院、南部は海州に集合し、引揚準備をするように指示(森田179頁) 建国準備委員会黄海道支部は、黄海道人民政治委員会と改称。委員長は金応洵、副委員長は朴在龍、内務部長金池清、農商部長洪性龍、鉱工部長金光燁、財政部長は崔昌奎、治安部長は崔明鉉、逓信交通部長は閔徳元、共産党代表は金徳永(森田179頁) 29日 咸鏡南道 元山 日本人世話人会設立。会長は松本五郎氏(金物商)、委員は佐藤広吉氏・小林武治(共に商業)。(森田145頁)。 咸興 咸興日本人世話人会成立。会長は井上清氏(咸興商工経済会会頭)、土谷惟一氏(商工経済会事務局長)、事務所は軍営通り1丁目の永島治幸氏(森田145頁)。在留日本人35000名。 8月 29日 平安北道 新義州 8月29日から、列車による入国、9月2日から、安東から鴨緑江を経て新義州に入国することが禁止(森田252頁) 平安南道 平壌 満州疎開民総本部長桑原英治氏が平安南道人民政治委員会委員長に提出。「八月九日、満蒙の天地、戦乱の巷と化するや、同地に居住せる無辜の民六万は戦禍をさけて西鮮地区に流入いたしたるところ、これら流民は、戦況急に追われ、とるものもとりあえず、わずかに身をもって逃れきたるにかかわらず、現地官民の同情ある処遇により、今日まで平穏なる生活を享有しきたりたるは、われらの感激これに過ぐるものなく候。されど夏季もすぎ、秋気ようやく迫らんとするの候となり、病人続出し、嚢中またようやく枯渇をきたさんとし、われら六万ひとしくその前途に不安を感ずるにいたり候。六万流民は、新政府御当局の人類愛にすがる以外に、生命を保持するの途なきを知り、ここに書類を提出し、特別の御庇護を懇願する次第に御座候。新政府御当局におかれては、われらの窮状を御賢察の上、左記の各項につき、慧ある御取計らいをたまわ。たく願い上げ候」 「(1)六万疎聞民の共同事務を処理するため、平壌に疎開本部を、各要地に支部を設置いたしたるにつき、その活動に対し、積極的に授助を与えられたきこと。 この陳情書は、平安南道人民政治委員会内務委員李周淵氏宛に提出(森田248頁) 釜山 ・朝鮮軍発表「9月2日停戦協定調印後、38度線以南における米軍と朝鮮軍との間の局地協定を開始する」 30日 平安北道 新義州 ソ連軍ナスチャコフ大将が飛行機で新義州に到着。鉄道ホテルに宿泊(森田189頁) 兼二浦 兼二浦日本人会設立(森田142頁)。 咸鏡南道 咸興 朝鮮民族咸鏡南道執行委員会は咸鏡南道人民委員会と改称。事務所は道庁。委員長:都容浩、副委員長:崔明鶴、教育局長:文錫九、財務局長:李鳳洙、行政局長:金済鳳、交通逓信局長:宋成寛、農林局長:張会連、司法局長:趙松坡、人民保護局長:張海友、保険局長:崔明鶴、咸興市長:朴鐘煥(森田172頁) 咸鏡南道警察部高等課調査係主任皆木善男警部が逮捕される(森田173頁) 31日 平安北道 新義州 平安北道臨時人民政治委員会委員長は李裕弼氏、副委員長は白容亀氏・金亀氏。(森田190頁) 平安北道 水豊 水豊発電所接収。(森田191頁) 8月 31日 平安南道 平壌 平壌在住の軍人・軍属約4千名が平壌から4キロ離れた秋乙の陸軍官舎に移動(森田、233頁) 8月 8月末 咸鏡南道 興南 避難民約7千3百名。9月に約2千2百名、10月末に約3百名が興南に到着。(森田243頁) 8月 8月末 咸鏡南道 新幕 8月末に、機関区関係者450名が鉄心寮に、駅関係者150名が大和寮に移動。鉄道関係者以外の450名が甲陽旅館、篠原茂氏一族48名が物産道場に移動(森田、231頁) 9月 1日 平安北道 新義州 終戦直後、日本軍と日本政府行政官庁の機能は、昭和20年9月1日まで機能。 