「『敗戦国ニッポン』に帰りたくなかった日本人」                    松原孝俊  

 

「『敗戦国ニッポン』に帰りたくなかった日本人」

                   松原孝俊  

             一

昭和20年(1945)8月15日正午、昭和天皇による終戦の詔勅は、帝国日本の全地域に放送された。難解な語句が続く言葉もそうであったが、それ以上にラジオの受信状態が悪かったために雑音が多すぎて、彼ら「帝国臣民」は玉音放送の聴取が困難を極めたという。笑い話となろうが、

  「難しい言葉遣いと音声のひずみや雑音のために内容はほとんど分からなかった(ので)、本土決戦の覚悟を促す内容だと思った」(平和祈念事業特別基金編『海外引揚者が語り継ぐ労苦』第12巻、平成14年、327頁)

の回想がある。

日本列島のみならず、北は樺太、中国東北部に建国された満州・中国大陸全域、そして朝鮮半島、台湾、さらには南洋庁が位置したパラオ諸島をはじめとする南洋諸島などでも、同一時刻に「皇国臣民」たちに対して、独特の抑揚を持つ天皇の肉声が送り届けられた。信憑性を疑いつつも、すぐに敗戦の報を受け入れた「帝国臣民」も存在した一方で、帝国日本の周辺部では必ずそうではなかったことにも、我々は留意すべきである。例えば、約1万5千名に上るパラオの帝国臣民たち(パラオ人、朝鮮人、日本人など)の大多数は1945年8月15日をバベルダオブ島(いわゆるパラオ本島)で迎えた。彼らは米軍の猛撃を逃れて、島内の密林を逃げ回っていたために、玉音放送を聞くための電気さえもないままの悲惨な生活を送っていた。ましてやラジオがあったはずはない。同年8月末に、多くの帝国日本人は米軍機から散布された降伏を呼びかけるビラによって、初めて敗戦を知ったという。

 満州においても同様に、約150万名に達する一般人たちの多くは、玉音放送を耳にする精神的、時間的余裕などは全くなかった。1945年8月9日にソ連が日ソ中立条約の一方的に破棄したことと、「一億玉砕」などの美名を宣布しつづけた関東軍の敵前逃亡によって、日本から渡満した開拓民や民間人らは、ソ連軍の怒濤の進軍を前にして、ひたすら逃げまどうだけであった。悲惨な難民は満州全土に出現した。「五族協和」を信じた満州居住日本人の多くは、満足な食糧・宿泊場所さえないままに、徒歩であるいは無蓋貨車で避難生活を続けたために、衣装も靴もボロボロの姿と変わり果てた中で、8月15日を迎えていたと考えて良い。さらには、日本人避難民にむかって、マンドリン型自動小銃を突きつけながら「ヤポンスキー、マダム、ダワイ(日本人の女を出せ)」と要求するソ連兵によって、「敗戦国」の屈辱をイヤと言うほど味わった日であったと語る人も多い。

 朝鮮半島においても、38度線以北においては、事情は全く同一であった。早々に南下した朝鮮軍関係者や警察関係者などとは異なり、約40万人の一般人はソ連軍の進駐を迎えながら、こともあろうに地獄絵図が待っている満州に逆したり、あるいは厳冬の山間に向かって逃亡するなど、まったく良質な情報を欠いたままに、宛もなく流浪をするだけであった。ましてやソ連軍が囚人兵を主体に構成されているという噂が流布したばかりではなく、目の前でソ連軍兵士による日本人婦女子に対する凌辱を数多く見たために、恐怖のどん底に落とされてしまった。逃げまどう日本人の行列に、朝鮮人から石を投げられる日が8月15日であったともいう。

 朝鮮半島38度線以南では、8月15日は驚くべき程静かな一日であった。約42万人の人々は敗戦を知ることで、呆然自失の精神状態に落ち込みながら職場で、学校で、家庭などで、当惑しながら未来に対する漠然とした絶望と悲劇を感じていた。釜山に居住する、

時代に目敏い人の何人かは、玉音放送の翌々日に日本に帰国する機帆船をしたてて、家財道具を満載し、早々に日本に立ち戻ったという。

 台湾では、日本人・「本島人」の大多数が玉音放送を耳にし、瞬時に敗戦を知るものの、その後に激変する環境になかった。「旧ク如ク、敗戦、無条件降伏ノ姿全クナシ」というほどに、台湾総督府の統治機能が維持されたので、約30万人の日本人らは比較的穏健な生活を送っていた。そして生命財産を奪われ、流浪することもなくして、日本人たちは本土への引揚の日を迎えたのであった。

 もっとも最悪であったのは、千島列島であった。玉音放送で敗戦を知ったものの、島外に逃げ出すにはソ連軍の艦船が取り囲んでおり、殆ど不可能であった。ソ連軍が千島列島を占拠する9月3日まで、艦砲射撃に耐えながら狭隘な島内で日本人は身を隠すしか手だてがなかった。

 このように帝国日本における臣民たち(日本人、「半島人」、「本島人」など)の8月15日は、決して一様ではなかった。たとえ食糧難が当面の緊急課題であったにせよ、カーキ色の戦闘服を脱ぎ捨て、「一億玉砕」「鬼畜米英」などのスローガンから開放され、B29の空襲を逃れるために防空壕に入ることもなくなった「内地」に比べて、「外地」の日本人たちは、台湾を除けば、無法地帯に身を置き、流浪・強奪・レイプ・食糧難・寒さ・感染症・過酷な労働・物価の高騰、敵産家屋の撤収などに塗炭の苦しめを受け、もはや安逸な日々などは望むべきもなかった。

 かって、私たちは、8月15日を境にして激変した環境を、

  1,皇居前で跪いて謝罪する臣民の姿

  2,立ち上がった生徒が黒く塗りつぶした教科書を読む教室風景

  3,引揚船から降り立った引揚者たちにDDTを振りかける米軍兵士

などの画像イメージがフラッシュのように刻印され、回復した平和と民主主義

が人々の脳裏に刷り込まれていった。街頭や波止場には、サトウハチローの「リ

ンゴの歌」が口ずさまれ、自由を謳歌する戦後と強圧な戦争空間に脅えていた

戦前とが鮮明に対比されつつ、人々の戦後はスタートした。

 8月15日を期にして、約870万人の日本人による大移動が始まった。引

き揚げ船・引揚者住宅・引揚列車・故郷の親族宅などへの寄留、食糧難、引揚

者による就職活動・学校復帰などが深刻な社会問題化していたが、その一方で

惨めで絶望・失意・凡ての尊厳さえも奪われた壮絶な脱出劇の実相が満州引揚

者の口語りで、さらには例えば藤原テイ著『流れる星は生きている』(日比谷出

版社、1949年)などの引揚体験をノンフィクションにした書籍が数多く刊行さ

れることによって、広く日本人の涙を誘った。

          

