引揚者の語り

 

タイトル

敗戦時の居住地

当時の現職、在籍校など

ソ連の来襲をいつ知ったか

38度線を突破した方法

敗戦直後の様相

引揚港

敗戦を知った方法

309-310

引揚の記録

清津

朝鮮総督府交通局清津埠頭局

2008/8/8にソ連兵が来襲

徒歩で38度線を突破

事務所の書類・印鑑などを焼却

釜山→博多

敗戦は8月20日に知る

310-312

捕虜・脱走・無一文、悲劇引揚者

平壌

平安南道警察部

8月17,8日頃、ソ連軍が来襲

 

2009年1月に、平壌の日本人家屋は建国委員会が接収

釜山→博多

8月15日に知る

312-313

3女を失い、私は強制収容所へ

咸興

警察官

8月15日に

8月に朝鮮人保安隊結成

 

コロ島→佐世保

8月15日に知る

312-315

技術者として残留

興南

日本窒素興南工場

未記載

応峰里に1200人の集団収容

21年4月頃、残留。

コロ島→佐世保

未記載

315-316

北鮮より帰る

清津

新浦にある事業所

2008/8/13にソ連兵が来襲

興南で収容所生活、8月から21年4月まで。4月21日、船を借り、注文津に到着。

 

釜山→博多

813

316-319

敗戦と北朝鮮からの引揚

黄海道沙里院西里

薬局

8月15日の何日か後にソ連兵が来襲

自宅待機。8月15日以後、自主独立万歳のスローガンが溢れ、独立歌の斉唱。20年11月頃から、ソ連軍の赤い軍票が流通。21年5月、沙里院から列車で青丹駅へ。

 

釜山→仙崎

8月15日に知る

319-322

我が家の運命を変えた戦争

鎭南浦

パルプ工場勤務の夫

未記載

20年に帰国

 

未記載

未記載

322-

北朝鮮の回想

興南

日本窒素興南工場

 

9月15日に、朝鮮人保安官が来訪、日本人住宅からの退去命令。21年5月に興南から元山へ。21年7月1日に、徒歩で38度線を越える。

博多の承天寺にあった引揚者事務局で兄弟に会う

釜山→佐世保

未記載

324-

私の青春の総べて

京城

歯磨き粉工場長

未記載

敗戦後、すぐに銀行は封鎖。韓国人の服装をして、日本人は身の安全を。

 

未記載

未記載

326-

妻を探して羅津から撫順へ

羅津

満鉄羅津埠頭旅客係

未記載

昭和20年8月1日頃からB29が空襲。8月8日にソ連機による空襲。羅津から撫順へ逃避。

 

コロ島→舞鶴。昭和21年7月6日。

未記載

327-328

妻死亡。こどもだけの引揚

釜山

釜山部隊

 

こども4人だけがボロボロの服装で、京城から釜山まで朝鮮人から食べ物をもらいながら、辿り着く。

 

釜山→佐世保

8月15日に知る

328-330

家族七人ぶじ帰国

慶尚北道龍同

未記載

未記載

当初は、引揚などとは考えられませんでしたが、日増しに日本人に対する風あたりは強くなり、石等を投げ込まれたり、嫌がらせなど増えてきました。日本人は皆引揚げるほかは無いと思うようになり、私も引き揚げる準備を始めました。

街の一角にありました百坪ほどの土地と、六棟の家屋が捨て値の2万円あまりで朝鮮人に売り渡し、登記も終わり、代金も受け取りました。

釜山→博多

815日、終戦の詔勅

330ー332

貨物で脱出、帰国

木浦

船舶運営会朝鮮木浦支社勤務

未記載

815日終戦の詔勅、街は騒然となった。「日本の警察安泰なり」と空よりビラ。

木浦から貨物船で帰国。全員、70数名。

釜山→島根県

815日、終戦の詔勅

332-334

元山から恐怖の逃避行

元山

元山青果市場

未記載

215月まで抑留所生活。闇船は一人1000円、北朝鮮の漁村から注文津へ。

 