咸鏡南道 興南 日本人世話人会設立。会長は坂口実男氏(府尹)、副会長は長野五助氏(元興南邑長)、速水源治氏(元日窒運輸支店長)。事務所は天機里の大興南食堂。(森田145頁) 平安北道 宣川 宣川日本人世話人会、結成。 慶尚南道 釜山 引揚船第1号「徳寿丸」が出港。軍人軍属2552名、一般人16名。9月3日博多港に到着(森田123頁) 内地人世話人会発足。会長は香椎源太郎、事務局長は池田佐忠氏(釜山臨港鉄道社長)、事務局長は上田耕一郎氏(商工経済会理事)、事業部長は越智章介氏(商工経済会業務部長)、庶務部長は倉地哲(石油会社社員)、調査部長野入英樹氏(商工経済会調査部長)。事務所は本町3丁目慶南商工経済会。(森田141頁) 9月 2日 平安北道 新義州 山地知事・片山警察部長・加藤孫一警務課長・中野秀雄高等警察課長・鎌田茂新義州府尹・神島新吉新義州警察署長・山下秀樹高等法院長・岩城義三郎検事正・井上義昭次席検事・加藤新一鴨江日報社長・宮崎芳亮税務署長・石部刑務所長が逮捕、拘留(森田191頁) 平安北道 龍岩浦 250名が国民学校に、200名が水産学校に集結。11月中旬に国民学校(110名)、花屋旅館(120名)、龍岩寺(50名)、松本洋服店(60名)、越後屋旅館(90名)が収容(森田、236頁) 江原道 春川 ソ連軍30名が来訪。(森田174頁) 黄海道 兼ニ浦 ソ連軍が進駐(森田181頁) 慶尚北道 浦項 慶尚北道警察官および家族を乗せた100トンの船が出港。その後漂流。9月11日に萩港に到着。(森田127頁) 3日 平安南道 鎮南浦 鎮南浦人民政治委員会が結成(森田187頁) 平安南道 亀城 514名が亀城国民学校に収容、そして亜麻会社工場に移動。11月10日に邑内の民家に移動(森田260頁) 江界 ・江界日本人世話人会成立。 4日 平安北道 満浦 在住者1850名が鉄道合宿・満浦館・日満旅館など8カ所に集結(森田、235頁) 平安北道 宣川 約1千6百名(男2百名、婦女子千4百名)が南下列車32両に乗り、平壌を経由して、5日に金郊、6日に会場に到着。しかしソ連軍に阻止され、逆送。しかし興農金庫4百5十名、その他百5十名が南下に成功(森田252頁) 京畿道 東豆川 午後6時ごろに、ソ連軍が進出。(森田175頁) 黄海道 海州 海州と京城間の電話連絡が途絶。 黄海道 兼二浦 兼二浦人民政治委員会結成(委員長は朴来漢)。(森田181頁) 黄海道 沙里院 ソ連軍が進駐(森田181頁) 黄海道 載寧 ・日本人の交通の自由が奪われる。 慶尚南道 釜山 ・米軍機によって「朝鮮民衆に告ぐ」という布告文が撒かれる。 黄海道 長箭 日本人世話会設立。 黄海道 金川 在住者380名が船に乗り、礼成江を下り、京城に到着(森田263頁) 5日 黄海道 兼二浦 兼二浦人民政治委員会が日本製鉄を接収(森田181頁) 6日 咸鏡南道 咸南 宮井咸鏡南道咸南地方法院検事正ほか7名の判事・検事が勾留される(森田173頁) 平安北道 定州 ソ連軍が進駐(森田191頁) 黄海道 南川 約450名が徒歩で南下(森田264頁) 7日 平安南道 平壌 古川知事・平壌府尹らが逮捕され、拘留(森田186頁) 黄海道 海州 海州神社焼失 黄海道 沙里院 9月7,8日、日本軍の武装解除。 9月 8日 咸鏡南道 川内里 全日本人130世帯、535名が小野田セメント社宅に集結(森田、227頁) 釜山 明9月9日午後4時以後、北緯38度以南において日本国旗の掲揚は不可というラジオ放送。 仁川 ・米軍上陸 ・朝鮮人保安隊による示威行動。日本人警察官が朝鮮人2名を射殺。 