              

 本研究プロジェクトの関心は、二つある。その一つは「『敗戦国』ニッポンに帰りたくなかった日本人」にあり、もう一つは「帝国日本が崩壊した直後の、米軍政庁による統治が始まるまでの『真空』地帯となった時期の朝鮮半島の歴史的考察」にある。

 一見して、この二つのテーマは無関係のように思えるが、帝国日本の周辺部において、国民国家「日本」は一枚岩であっただろうかという疑問の上に提出されていることを明示しておきたい。換言すれば、外地で出生し、その地で教育を受け、多くの友人がいて、職場を持ち、結婚をし、家族の墓地が存在する場所は、彼らの「故郷」にほかならない。その外地に愛着を覚え、ノスタルジーを感じ、執着心を持つ反面、たとえ両親の故郷である内地であろうとも、その内地にまったく愛着心を持たない場合、外地生まれの「デラシネ」たちは、両親の故郷を我が故郷と感じるだろうか。錦の御旗を揚げたいと考えて渡韓した両親たちと異なり、その外地で生まれ、育った子供たちの世代には、帰るべき故郷を持たず、親が懐かしむ方言や郷土料理や親族などの郷愁を呼び起こす心理的装置はそもそも存在しなかった。

 それが正しい議論の前提であるとすれば、帝国日本が外に膨張すればするほど、内地に比して、外地(周辺)に生まれ育った日本人の心性は大きく変貌を遂げたに違いない。誤解を恐れないで言えば、稚拙な比喩であるものの、ローマ帝国に於けるスコットランド支配、イギリス帝国に於ける南アメリカ、モンゴル帝国の黒海沿岸諸国支配などを思い出せば、その理解は容易ではないだろうか。とはいえ、念のために言及したいが、在日Koreanがそうであるとまで強弁するつもりはない。在日Koreanの事例は、近い将来、詳細に論じる予定である。

 

 

               三

 周知のように、「『敗戦国』ニッポンに帰りたくなかった日本人」は何も珍しいテーマではけっしてない。むしろ世間に広く知られたテーマでもあり、「『敗戦国』ニッポンに帰られなかった日本人」でもあったので、例えば残留日本人妻の会員組織「芙蓉会」や、身寄りを無くした日本人妻たちの老後を介護する「慶州ナザレ園」などは、テレビや映画、雑誌などで古くから紹介されてきた(慶州ナザレ園 忘れられた日本人妻たち』 上坂冬子・著 中央公論社 1982年など)

 1945年8月15日以前に韓国人男性と結婚した日本人妻に対する関心が薄いというわけではなく、むしろ1980年に入り、私自身が「芙蓉会」の方々との交友が生まれた後は、その強い関心は今なお失われていない。そうではあっても、此処で生まれる当然な疑問は、「『敗戦国』ニッポンに帰りたくなかった日本人」は、はたして彼女たち日本人妻だけであったのかということである。

 すでに矢内原忠雄は第2次大戦後の国際政治をめぐる論文の中で、

第2次大戦の戦後処理は第1次大戦と比較して国際問題の処理が後退していると言う前提で、

  「アジア諸地域に在住していた日本人が、戦争の結果として一層敵に退去帰国を命令された。それらの中には日本帝国主義の積極的推進者とみなされる者もいたであろうが、また永年平和的に居住してその地に生活の本拠をもち、住民と平和的関係において私的に生活して来た者も少くない。しかるに人たるが故にすべて強制立退の実行されたことは、いかに日本の戦争行為に対する反感とはいえ、すでに戦争の終わった後の処置としては、国際平和の原則から見て行きすぎた民族的憎悪のあらわれといわざるを得ない」(「矢内原忠雄全集」第20巻、13-14頁、岩波書店、1964年)

と論じている。我が問題関心と基本的なスタンスは、全く同一である。

残留希望1.jpg

(出典:森田芳夫・長田かな子編『朝鮮終戦の記録』第2巻、厳南堂書店、12頁、昭和55年)

 

 さて、この表は、京城など各地に設立された日本人世話人会が、1945年

12月29日現在の在朝鮮日本人の人口把握を目的に作成したが、注目すべき

は残留希望者の数である。この段階でさえ、朝鮮半島38度線以南の地に、1、

385名の日本人が残留を希望していた事実である。このように記述すると、

識者からは、米軍政府が朝鮮半島に残留を許可した「韓国人男性と国際結婚を

した日本人妻」の数に過ぎないという指摘を受けるはずである。確かに、その

日本人妻の数も含まれていると推測しているが、必ずしもそれだけではないは

ずである。仮にそうであったとすれば、編者の森田芳夫は、その旨を明記した

に違いない。

 それでは視点を変えて、日本国内で刊行された新聞記事を紹介することで、

「内地」向けに報道された、1945年8月15日以降の在朝鮮日本人の意識動向を知る手掛かりの一助としたい。

   「虚心坦懐 踏止まれーー台湾・朝鮮の在住邦人」

「ポツダム宣言はわが領土の処分に関しカイロ宣言の諸事項を実施し、

      一 満州、台湾、ホウコ島は中華民国に返還すること

    一 朝鮮はこれを自由且つ独立のものたらしめること

を明らかにしてゐるのでわが外地統治は朝鮮において三十六年、台湾は五十一年の歴史をもって終止符を印することとなった、しかして、現在朝鮮には約八十万、台湾には約四十万の邦人が居住多年にわたって政治、経済、文化の諸部門を通じ根強い基盤を有してをり早急に引揚その他の措置に出ることは徒に混乱を招くのみで朝鮮、台湾の現状からしても到底忍び得ざること明らかである、政治色には勿論現地総督府はやはて解消を遂げるであらうが経済的、技術的部門における邦人の寄与は極めて有力であり且つ国際法に基くこれら在住邦人の私有財産は些かの変動も見せない性質のものである、従ってこの間何んらの杞憂を必要としないのみならず当局としては寧ろこれら外地在住邦人が多年踏み止まって国際信義に基き共栄のために虚心坦懐以て新事態に大書すべきであるとしてゐる。」(『西日本新聞』

     昭和20年8月25日附記事)

