博多港で朝鮮半島への帰還を待つ全羅北道女子勤労挺身隊の少女たち=1945年10月19日撮影 西日本新聞からの転載
博多港で朝鮮半島への帰還を待つ全羅北道女子勤労挺身隊の少女たち=1945年10月19日撮影
【引き揚げの苦難】夢見た朝鮮半島 帰国命懸け
拡大全州市出身 元挺身隊の崔さんに聞く
1枚のモノクロ写真がある。1945年10月19日、福岡市・博多港。鉢巻き姿の女の子たちに笑顔が見える。日本統治下の朝鮮・全羅北道から戦時徴用された「女子勤労挺身(ていしん)隊」100人の集合写真である。
「はっきり覚えてます。撮ったのは乗船前。やっと帰れると思うと、うれしくて」。全羅北道全州市の崔姫順(チェ・ヒスン)さん(83)が当時を振り返った。
崔さんは45年3月、14歳で富山市の軍需工場に動員された。旋盤を扱う重労働に耐え、終戦。2カ月後、一行は汽車で富山を出発した。数日かけて博多に着くと、日本人の軍人が「君たちは全州に帰るのか。俺たちは全州から戻ってきた」と話しかけてきた。
博多港はごった返していた。帰還を待つ朝鮮人たちがいた倉庫に入れず、外で夜を明かした。雨になり、屋根と柱だけの馬小屋に入った。「それでも生きているだけまし。工場では毎晩空襲だったから」。数日後、大型船で出港。引率してきた工場の日本人従業員が手を振って見送った。
終戦当時、日本にいた朝鮮人は200万人以上とされる。このうち46年3月までに約140万人が朝鮮半島に戻った。この中には大阪で生まれ、3歳で終戦を迎えた李明博(イ・ミョンバク)前大統領も含まれる。
しかし、日本の輸送計画は極めて貧弱だった。軍人や崔さんのような徴用者は優先的に乗船できたが、博多港は1万人以上の朝鮮人であふれた。多くは日本の漁船などの「闇船」に頼った。それが悲劇を生む。
45年10月11日、朝鮮人を乗せた船が台風に遭遇した。避難先の長崎県・壱岐で転覆し、168人が死亡。多数の遺体が海岸に漂着した。こうした闇船の遭難や事故の全体像はつかめていない。韓国政府系機関は、渡航中の死者は数千人に上るとみる。
命懸けで帰還した人たちを待っていたのは温かい出迎えだった。崔さんは釜山港でチマ・チョゴリ姿の女性たちからにぎり飯をもらい、自宅に向かった。古里の駅に着くと、母がいた。終戦の日から毎日終電まで、駅で崔さんの帰りを待ち続けていたのだという。
=2014/12/04付 西日本新聞朝刊=



コメント
コメントを投稿