9日 平安北道 南市 200余名が前川酒造場に集結(森田、236頁) 京畿道 開城 ソ連軍が現金900万円を奪取。(森田176頁) 京畿道 仁川 引揚者第一便が出発 全羅南道 木浦 全羅南道庁は62トンのセメント運搬船2隻を借り入れ、軍人・道庁職員家族を輸送し、9月17日に唐津へ到着。 10日 咸鏡南道 咸興 咸鏡線が再開通(森田172頁) 載寧 38度線以北の日本人生命財産は保証されない」旨の東京放送を聞く。 沙里院 9月10日、沙里院日本人世話人会誕生。会長は松本利雄氏(邑長)、副会長は出水田忠志氏(東拓支店長)。事務所はみかど会館、後に旧料亭双葉(森田142頁)。 京畿道 開城 午前10時15分、米軍の進駐(森田176頁) 日本士官学校出身の朝鮮人が愛国壮丁隊を結成(森田176頁) 京畿道 仁川 ・朝鮮人保安隊による示威行動、市民葬。米国旗、赤色のソ連旗、朝鮮国旗、赤旗、プラカードの波。 11日 平安北道 宣川 ソ連軍進駐。 黄海道 載寧 ソ連軍が進駐(森田181頁) 9月 12日 9月 12日 咸鏡南道 咸興 咸北避難民会約4500名(松岡修二・今村八郎が引率)が咸興駐留ソ連軍司令官の許可を得て、列車で出発。しかし数百名が鉄原で下車し、徒歩で38度線を越える、残りの400名以上が元山駅で下車し、また9月16日に咸興駅に戻ってきた(片山396頁)(森田、240頁) 仁川 ・日本銀行券の通用禁止 13日 黄海道 海州 黄海道の権限が黄海道人民委員会に移譲(森田180頁) 伊坂警察部長、小川登警務課長、森有吉衛生課長、保安課長、高等課次席警部、警部補などが逮捕される(森田180頁) 黄海道 金郊 京義線が金郊から新義州まで再開通(森田181頁) 14日 平安北道 熙川 約900名が鉄道クラブ独身寮に集結(森田、236頁) 咸鏡南道 安岳 347名が邑内の上島家・緑屋・鷹屋に移動(森田、231頁) 咸鏡南道 兼二浦 預金、1420万円。 咸鏡南道 殷栗 在留者150名がたばこ収納所に移動(森田、231頁) 咸鏡南道 咸興 城津在住者および清津からの避難民合計約4千名が到着。咸興の避難民は1万名を超えた(森田、240頁) 黄海道 安岳 ソ連軍が進駐(森田181頁) 京畿道 仁川 米大統領トルーマンが『朝鮮在在(ママ)日本人は放逐する』と言明したとの情報が伝えられ、同胞の神経は益々尖鋭化し、話題はこれに集中した。 15日 咸鏡南道 興南 日本人社宅在住の約3千5百名が水西里・九龍里などの朝鮮人住宅に移動(森田、226頁) 咸鏡南道 咸興 朝鮮人保安官が来訪、日本窒素興南工場日本人住宅からの退去命令。 日本窒素興南工場では、高オクタン価の「イソオクタン」を月産一千キロリットル生産。 平安北道 新義州 新義州に預金600万円。 黄海道 長淵 ソ連軍が進駐(森田181頁) 16日 釜山 ・釜山地方に於けるラジオは全部朝鮮語版となる。 17日 咸鏡南道 咸興 咸鏡北道や満州からの避難民約1万人が咸興駅前に集結(片山396頁) 咸興日本人世話会から咸興保安隊長宛に陳情書提出(森田、240頁) 2千2百名が到着。9月16日に鉄原から2千2百名逆送(森田、240頁) 咸鏡南道 兼二浦 吉田町・東社宅の日鉄4千7百名が三田面にある朝鮮人工員社宅に移動(森田、230頁)。桐ヶ丘住宅など9百名は裳山里の鉄鋼統制会訓練所に移動(森田230頁)。鉄鋼統制会訓練所は兼二浦から東方3キロにある徴用朝鮮人訓練所。 黄海道 海州 『日刊自由黄海』発行 筒井知事、山口内務部長、高平峻財務部長、橋本治吉鉱工部長、安田豊官房主事、海老原食料課長、海州地方法院判事、検事ら逮捕。