 この記事は、西日本新聞京城支局から送信されてきた記事であり、昭和20

年8月25日段階の在朝日本人の揺れ動く心境、つまり帰国か残留かという迷

いに対して、当局(米軍政庁、昭和20年9月9日設立)の指示として、朝鮮

半島における朝鮮人と日本人が「共存共栄」の道を探るべきだとある。しか「国

際法に基くこれら在住邦人の私有財産」は保証されるとも報道されたので、「外

地」に親族や知人を残していた多くの日本人たちは、在朝日本人たちに対する

「現地定着」政策が実施されたと理解しただろう。

 すでに加藤聖文の指摘にあるように、この事実は、昭和20年8月14日発、

大東亜大臣東郷茂徳の名で送られた訓令(暗号第716号)の中に明瞭である。

  「居留民に対する措置

    一、一般方針

     (イ)帝国が今次措置を採るの已むなきに至りたる事情に付周到懇切に従ひ冷静沈着皇国民として恥ずるなき態度をもって時艱に善処する如く指導す

      (ロ)居留民は出来得る限り定着の方針を執る

          (中略)

      (チ)本島人及半島人に対する措置としては追て何等の指示あるまでは従来通りとし虐待等の処置なき様留意す」

     (加藤聖文「歴史としての引揚」『引揚60周年記念誌』

      国際善隣協会、平成19年、10頁)

この訓令に符合するからでもある。翌日の玉音放送後を待つまでもなく、敗戦後の基本方針として、日本政府は密かに「在留邦人の現地定着」政策の実施を指令していた。

 それでは、現地の在留邦人はどうであっただろうか。その事例として、比較的に資料残存状態の良い仁川府を取り上げることとする。

昭和20年8月21日設立された仁川日本人世話人会の前身である準備委員会において、議論されたことは、

  「さて主導者としての構想は、招来の居留民会を前提として、残留を希望するものを中心として組織される日本人会でなければならぬということである。則ち単に引揚をのみ目標とする組織でなかった。あくまで踏止まる人々を対象としていた」(森田芳夫・長田かな子、前掲書、210頁)。

その基本方針は、

「1,我等は前途と再建設あるのみ、後退を欲せず。

2,我等は祖国の復興と興隆のため、海外の第一線に踏み留まる。

3,残留することにより、祖国民の苦痛を少しでも緩和し得る」(森田芳夫・長田かな子、前掲書、210頁)

であった。

 さらには、昭和20年8月22日附け、仁川府庁の名で発表された内地引揚輸送計画書には、

   「内地人はなるべき在鮮し、新政府の育成に協力すべきこと」

   (森田芳夫・長田かな子、前掲書、206頁)

ともあった。その4日後に設立された仁川日本人世話人会発足式において、

   「終戦直後、引揚希望者と残留決心者が出来た。出会う毎に交わす挨拶は、『帰りますか』と言う言葉であった。引揚者の関心点は、一体いつ帰れるのか、一日でも居りたくないというのが、其の絶対的な心理であった。雄々しくも踏み留まろうと決心する残留希望者達は、果たして残留が可能であるという見通しはないが、ただ常識的に、海外の居留民として一組織のもとに生活が出来ると想像するのみである。この異なった両者の気持ちや行方には、大きな開きが出来たのでは当然である。処が世話人会の幹部は殆どが残留決心者であったので、世話人会の使命は、来るべき居留地建設にあるとして、この構想のもとに世話人会の運営がなされねばならぬとした。引揚者の荷物、預託事務、不動産売買事務、日本人財産管理等は皆その道程であって、総合病院の開設、小学校の設置と授業開始等はこの構想の実現の一つであって、居留民団組織の前提とした。」(森田芳夫・長田かな子、前掲書、232-234頁)

という。

 次に、当時、朝鮮に在住していた人々の体験記に、現地定着への期待を探す

こととしたい。

   「朝鮮生まれの朝鮮育ち成るが故に、母国とはいえ、日本内地によるべき本当の故郷を持たず、物心ともに全くの異邦人のような存在」

であり、

「日本人の『租界』のようなものが出来て、希望者は残留が認められると行いったうわさが流れ、もしそうなら残ってもよいという両親の考えのようでした」

 (平和祈念事業特別基金編『海外引揚者が語り継ぐ労苦』第5巻、平成7年、369頁)

 別な引揚者の体験では、

    「父は朝鮮の土になると決めていた、おれは京城に骨を埋める」(平和祈念事業特別基金編『海外引揚者が語り継ぐ労苦』第2巻、平成4年、334頁)

よもや、米軍政庁からの法令33号「朝鮮内の日本人財産に対する権利の取

得に関する件」(1945年12月6日附け)によって、

    「凡ての金銀、白金、通貨、証券、銀行勘定、債権、有価証券、又其の形態種類を問わず、本指揮下にある他の全財産、日本政府、又其の代弁機関、個人会社、組合、協会、日本政府により直接間接、全体、又一部を所有または管理されている1945年8月9日以後の収入は、凡て1945年9月25日より朝鮮軍政庁に帰し、かくの如き凡ての財産は、朝鮮軍政庁により所有せらるるものなり。朝鮮軍政庁の許可なくして、財産を侵し又は所有し、又は移転し、其の価値を害する事は不法行為なり」

    (森田芳夫・長田かな子、前掲書、226頁)

が命令されるとは、在朝日本人の大多数は想像だにしなかったはずである。今

の時点から、それを甘い期待であると切り捨てることは容易であるが、朝鮮半

島に残留し、朝鮮国の再建に貢献し、さらには日本人居留民団を組織すること

で、自らの権益確保が可能である信じていた日本人への最後通牒となった。

 とはいえ、「内地」の日本人たちは、次の新聞報道によって、朝鮮半島への残

留や日本人居留民団の設立が不可能であると知らされていた。

 

  「朝鮮から邦人移送[ワシントン12日発同盟]トルーマン大統領は12日の記者会見で、次の通り表明した。『日本人は出来るだけ速やかに朝鮮から日本本土へ移されることにならう。朝鮮には暫く日本人官吏を置くことに決定した。朝鮮に対する米の政策は近く鮮明されうことにならう』(『西日本新聞』昭和20年9月14日附)

 

  「朝鮮建設始る ト大統領声明 [ロンドン18日発BBC同盟]ワシントン来電によれば、トルーマン大統領は18日次のように語った。朝鮮□□(紙面不鮮明)□□ることについては米国、英国、ソ連、支那の四カ国の意見は一致してゐる。今や朝鮮人の服従は終わり、日本の財閥は排除されつつある、日本人を一時的にこの地位に留めてゐるのは彼らが技術的に必要であるからだ。米国、支那、ソ連の援助によって偉大な国家としての朝鮮の建築は開始されたが、自由な独立国家の建立は朝鮮人の責任である朝鮮の経済および政治生活に関する日本の統治を全面的に払拭するには当然時日と忍耐が必要であらう」(『西日本新聞』昭和20年9月19日附)