注文津→仙崎

815日、終戦の詔勅

334-335

むくわれずに、父母よ

京城

女学校

未記載

「父は朝鮮の土になると決めていた」。「おれは京城に骨を埋める」、全員引揚の通達。

 

釜山→博多

815日、終戦の詔勅

335-337

戦後の思い出新たに

黄海道沙里院西里

農家の嫁

未記載

昭和213月、徒歩で38度線を越える。

 

釜山→博多

815日、終戦の詔勅

337-338

残酷行状記

清津

鉄道

810

昭和20810日に、清津から元山へ逃避、815日以降、元山から京城へ

 

釜山→博多

815日、終戦の詔勅

339-340

朝鮮、餓死寸前より

昌善島

教員

未記載

避難所は釜山第6小学校。

 

釜山→博多

815日、終戦の詔勅

340-342

五人の子を一人で連れて

釜山

開業医の妻

未記載

闇船で仙崎へ

夫は共産軍に徴用され、昭和284月に帰国。

釜山→仙崎

未記載

342-343

闇船で脱出

全南裡里署梨坪面

駐在所警察官

未記載

816日朝に「日の丸の赤の半分を濃紺で二つ色に塗り、四場に点々ををつけた太極旗という旗が家々に林立」

全南裡里・巨文島は日本軍が秩序維持。10月半ばまで

巨文島→福岡県角島

815日、終戦の詔勅

343-345

涙のおにぎり

咸鏡北道茂山

茂山鉱山庶務課

昭和208月、清津にソ連軍が上陸した日に避難。

興南で収容所生活、闇船を借り、注文津に到着。昭和215

興南の収容所では、「朝鮮のために働け」と説諭

注文津→未記載

不明

345-346

平和で強い国であって欲しい

海州

警察官の娘

未記載

徒歩で38度線を越える

 

未記載

815日、終戦の詔勅

347-348

もう戦争はいやです

清津

清津府土木課員の妻

未記載

813日、清津から城津。815日、城津から平壌。816日、平壌から京城へ汽車で移動。

 

釜山→博多

815日、終戦の詔勅

228-230

引揚顛末記

元山

教員

未記載

葛麻駅から乗車、鉄原、梨木里駅で下車。徒歩で38度線を越える。京城駅前の西本願寺別院が避難民収容所

引揚船(対山丸)

釜山→博多

815日、終戦の詔勅

230ー234

引揚後の苦難の道

釜山

鉄道局

未記載

敗戦後、「釜山鉄道局に再就職のため願い出た」が、拒否される。

昭和201225日、釜山から博多

釜山→博多

815日、終戦の詔勅

235-237

朝鮮より涙の生還

城津

鉄道部城津事務所

未記載

終戦の数日前に、京城駅行きの最後の直通列車が発車。

徒歩で38度線を越える

釜山→博多

815日、終戦の詔勅

237-239

私の戦争体験記

清津

朝鮮鉄道清津工場

##########

昭和20820日、清津から京城駅行きの汽車が発車。

 

釜山→博多

815日、終戦の詔勅

239-242

一心同体の再出発

京城

京城府尹の娘

未記載

昭和20103日、京城で結婚式。

引揚船(興安丸)

釜山→博多

815日、終戦の詔勅

242-244

引揚体験記

京城、咸興

朝鮮銀行京城本店勤務

未記載

妻と実家の全員が闇船で帰国。

 

 

未記載

244-246

引き揚げて

光州

光州高等女学校

未記載

光州から釜山に列車で移動。

引揚船(金剛丸)