平壌にあるソ連軍刑務所に収容(森田180頁) 黄海道 兼二浦 建国同志会結成、委員長は日本製鉄兼二浦製鉄病院医師である張錫準氏。建国同志会によるデモ(森田181頁) 9月 17日 平安南道 平壌 満州疎開民本部によると、平壌全避難民の預貯金は朝鮮銀行券3百7十万円、満州銀行券約5百万円、日本銀行券約2百万円、計約千7十万円(森田254頁) 京城 ・米軍政庁一般命令第4号により、来る9月24日からの公立初等学校の再開を指示、凡ての言語は朝鮮語。 18日 19日 咸鏡南道 咸興 鉄原から逆送された2千2百名と、城津から南下した者、合わせて約4千名が咸興駅前広場で野宿。市外の新中里に移動。(森田、241頁) 平安南道 平壌 平壌人民委員会は、避難民生活費として、一人1日、9月19日から三円、10月1日から20日迄二円、10月21日から11月1日迄一円、11月2日から11日迄なし、11月12日から11月末まで一円五〇銭、12月1日から1月10日迄二円五〇銭(森田254頁) 20日 咸鏡南道 興南 湖南里に居住する約3千5百名が興徳里へ、柳亭里に居住する約8千5百名が厚農里へ、本営社宅の約7千名が西本営などへ移動。(森田、227頁) 長箭 ・長箭金融機関は170万円の現金を払い出す。 仁川 ・米軍布告文第1号発布「朝鮮ニ於ケル公私ノ弁済ニ使用シ得ル法貨ハ朝鮮銀行券ナルヲ以テ~~」 9月 21日 咸鏡南道 興南 柳亭里日本人工員社宅が日本軍捕虜収容所なる(森田、227頁) 京城 ・鐘路に張り出してあるビラに見る組織 「高麗同盟、救恤同盟、国民大会準備会、建国準備委員会、建国少年連盟、共産党、人民協進会、建国治安総本部、高麗大学建設本部、法治国内党、党派粛正党、大震党、労働青年同盟、独立義烈団、高麗同志会、学兵同盟、国軍準備隊、在外戦災同胞救済会、正義青年会、大韓民主党、女子国民党、新民朝鮮文化同盟、光復同盟」 22日 22日 咸鏡南道 咸興 咸鏡北道避難民会が米350俵、味噌3トン、明太魚3トンの食料を入手、白米50俵を新中里に輸送(森田、242頁) 京城 朝鮮神宮 8月22日までの決算報告書――87,636,44園 23日 咸鏡南道 咸興 咸鏡南道人民委員会が錦町・本町2丁目居住者220世帯に、本町遊郭一心楼・ほへと・永楽・鈴川に集結させる。(森田、225頁) 9月 24日 咸鏡南道 兼二浦 鉄鋼統制会訓練所がソ連軍に接収され、日本人1475名が三田面工員社宅に移動。その結果、三田面の日本人は、6170名(森田、230頁) 釜山 ・内地より郵便物の配達があった。その日より、内地向けの託送手荷物は積み出し禁止となる。 9月 25日 咸鏡南道 咸興 避難民は、市内1万3834名、郊外に約5千名(森田242頁) 9月 25日 平安北道 寧辺 360名が大和国民学校、若松旅館に集結、その後11月20日に片倉製糸に移動(森田236頁) 咸鏡南道 咸興 新中里の避難民約4千名が咸興に到着。その他約千名の避難民と共に、花咲町の遊郭鈴川・音羽・由良の助などの料亭に収容(森田242頁) 9月 25日 咸鏡南道 長淵 日本人全員530名が国民学校に移動(森田231名) 海州 約1800戸の日本人家屋の接収。 9月 26日 平安南道 平壌 満州疎開民総本部は平壌高等女学校に、その次に若松国民学校(森田246頁) 27日 28日 黄海道 海州 日本人会解散。 29日 黄海道 遂安 遂安鉱山の職員及び家族425名が徒歩で南下し長瑞に脱出(森田264頁) 30日 黄海道 沙里院 9月30日現在、沙里院在住日本人は、643戸、2623名。 9月 咸鏡北道 清津 9月末、咸鏡北道人民委員会設立。初代委員長は李昌仁氏(道会議員、羅津実業家)。