 当然に予測されるのは、敗戦にうちひしがれた在留邦人の身勝手な願望が、

朝鮮に残留し、定着し、居留民化すると考えただろうという指摘である。その

指摘に同意しつつも、むしろ注意すべきは、日本政府側の甘い観測である。上

掲した矢内原忠雄の論が代表するように、国際法や当時の国際関係に照らし合

わせれば、米軍政庁によって、在留邦人の現地定着と財産保護が許諾されると

いう観測であった。それを裏付けるように、日本内務省は、昭和20年8月1

9日付で、「朝鮮、台湾及樺太ニ関スル前後措置要領(案)」を作成し、

   「朝鮮、台湾及樺太ニ在住スル内地人ハ大詔ヲ奉載シ沈着冷静大国民ノ襟度ヲ以テ事ニ処シ過去統治ノ成果ニ顧ミ招来ニ稽ヘ出来ル限リ現地ニ於テ共存親和ノ実ヲ挙グベク忍苦努力スルヲ以テ第一義タラシムルモノトス」

と発令した(昭和20年8月31日)。いかに日本の外交戦略が甘い期待の上に

構築されたかを明白に提示する文面であるが、国際社会の冷酷な現実は、その

期待を完全に裏切り結果となった。そうした期待の線上にあった在留邦人だけ

が、一方的に指弾されるわけに行かない。ましてや食糧難や住宅難であるとい

う内地の悲惨な現状が伝われば伝わるほどに、敗戦によって統制経済が廃止さ

れた結果、米などの食糧が大量に放出され、お金さえあれば何でも入手できた

朝鮮であっただけに、それでも妻子と共に内地に帰る決心が付いただろうか。

 むしろ我々が注目すべきは、「内地」の日本人とは異なるタイプの「外地」型日本人が出現していたことである。帝国日本の周辺には、単一民族で構成される「内地」とは別な空間である、多民族で構成される「外地」空間が成立していただけに、日本民族以外の民族との共存は当然であった。むしろ単一民族の中で生活すること自体が不自然であると認識されていたと言えよう。加えて郷土愛が芽生え、財産権も生じ、生存する基盤を有していただけに、多民族・多文化社会の中に身を置くことは、彼ら在留邦人にとって嫌悪ではなかった。

 元在留邦人たちに、引揚者と呼べば叱責されるのも、彼らには早くから「帰還者」意識が定着していたからであろう。

 

            四

 

 さて、本プロジェクトのもう一つの問題関心である「帝国日本が崩壊した直後の、米軍政庁による統治が始まるまでの『真空』地帯」に関して、その研究の背景を記述しておく。

 すでに韓国の公休日に組み込まれた8月15日は、韓国民にとって「光復」節と呼称されており、その日を境に朝鮮半島の統治権が朝鮮総督府から韓国民に移譲されたという。それを祝福するデモ、つまり全国に於いて太極旗を振りかざし、統治権を奪還した勝利で笑顔満面の人々によって、独立記念パレードが8月15日に行われたという。この言説がいつから、誰によって広められたか不明であるが、1980年代の教科書にその記述が認められるので、その頃から急速に広まった言説であろう(その一例は、韓国KBS制作のドキュメンタリー『韓国現代史』を掲示するだけで十分な証明となろう)。

 ここで、日本人の記憶に残る1945年8月15日以降の歴史を時系列的に記述しておこう。用いる資料は公文書を中心とした正史編纂スタイルではなく、むしろ日本人引揚者の記憶に残る出来事と僅かに記録されたメモを中心として、もはや二度と編纂されるはずもない朝鮮半島38度線以北に生きた日本人引揚者たちの歴史を辿りたい。その記憶やメモには、食糧難と発疹チフスやコレラなど疫病の猖獗、38度線越えの苦難の避難行ゆえに地獄絵図でも描ききれない悲劇が満ちている。なお、京城に関しては、本報告書別冊で「京城日本人世話人会報」(第1号~第100号)を載録している。それ以上の情報量を持つ報告書がない以上、会報を一覧するだけで多くの事実を知るだろう。ただし、京城に関しても、一部を記載している。

「朝鮮半島史:1945年8月8日~9月30日

    ---  在朝日本人の立場から ---            

(1)1945年8月8日,

1,清津

  ・深夜、ソ連軍の攻撃。

朝鮮総督府交通局清津埠頭局:事務所の書類・印鑑などを焼却

2,羅津

  ・満鉄羅津埠頭旅客係:ソ連機による空襲。羅津から撫順へ逃避。

 

(2)1945年8月9日

1,清津

  ・ソ連軍の爆撃

2,羅津

  ・ソ連軍の爆撃。日本軍と満鉄関係者は、列車で避難開始。

3, 雄基

89日午前9時から、ソ連軍が雄基市内を砲撃。89日、日本軍退却。

4,羅南

   ・ラジオ放送が途絶。朱乙温泉に白系ロシア人ヤンコフスキー伯爵一家在住。脱出ルートは3。第1は、咸興→本山→鉄原→京城(内陸ルート)、第2は、咸興→元山→襄陽→注文津(日本海沿岸ルート)、第3は、咸興→興南→海路→注文津(海上ルート)。

 

(3)1945年8月10日

1,羅津

・ソ連軍が上陸。

2,清津

  ・交通局清津駅勤務家族:清津から元山へ避難(815日以降、元山から京城へ)

 

(4)1945年8月11日

1,海州

・朝鮮総督府警備課の短波で講和条約の報を知る。

2,宣川

  ・満州からの疎開者2347名到着。

(5)1945年8月12日

 

(6)1945年8月13日

 1,羅南

・避難列車出発―午前12時30分発鏡城駅発、16日午前4時30分、明川駅着 、17日午前4時吉州駅着、17日午後5時城津駅着、20日午後12時30分城津駅発、21日午後1時30分京城駅着

 2,清津

  ・清津から城津へ避難列車。815日、城津から平壌へ。816日、平壌から京城へ汽車で避難。

   ・ソ連軍が清津港に上陸

 

(7)1945年8月14日

 1,海州

・同盟通信海州支局に終戦の確報が届く。

 2,清津

  ・羅南駅から最後の避難列車が発車

 3,仁川

   ・8月15日正午に重大放送があると予告。

 