釜山→仙崎

815日、終戦の詔勅

320334

ソ連の占領下、北鮮での体験記

元山

旅館「愛媛館」経営

未記載

昭和20815日、「何時の間二かにか用意したのか赤旗と朝鮮旗を両手に持った朝鮮人が『マンセイ、マンセイ』叫びながらうごめきながら道に溢れ、朝鮮だけがお祭りのようにざわめきながら日本人は一歩も外に出られない」、昭和20822日にソ連上陸用船艇にてソ連兵が上陸。大村鎌次郎氏経営の製材工場は、従業員であった林が経営権を奪う。

船で元山から注文津へ

釜山→博多(昭和21530日)

815日、終戦の詔勅

334352

裸で得た第2の人生

京城

関東軍第5航空師団第2錬成飛行隊(水原)

未記載

妹夫婦は、朝鮮総督府交通局技師として城津に居住していたが、814日未明、京城龍山駅に到着。/昭和20103日、京城の自宅で結婚式。仲人は、元南洋庁長官。

 

釜山→仙崎(興安丸)

815日、終戦の詔勅

365379

遙かな追憶

京城

三井軽金属京城支店

未記載

「朝鮮生まれの朝鮮育ち成るが故に、母国とはいえ、日本内地によるべき本当の故郷を持たず、物心ともに全くの異邦人のような存在」「家に帰ると、どこからとなく灰たくさん降ってきましたが、それはかなり離れた朝鮮軍司令部で書類を焼いているのだと言うことでした」、「銀行など金融機関には預金引き出しの人々の長い列が出来ており、父の郵便局でもこれらの人々の対応におわれており忙しく毎晩遅い帰宅が続きました」、「日本人の『租界』のようなものが出来て、希望者は残留が認められると行いったうわさが流れ、もしそうなら残ってもよいという両親の考えのようでした」(368)、「最初の頃の交換比率は日銀券百円に対し鮮銀券百三十円くらいでしたが、日本人がだんだん減って行くにつれ、私どもが引き揚げる十一月ころには日銀券百円に対し鮮銀券七十円と逆転しmそれも日銀券の十円札は姿を消し百円札がこれに代わりました」(369)、

徒歩で38度線を越える

釜山→仙崎

815日、終戦の詔勅

311-325

人生の起伏

平壌

平壌陸軍兵器補給廠斧山面填薬所

未記載

昭和20年8月15日に「8月16日からの業務は一切停止する」との命令。8月18日に解散式。8月16日か、17日に平壌発釜山行きの最後の列車が出発。昭和21年8月31日まで、平壌の収容所生活。昭和21年9月22日、博多港到着。

陸路で開城へ

釜山→博多(昭和215月9月22日)

815日、終戦の詔勅

325-339

北鮮脱出記

羅南

ハルビン学院学生(1年生)

89

昭和20年8月9日と共に、ラジオ放送が途絶。朱乙温泉に白系ロシア人ヤンコフスキー伯爵一家在住。脱出ルートは3。第1は、咸興→本山→鉄原→京城(内陸ルート)、第2は、咸興→元山→襄陽→注文津(日本海沿岸ルート)、第3は、咸興→興南→海路→注文津(海上ルート)。

海路ルート

仁川→未記載

 

304-319

北鮮から姉と弟の引揚体験記

平壌

歯科医

未記載

昭和20年8月15日を期に、日本語の使用が禁じられた、昭和21年6月に脱出。ルートは、市辺里→大南→小南→38度線→開城。

 

釜山→佐世保

815日、終戦の詔勅

319-334

終戦直後

杏樹

陸軍士官学校

8月9日午前4時

8月9日、杏樹出発。8月10日、ハルビン到着。8月12日、新京到着。8月20日、鴨緑江渡江。8月21日、平壌到着。8月22日、釜山到着、

 

釜山→博多

8月15日、終戦の詔勅

334-349

平和よ永遠に

釜山

釜山第1商業

未記載

昭和20年8月15日、玉音放送を聞く。「内容を十分理解できぬまな放送終了」。8月15日、多数の朝鮮人が「マンセーイ、マンセーイ」と開放の喜びを表現した行進。

 