(森田163頁) 亀城 9月頃、日本人世話人会が成立するが、独立反対運動と認定され、解散。同じ頃、ソ連軍が進駐。 咸興 昭和20年9月、咸興は、「修羅の巷、餓鬼の町」。当時の避難民、約3万5千名。 元山 ・9月現在、約2万1千名の避難民。 群山 ・2700万円を朝鮮人各種団体に供与 咸鏡南道 高原 在住者509名、避難民52名が東拓農場倉庫2棟(コンクリート120坪)に集結(森田、227頁) 平安北道 江界 9月中旬、陸軍官舎に415名、朝鮮電業社宅3カ所に495名・212名、119名、東邦鉱業社宅に161名、鉄道官舎に634名が集結(森田、235名) 10月 6日 江原道 束草 140名が南下(森田262頁) 10月 8日 平安南道 平壌 北朝鮮五道人民委員会代表大会の開催(森田194頁) 8日 平安北道 北中 三井軽金属楊市工場の日本人従業員が朝鮮人工員住宅へ移動(森田、236頁) 12日 平安南道 平壌 北朝鮮駐留ソ連軍代25軍司令官チスチャコフ大将名の声明書「総ての武装隊を解散し、武器・弾薬・軍用物資を軍衛戌司令官におさめること、保安隊を結成すること」(森田194頁) 13日 平安南道 平壌 平安南道人民政治委員会主催の「金日成将軍歓迎会」開催(森田194頁) 14日 平安南道 平壌 平壌市民衆大会が開かれ、金日成氏が登場(森田194頁) 朝鮮共産党北部朝鮮分局の設立(森田194頁) 10月 15日 米軍による引揚計画輸送が開始(森田126頁) 15日 咸鏡南道 咸興 咸鏡北道避難民会1万6896名、咸鏡南道奥地からの3643名、江原道から逆送された178名、鉄道関係者3732名、合計2万4449名。(森田、243頁) 15日 黄海道 沙里院 10月15日10日間、総数1300名が海州線で南下し、鶴峴駅で下車したのち、38度線を突破した。(森田263頁) 黄海道 黄州 10月15日から18日の間に600名が南下し、後に100名が残った(森田263頁) 18日 江原道 高城 面内移動が許可され、船で東海岸を南下する。(森田262頁) 21日 江原道 束草 27名が船で南下(森田262頁) 10月 25日 慶尚南道 釜山 釜山日本人世話会による8月~10月下旬までの帰帆船による輸送人員を27万4840名(8月4895名、9月10万682名、10月16万9263名)と発表。(森田125頁) 京畿道 仁川 仁川の日本人引揚列車の第一回目が出発(高橋信彦) 高橋信彦「朝鮮の四年間」 http://www.geocities.jp/kgjhaat/page/page_223.html 10月 10月末 咸鏡南道 咸興に約1万7千名、興南に約9千8百名、元山に約7千5百名の避難民(森田、239頁) 11月 1日 咸鏡南道 端川郡 検徳鉱山従業員および家族344名が船で南下し、注文津・竹辺に到着(森田261頁) 11月 8日 咸鏡南道 元山 終戦時に日本人戸数2133戸であったが、接収301戸、同居294戸となる(森田、227頁) 11日 黄海道 長淵 夢金浦近くの海安面吾沙鎮から2003名がジャンクに乗り南下し、11月25日熊本県天草郡大江に入港(森田264頁) 11月 下旬 黄海道 新幕 11月下旬までに在住者千百名の7割が南下(森田264頁) 12月 8日 平安南道 平壌 日本人の家224戸、朝鮮人の家738戸、接収された家2325戸、集団収容所39戸、物置・倉庫64戸に3万6842名が居住(森田、232頁) 12月 13日 咸鏡南道 下岐川面 朝鮮電業関係者(下岐川面真興里・河大里・上通里・上岐河面慶興里)314名は五老里の農民同上へ移動(森田、226頁) 20日 咸鏡南道 新幕 鉄心寮収容者一部と他地区から南下した鉄道関係者180名が益済寮に移動(森田、231頁) 1月 3日 咸鏡南道 新幕 甲陽旅館が共産党本部として接収(森田、231頁) 5月 5日 咸鏡南道 興南 興南府西湖津から一人700円の船賃で闇船に乗船。