(8)1945年8月15日

 1,海州

   ・午前4時、同盟通信から黄海道庁に伝わる。同日午前8時、朝鮮軍に、暗号電報。同日午前9時、朝鮮総督府から道庁首脳部に伝わる。正午、玉音放送。

・同日、日本語新聞『黄海日報』終刊。

 2,咸興

   ・玉音放送。「終戦に関する天皇陛下のお言葉は、むしろ安堵感さえ与えてくださった」。咸興日本軍司令部より「咸興在留邦人の生命、財産は軍が保証し、日本に安全に帰国させる」との布告

 3,秋乙

   ・正午、玉音放送は雑音のみ。午後2時、解散式。

 4,安岳

   ・平穏

 

 5,郭山

   ・正午、玉音放送。

 6,亀城

   ・正午、玉音放送

 7,沙里院

   ・玉音放送を聞く。日本人は悲嘆にくれた。朝鮮人側は独立を祝福して万歳を叫んで町を練り歩き、日本人に対する感情も悪化してきた。終戦後2,3日して沙里院神社が焼失。

 8,載寧

   ・正午、玉音放送

 9,宣川

   ・正午、玉音放送

 10,鎭南浦

   ・玉音放送を聞く。「内容を十分理解できぬまま放送終了」。8月15日、多数の朝鮮人が「マンセーイ、マンセーイ」と開放の喜びを表現した行進。「難しい言葉遣いと音声のひずみや雑音のために内容はほとんど分からなかった」、「本土決戦の覚悟を促す内容だと思った」「(鎭南浦)街の中心部では朝鮮人の大集団が日の丸を加工した太極旗を掲げて『マンセーマンセー』と叫んで練り歩いた」

 11,文川

   ・正午、玉音放送。「午後になって町中のあっちこっちから沸きあがった。『ジョソンドクリツマンセイ、マンセイ』と言う。太極旗や赤旗を振る。

 12,南市

   ・正午、玉音放送。満州公主峰在住軍人家族到着。

 13,元山

   ・正午、玉音放送。「何時の間二かにか用意したのか赤旗と朝鮮旗を両手に持った朝鮮人が『マンセイ、マンセイ』叫びながらうごめきながら道に溢れ、朝鮮だけがお祭りのようにざわめきながら日本人は一歩も外に出られない」

 14,平壌

   ・正午、玉音放送。

   ・朝鮮人によって、日本語の使用が禁じられた。

   ・すべての日本行政機関などが機能停止

 15,京城

   ・正午、京城中学のグランドで全校生徒が整列する中を、雑音でほとんど意味を解し得ない終戦の詔勅がラジオ放送され、校長先生より戦争が終わったことを聞かされた。

   ・終戦の詔勅が放送されたのに、市街地は深夜に至るまで意外なほどに静寂な一日だった。

 16,清州

   ・ラジオ放送を聞いた先生から終戦を聞く。「帰路途中で一軍の朝鮮人たちに会いました、今になって考えれば独立回復の祝賀でもだったのですが、『マンセイ』の歓喜と共に、あの巴のデザインの国旗が打ち振られていました。

 17,鉄原

   ・正午、玉音放送。

 18,釜山

   ・正午、玉音放送を聞く。「内容を十分理解できぬまな放送終了」。多数の朝鮮人が「マンセーイ、マンセーイ」と開放の喜びを表現した行進。

   ・午前6時に重大ニュース発表と予告。正午、玉音放送。

 19,木浦

   ・終戦の詔勅、街は騒然となった。「日本の警察安泰なり」と空よりビラ。

 20,仁川

   ・玉音放送

 

(9)1945年8月16日

 1,海州

・朝鮮人デモが始まる。8月16日、海州神社昇神式。

 2,安岳

   ・夕刻、暴民起きる。夜、安岳神社焼き討ち。

 3,亀城

   ・朝鮮人による独立祝賀行列

 4,咸興

   ・朝鮮人による民衆デモ

 5,興南

   ・朝鮮人独立祝賀行列

 6,宣川

   ・独立運動のデモ

 7,定州

   ・定州神社焼失。独立万歳を叫びデモ行進。

 

 8,南市

   ・神社焼失

 9,江界

   ・江界神社焼失。

 9,京城

   ・早朝から京城の街という街、通りという通りは昨日までとは一変し、人の波で埋まっていた。人々は是まで見たこともない太極旗や赤旗を掲げて口々に叫んでいた。『ジョソンドクリツマンセイ、ジョソンヒャグションマンセイ』。

   ・朝鮮神宮の神儀の遷座――・本多課長、高松所長

   ・朝鮮神宮の御宝物―飛行機便にて京城から東京へ

 10,全州

   ・早朝全職員出校が伝達された。日本人職員は国旗やその他重要書類の焼却作業を手際よく済ませて即時解散した。

 11,釜山

   ・京城電気前に朝鮮民衆の示威運動

 12,全南裡里梨坪面

   ・朝に「日の丸の赤の半分を濃紺で二つ色に塗り、四場に点々ををつけた太極旗という旗が家々に林立」

 13、平壌

   ・8月16日か、17日に平壌発釜山行きの最後の列車が出発。

 

(10)1945年8月17日

 1,海州

   ・刑務所から政治犯や経済犯が釈放。同日、建国準備委員会設立。同日、在海州日本人会設立。同日、道内各地に警備電話を通して、日本人会結成を命じる。

 2,兼二浦

   ・朝鮮建国兼二浦同志会結成。建国万歳デモ

 3,載寧

   ・デマが乱れ飛ぶ。

 4,元山

   ・清津府庁の家族約200名が到着。

 5,仁川

   ・午後3時頃、朝鮮総督府水田財務局長談話(日本人の預金は、郵便局に預金するか、日本に送金すべし)

     ・午後4時、仁川神社ご神体を処分

     ・朝鮮人は街頭に集合、独立万歳を連呼しつつ、狂喜乱舞する。

     ・朝鮮人治安自治会設立(自治会長は、金容圭氏、府会議員、西京町会長)

 

(11)1945年8月18日

 1,海州

   ・朝鮮語版新聞『特報』刊行(同年9月初めに『自由黄海日報』、同年9月17日に『日刊自由黄海』)。

 2,宣川

・宣川神社焼失。

 3,定州

   ・定州の行政・経済の権力が日本人から朝鮮人へ。接収された預金、約3000万円。

 

(12)1945年8月19日

 1,元山

   ・ソ連軍が元山占領。

 2,宣川

   ・宣川治安委員会成立。

 3,鉄原

   ・日本人救助委員会設立、

 4,京城

   ・朝鮮神宮焼却

 5,群山

   ・日本人世話人会成立

 

(12)1945年8月20日

 