釜山→未記載

8月15日、終戦の詔勅

327-343

38度線を越えてー鎮南浦から引き揚げて

鎭南浦

旅順中学校

昭和20年8月9日午前6時のニュース

昭和20年8月15日、玉音放送を聞く。「内容を十分理解できぬまな放送終了」。8月15日、多数の朝鮮人が「マンセーイ、マンセーイ」と開放の喜びを表現した行進。「難しい言葉遣いと音声のひずみや雑音のために内容はほとんど分からなかった」、「本土決戦の覚悟を促す無いようだと思った」、8月15日、「(鎭南浦)街の中心部では朝鮮人の大集団が日の丸を加工した太極旗を掲げて『マンセーマンセー』と叫んで練り歩いた」→昭和21年9月17日からの避難メモある

徒歩で38度線を越える

仁川→佐世保

8月15日、終戦の詔勅

356-373

私の38度線突破記録

文川郡文坪

未記載

未記載

昭和20年8月15日、終戦の詔勅を聞く。8月15日に、「午後になって町中のあっちこっちから沸きあがった。『ジョソンドクリツマンセイ、マンセイ』と言う。太極旗や赤旗を振る。

徒歩で38度線を越える

昭和20年8月15日、終戦の詔勅

 

401-416

引揚げの記

羅南

羅南公立高等女学校

##########

我が家は8畳、、6畳二間、3畳の間と4畳のサンルームに台所、オンドルの焚き口が竈で、そこでご飯を炊き、電気コンロで料理を作った。風呂は石炭でたき、トイレは水洗であった、暖房はペチカとオンドルで、厳寒の冬も外は零下10度以下だったのに、室内は暖かった。」、「昭和20年8月13日午前12時30分発鏡城駅発、16日午前4時30分、明川駅着、17日午前4時吉州駅着、17日午後5時城津駅着、20日午後12時30分城津駅発、21日午後1時30分京城駅着」、「昭和20年8月28日、母は帰郷の打電をする」(412頁)、

 

 

 

416-

母と私の数え歌

京城

京城中学校1年生

未記載

昭和20年8月15日、京城中学のグランドで全校生徒が整列する中を、雑音でほとんど意味を解し得ない終戦の詔勅がラジオ放送され、校長先生より戦争が終わったことを聞かされた。」

釜山→仙崎

 

 

322-

家族は張家口から私は京城から

京城

京城薬学専門学校

未記載

昭和20年8月15日、終戦の詔勅が放送されたのに、市街地は深夜に至るまで意外なほどに静寂な一日だった。ところが翌16日、早朝から京城の街という街、通りという通りは昨日までとは一変し、人の波で埋まっていた。人々は是まで見たこともない太極旗や赤旗を掲げて口々に叫んでいた。『ジョソンドクリツマンセイ、ジョソンヒャグションマンセイ』。

未記載

昭和20年8月15日、終戦の詔勅

 

337-346

朝鮮の生活10年間

全州

全羅北道全州荘丁入営準備訓練所指導員

未記載

8月16日、早朝全職員出校が伝達された。日本人職員は国旗やその他重要書類の焼却作業を手際よく済ませて即時解散した。

未記載

 

 

346-361

引揚少年の記

清州

清州国民学校4年生

未記載

8月15日、ラジオ放送を聞いた先生から終戦を聞く。「帰路途中で一軍の朝鮮人たちに会いました、今になって考えれば独立回復の祝賀でもだったのですが、『マンセイ』の歓喜と共に、あの巴のデザインの国旗が打ち振られていました。」、「私が生まれたのは昭和10年で、ずっと木浦で育ちました。姉は昭和9年の早生まれです。今の感覚で言えば、二人とも日系朝鮮人というのが正確です。私たち姉妹は『三世』になります」

未記載

釜山→仙崎

 

 

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