一行30名。10トンに満たない木造小型漁船、5月6日午後5時頃、38度線を越えたという船頭の言を信じた下船。しかしそこは高城。高城教会に2泊宿泊。5月8日、元高城警察署演武場に移動。そして5月13日、列車で終点襄陽に移動。襄陽では、保安隊建築の建物の土間で仮眠。5月14日、人民委員会幹部の演説「日本帝国主義侵略と侵略者の末路」あり。日本人女性露西亜語通訳有り。元山から日本人共産党員磯谷季治氏・松村儀士男氏ら3名が来訪。その斡旋で、「38度線近くで開墾をする」という名目で移動許可を得る。襄陽から2隻、約40名乗船。注文津に到着。(片山441頁) 5月 10日 咸鏡南道 咸興 咸興発京城行き臨時列車(貨車30輌)が出発。咸興日本人民委員会の斡旋。持参品は、婚家の位牌・不動産権利書・3人の遺髪、5日分の食料。11日に元山到着。5月15日襄陽に向けて出発。38度線の土橋があり、ソ連兵と米兵が両方に歩哨が立つ。3メートルほどの橋であった。注文津に到着(片山4444頁)。 5月 25日 咸鏡南道 咸興 咸興発京城行き臨時列車に日本人避難民約500名乗車し、出発(片山448頁) 26日 咸鏡南道 咸興 咸興発京城行き病院列車が発車、患者185名、医師・看護婦50名、担架輸送車370名。無蓋貨車。咸興から高城を経て、襄陽へ。襄陽から28キロの道を経て、38度線を越える。6月28日に浦賀に到着。NHKラジオ番組あり。(片山450頁) 咸南6261名、興南3043名、元山1303名、その他96名、咸鏡北道1429名、計12131名(昭和20年9月より昭和21年4月)までの死亡者。(片山450頁)咸鏡南道日本人民委員会記録) 9月 17日 咸鏡南道 咸興 午前3時、咸興駅から呂湖に到着。闇船1隻に40名ずつ乗船、約10隻出発。一人1600円。9月20日、38度線を越えて、下船。そこから16キロ徒歩で行き、9月22日に注文津に到着。(片山456頁)
(2)疎開地においては、一時の気運に駆られ、原住民と疎開者との間に、不測の摩擦を生ずるの危険なきにしもあらずと思惟せらるるをもって、疎開民の生命財産の保全については、特別の御配慮を願いたきこと。
(3)疎開者は、満鉄・特殊会社・政府職員・軍人・軍属・市民の家族にして、満州において生産・輸送その他ただちに重要なる任務につくべきものおよび日本内地に親兄弟を有する家族等なるをもって、可及的速やかに満州または日本内地に帰還せしめたきにつき、実情御賢察の上、列車輸送その他につき優先的便宜を与えられたきこと。なお、帰還順位については、疎開本部の意見を参酌せられたきこと。
(4)疎開者に対しては、一月一人平均、百円程度の盆換を認められたきこと。(疎開者総数約六万人なるをもって、一か月六百万円程度を要す。)
(5)疎開者に対する食料品の配給および輸送に関し、特別の便宜をあたえられたきこと。
(6)疎開者の現在居住しつつある学校・寺院・その他公共建造物は、疎砦の現住地帰還までその利用を容認せられたきこと。(7)疎開者用物資にして、輸送途中、治安維持会より暫時輸送を停止せられたるものあるをもって、それぞれ目的先に送達せしむるよう御配慮願いたきこと。(森田247頁)
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