(13)1945年8月21日

 1,元山

   ・ソ連軍、進駐。

 2,咸興

   ・ソ連軍が咸興占領。

 3,釜山

   ・引揚者第一便出発。興安丸。

 

 4,仁川

   ・朝鮮軍司令部の命により、引揚準備を開始

     ・仁川日本人会組織準備委員会発議(仁川神社)

 

(14)1945年8月22日

 1,元山

   ・ソ連上陸用船艇にてソ連兵が上陸。大村鎌次郎氏経営の製材工場は、従業員であった林が経営権を奪う。

 2,仁川

   ・仁川府庁による内地引揚輸送計画書および釜山丸引揚計画発表

 

(15)1945年8月23日

 1,兼二浦

   ・兼二浦内地会結成。

 2,咸興

   ・日本軍の完全武装解除

 3,仁川

   ・海上航行禁止令が米軍により発布

 

(16)1945年8月24日

 1,京城

・朝鮮神宮の御御霊代を京城飛行場から東京へ移送

 

 

(17)1945年8月25日

 1,郭山

   ・京城駅から列車、郭山へ北上。郭山に成立した各種政治団体「民主党・労働党、天道教青友党、民主青年同盟、農民組合、北朝鮮農民連盟、女性同盟、朝鮮文化協会、反日闘志後援会、仏教連合総務院、社会科学研究所などの支部」

 2,咸興

   ・朝鮮民族執行委員会が行政権を掌握

 3,仁川

   ・仁川日本人会組織準備委員会発足

 

 

(18)1945年8月26日

 1,海州

   ・日本人らは、海州金融機関に3000万円。

 2,兼二浦

   ・兼二浦駐在警備隊が避難、住民は放置。

 3,仁川

   ・仁川日本人世話会設立(会長は、加藤平太郎朝鮮精米社長)

 

(19)1945年8月27日

 1,南市

   ・日本人の権利は凡て剥奪される。

 2,沙里院

   ・沙里院憲兵隊員・警察官らが南下。住民は、放置。

 3,新義州

   ・日本人世話人成立。

 4,咸興

   ・日本人世話人会成立。

 

(20)1945年8月28日

 1,仁川

   ・仁川府会議員懇談会開催

 

(21)1945年8月29日

 1,咸興

   ・咸興日本人世話人会成立。在留日本人35000名。

 2,釜山

   ・朝鮮軍発表「9月2日停戦協定調印後、38度線以南における米軍と朝鮮軍との間の局地協定を開始する」

 

(22)1945年8月30日

 

(23)1945年8月31日

 

(24)1945年9月1日

 1,新義州

   ・終戦直後、日本軍と日本政府行政官庁の機能は、昭和2091日まで機能。

 2,宣川

   ・宣川日本人世話人会。

 

(25)1945年9月2日

 

(26)1945年9月3日

 1,江界

   ・江界日本人世話人会成立。

 

(27)1945年9月4日

 1,海州

   ・海州と京城間の電話連絡が途絶。

 2,載寧

   ・日本人の交通の自由が奪われる。

 3,釜山

   ・米軍機によって「朝鮮民衆に告ぐ」という布告文が撒かれる。

 4,長箭

   ・日本人世話会設立。

 

(28)1945年9月5日

 

(29)1945年9月6日

 

(30)1945年9月7日

 1,海州

   ・海州神社焼失

 2,沙里院

   ・9月7,8日、日本軍の武装解除。

 

(31)1945年9月8日

 1,釜山

   ・明9月9日午後4時以後、北緯38度以南において日本国旗の掲揚は不可というラジオ放送。

 2,仁川

   ・米軍上陸

   ・朝鮮人保安隊による示威行動。日本人警察官が朝鮮人2名を射殺。

 

(32)1945年9月9日

 1,仁川

   ・引揚者第一便が出発

 

(33)1945年9月10日

 1,載寧

   ・「38度線以北の日本人生命財産は保証されない」旨の東京放送を聞く。

 2,沙里院

   ・9月10日、沙里院日本人世話人会誕生。

 3,仁川

   ・朝鮮人保安隊による示威行動、市民葬。米国旗、赤色のソ連旗、朝鮮国旗、赤旗、プラカードの波。

 

(34)1945年9月11日

 1,宣川

   ・ソ連軍進駐。

 

(35)1945年9月12日

 1,仁川

   ・日本銀行券の通用禁止

 

(36)1945年9月13日

 

(37)1945年9月14日 

 1,兼二浦

   ・預金、1420万円。

 2,仁川

   ・米大統領トルーマンが『朝鮮在在(ママ)日本人は放逐する』と言明したとの情報が伝えられ、同胞の神経は益々尖鋭化し、話題はこれに集中した。

 

(38)1945年9月15日

 1,興南

   ・朝鮮人保安官が来訪、日本窒素興南工場日本人住宅からの退去命令。

 2,新義州

   ・新義州に預金600万円。

 

(39)1945年9月16日

 1,釜山

   ・釜山地方に於けるラジオは全部朝鮮語版となる。

 

(40)1945年9月17日

 1,海州

   ・『日刊自由黄海』発行

 2,京城

   ・米軍政庁一般命令第4号により、来る9月24日からの公立初等学校の再開を指示、凡ての言語は朝鮮語。

 

(41)1945年9月18日

 

(42)1945年9月19日

 

(43)1945年9月20日 

 1,長箭

   ・長箭金融機関は170万円の現金を払い出す。

 2,仁川

   ・米軍布告文第1号発布「朝鮮ニ於ケル公私ノ弁済ニ使用シ得ル法貨ハ朝鮮銀行券ナルヲ以テ~~」

 

(44)1945年9月21日

 1,京城

   ・鐘路に張り出してあるビラに見る組織

     「高麗同盟、救恤同盟、国民大会準備会、建国準備委員会、建国少年連盟、共産党、人民協進会、建国治安総本部、高麗大学建設本部、法治国内党、党派粛正党、大震党、労働青年同盟、独立義烈団、高麗同志会、学兵同盟、国軍準備隊、在外戦災同胞救済会、正義青年会、大韓民主党、女子国民党、新民朝鮮文化同盟、光復同盟」

 

 

 

(45)1945年9月22日

 1,京城

   ・朝鮮神宮

   8月22日までの決算報告書――87,636,44園

 

(46)1945年9月23日

 

(47)1945年9月24日

 1,釜山

   ・内地より郵便物の配達があった。その日より、内地向けの託送手荷物は積み出し禁止となる。

 

(48)1945年9月25日

 1,海州

   ・約1800個の日本人家屋の接収。

 

(49)1945年9月26日

 

(50)1945年9月27日

 

(51)1945年9月28日

 1,海州

   ・日本人会解散。

 

(52)1945年9月29日

 

(53)1945年9月30日

 1,沙里院

   ・9月30日現在、沙里院在住日本人は、643戸、2623名。

 

(54)1945年9月

 1,亀城

   ・9月頃、日本人世話人会が成立するが、独立反対運動と認定され、解散。同じ頃、ソ連軍が進駐。

 2,咸興

   ・昭和209月、咸興は、「修羅の巷、餓鬼の町」。当時の避難民、約35千名。

 3,元山

   ・9月現在、約21千名の避難民。

 4,群山

   ・2700万円を朝鮮人各種団体に供与

 

 上記の表は、あくまでも限定された地域の、しかも少数の方々の記憶に残る情報を元に作成したために、その記憶の錯誤、脱落、変質、分解、追加などによって信憑性が保証されていない上に、この時点では裏付け作業さえ困難である。したがって、本データを活用する諸問題は残るものの、当面、本研究課題に限定して指摘すれば、次の2点の

 1,短期間に於ける市中への現金の流入――戦後インフレ

 2,朝鮮総督府による政治的秩序維持はいつまで続いたか?

に言及しておきたい。

 まず、第1点の「短期間に於ける市中への現金流入」に関してであるが、

  1,京城---500万円(朝鮮総督府地方課、1945年8月)

     <『終戦の記録』第2巻、10頁)

  2,京城---10,829,300円(寄付金、雑収入、1945年11月28日)<『終戦の記録』第2巻、13-14頁)

  3,京城---1億円

     <『終戦の記録』第2巻、333頁)

    4、釜山---約1800万円

    <『終戦の記録』第2巻、315頁)

  5,兼二浦---1420万円(1945年9月14日)

  6,興南---892万円(1945年1014日)

  7,新義州--- 600万円(1945年915日)

  8,長箭---170万円(1945年9月20日)

    <1945928日段階の発行高は8658百万円、815

     段階の市中流通額は約36億円であった(『朝鮮総督府終政の記録

     (1)』、21頁。)>

 今、我々が眼にする記録は6都市だけである。しかしながら、これが凡てで

あるはずがない。朝鮮半島全土で避難民が発生し、彼らの多くが貯金や有価証

券を有していたわけであるから、1945年8月15日に発生した政治的混乱

に直面した者であれば、だれしも金融システムの崩壊を予想するに違いない。

 さらに彼らが避難費用に、そして当分の間の生活費用を工面するためにも、

銀行の窓口へ殺到した。銀行や郵便局では、殺到するお客の払い戻し請求に対

して、手持ち資金は払い出せるだろうが、それを越えるか越えないかで、金融

機関の窓口は閉鎖された。しかしながら、街中で日本人たちは家具や衣類など

現地に置いて帰国せざるを得ない品々を大量に販売し始める。その一方で、統

制経済が終焉し、街には自由に物資が放出され、米にしろ塩にしろ豊富な品が

市場や商店の店頭に並んだ。また日本人たちの家屋・土地などの不動産も売買

対象となるわけであり、適正価格を無視した大量の不動産売買が始まった。

加えて、たとえ一時的にせよ、引揚者が集中した京城や釜山に於いては、8

月15日以前の人口の数倍の引揚者に対する食糧・衣服の供給が必要となり、そのための確保に要する資金が緊急に入用となった。

ましてや、総督府や東洋拓殖会社などの機関に勤務する職員たちには、8月15日以降、数ヶ月にも及ぶ月給の前渡し、退職金、引揚旅費などの名目で膨大な金額が支払われたそうである(実体は不明)。

 決定的なのは、朝鮮半島内に朝鮮銀行券のみならず、満州国立満州中央銀行

券までもが流入し、通貨量が飛躍的に増大した。聞き取りの中では、新京から

海州に避難してきた列車の一両に、数千万円の満州中央銀行券が密かに積載さ

れていたともいう。

 何れの情報をつきあわせても、中央銀行機能の停止、金融システムの崩壊、

預貯金・決済機能の中断、大量の通貨の氾濫、物資の過剰供給、商品市場の混

乱などによって、朝鮮半島におけるインフレーション発生を阻止する要因は一

つとして存在しなかった。1929年の世界大恐慌に比較すれば、不幸中の幸

いであったのは、その当時、世界の列強には、物価の安定と金融システムの安

・管理のための国別の中央銀行が僅かながらも機能不全に落ちっていなかっ

たことである。しかしながら、朝鮮銀行の場合、そうではなかった。

 次に、第2点の「朝鮮総督府による政治的秩序維持はいつまで続いたか?」に関する検討を加えたい。常識に属する事実として、1945年9月9日午後4時に、朝鮮総督府第1会議室で行われた阿部信行朝鮮総督とJohn R.Hidge中将(在朝鮮米国軍司令官)との間の降伏文書調印式をもって、日本の植民地統治が終焉したと言うべきである。日本国内が間接統治となったのに比して、朝鮮半島38度線以南は米軍政庁(United States Army Military Government of Korea 19461月以降は in Korea)による直接統治が開始されたからである。われわれにしても、この常識を根本から覆すつもりはなく、むしろ容認する。だからといって、

 

     戦争敗北→統治機能停止→統治者交代

 

のプロセスの中で、1945年8月15日以降、朝鮮半島38度線以南では、いかなる政治的メカニズムが作用し、いかなる社会的秩序が崩壊し、いかなる金融システムが機能不全に陥り、いかにして警察権・裁判権が移譲されていったかなどを解明すべきであると強調したい。

 その適切な資料は、本報告書に載録した『朝鮮総督府終政の記録(1)』(山名酒喜男著、『朝鮮資料』第3号、財団法人中央日韓協会・財団法人友邦協会、195612月)である。この山名氏は、元朝鮮総督府官房総務課長であり、かつ米軍政庁との直接的交渉に従事した経験を元に、1945年8月15日以降の朝鮮半島38度線以南の政治的秩序の変遷を詳述している。

 まず、1945826日発の電報によって、日本政府は、

   「朝鮮に於ける我が主権の転移時期は独立問題を規定する講話条約批准の日迄法律上我が方に存するも、外国軍隊に依り占領せられ事実上は主権休止の状態に陥るべきことあるべし」(『朝鮮総督府終政の記録(1)』、17頁。以下で『終政の記録』と略)

との立場を明確にしていたために、この日以降、その指示通りに朝鮮総督府は

朝鮮半島内における主権を休止、中断、停止の方向で事務引継作業に奔走した。

 それまでの朝鮮総督府は、朝鮮半島内の治安維持確保のために

 1,警察権力の維持

(「朝鮮の警察官の常時定員は終戦前約23千7百人中、日本人警察官は約1万3千人ないしが、実員に於いては約2万1千人中、日本人警察官は応召等に依り、約6千人の寡少となりたり。之に依りては朝鮮治安維持極めて困難と察せられたるを以て終戦と同時に約4千人の日本人警察官は応召解除を見たるが、後に至り、皇軍の武装解除、移駐に関連し、約9千人の将兵の警察官の転換を企画せるが、北鮮地帯には赴任し得ず」(『終政の記録』13頁)

は治安維持に必要な措置としても、それと同時に発令された、

 2,朝鮮半島全土の学校に奉載してあった天皇の写真の奉焼

  の指示(『終政の記録』11頁)

 3,朝鮮半島全土の神社の「御神霊の措置」(『終政の記録』11頁)

の措置は、今となっては信じがたいほどの間の抜けた政策である。続々と南下してくる満州や朝鮮半島38度以北からの避難民たちの緊急措置を放置してまでも、815日以降の朝鮮総督府行政は「皇国日本」の枠内に留まった。それが、朝鮮総督府行政の限界であったと言わざるを得ない。

 

 

 

 

             五

 ところで具眼の識者には自明であろうが、なぜ一部の日本人(「内地人」)は日本に帰ろうとせず、植民地に残りたいと願ったのだろうか。この疑問をめぐる論考は、管見の限りでは見当たらず、学界の関心を呼び起こすことはなかったようである。今日まで誰一人として、「そんなはずはない」と疑った形跡がない。しかしながら上記したように、各種の公文書に記載されてはいないものの、命からがら日本に帰還してきた引揚者たちが語るオーラルヒストリーの中では、彼らは「『敗戦国ニッポン』へ帰りたくなかった」と明瞭に告白した。

 議論の展開上、まず作業仮説から提示したい。筆者の考えは、「内鮮一体」化運動が「内地人」、しかも日本本土生まれではなく朝鮮半島に生まれた「内地人」に浸透した結果ではないか、と考えたいのである。これまでとかく「内鮮一体」「一視同仁」「皇国臣民」などのスローガンは、朝鮮人(「半島人」)にのみ訴えられたと考えてきた。宮田節子氏の名著『朝鮮民衆と「皇民化」政策』(未来社、1985年) は、「同化と差別」をKey Wordにして朝鮮人に対する「皇国臣民化改造計画」を解析したし、寺崎昌男氏のグループもその視点を導入している(寺崎昌男・戦時下教育研究会『総力戦体制と教育―皇国民の「錬成」の理念と実践』東京大学出版会、1988年)。一方、韓国側でも鄭在貞氏らの一連の論考も、そうである。

 しかしながら、ここで抜け落ちた存在は、日本本土生まれでなく朝鮮半島で生まれ育った日本人(「内地人」)である。あるいは物心つくか付かないかの時期に、両親に連れられて朝鮮半島に渡ってきた日本人(「内地人」)も含めて良いだろう。これらの範疇に属する「内地人」を、本稿では便宜的に、仮に「在朝内地人」と呼称することとする。

 朝鮮人のみならず、この在朝内地人に対しても、朝鮮総督府は強力なプロパガンダ「内鮮一体」化政策を同時平行的に植え付けていった。したがって、朝鮮総督南次郎は、

   「翻って我朝鮮の現状を見るに、内鮮の諸関係は殆ど名実共に同一体となって、融和・結合を説く必要なき域にまで到達せんとし、今や内鮮融和を口にするは却って水臭き感あるに至りしは同慶とする所であります」(津田剛『内鮮一体論の基本理念』緑旗連盟、1939年、6頁)

と述べているが、その真意は別として、仮にこうした内鮮融和・一体の関係性

が朝鮮半島に成立したとすれば、その関係性は在朝内地人にも及んだはずであ

る。むしろ彼らこそ、朝鮮人と同様に、内地に故郷を持たず、愛着を持たず、

郷土食・郷土民謡・郷土方言とも無縁であり、ましてや内地は「外国」であっ

た。

  朝鮮人にとって、「(天皇)陛下の真の赤子としての自覚と実践」を持て、と要求される内鮮一体化運動が高揚すればするほど、それは差別へと直結する構造であったことは、宮田氏らの分析で見事に指摘されてきた。しかしながら、内地に帰るべき「故郷」を持たない在朝内地人にとって、その内鮮一体化運動が進展し、定着し、実践されればされるほど、彼らの生活基盤は確立するわけであり、その実現を願ったに違いない。

玉音放送が終了すると共に崩壊した帝国日本の政治的秩序を眼前にした朝鮮総督府高官でさえもが、なお

 「朝鮮が外国と為り、朝鮮人が外国人と為ることは夢想だにもせざりし」(山名酒喜男著、前掲書、7頁)

と述懐しているほどである。

在朝内地人たちが、1945年8月15日以後、朝鮮半島残留を希望し、

朝鮮語を学習し(『京城日本人世話人会報』第3号1945年9月3日付)、その師弟を朝鮮人学校へ送り、朝鮮人の国家建設の協力を申し出たことは、「在朝日本人」の誕生であったと言うべきではあるまいか。たとえ、米軍政庁の施策によって、強制的に日本に帰国させられたとしても、

  「さて主導者としての構想は、招来の居留民会を前提として、残留を希望するものを中心として組織される日本人会でなければならぬということである。則ち単に引揚をのみ目標とする組織でなかった。あくまで踏止まる人々を対象としていた」(『終戦の記録』第3巻、210頁)。

であり、その基本方針が、

「1,我等は前途と再建設あるのみ、後退を欲せず。2,我等は祖国の復興と興隆のため、海外の第一線に踏み留まる。3,残留することにより、祖国民の苦痛を少しでも緩和し得る」(『終戦の記録』第3巻、210頁)。

であったことは、彼らの本心であったにちがいない。

 また、在日Koreanとの関係は対等であるとして、

   「歴史は大きく転換しました。然し『天行は健也』依然として軌道があるのです。朝鮮独立の喜は新日本人の喜であります。日本と朝鮮との関係は一新されるべきであります。その紐帯は在鮮日本人であり、在日朝鮮人であります。その相互居留の問題を明るく取り扱うことが第一義、私共は朝鮮への帰化を真面目に考えています。」(『京城日本人世話人会報』第15号、1945年9月17日附)

とも考えたのも、事実である。

韓国にある日本政府の出先機関には、「『敗戦国』ニッポンに帰らなかった日本人」約5万人の名簿があるという。

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