日本統治期 江原道鉄原郡月井里に居住した日本人植民者
日本統治期、江原道鉄原郡月井里に居住した日本人集団のファミリーヒストリーを記述した方がいた。小西昇氏である。
1992年5月23日付けの書簡で、突然に小西氏から様々なコピー類が送られてきて、その情報の貴重性を認識することとなった。私は一度もお目にかかっておらず、小西氏のお人柄もヒストリーも知らない。しかしながら、誠実なお人柄であるからこそなしえる几帳面な記述に、私は驚いた。
月井里は正式の名称を江原道允鉄原郡於雲面中江里という。『月井里』と呼ぶのは、同郷の方々が発行する雑誌によると、駅名「月井里」に由来するそうである。風雅を愛する方による命名であろう。鉄原の北方約5キロの地点にある小さな集落であり、日本統治期に日本人が20世帯ほど居住したそうである。韓国人を含めても1000人もいなかったようである。
その小規模集落に関して、「54歳になった今日このごろ、私はむしょうに月井里のことを思い出します」として、小西氏は猛然と月井里に居住した日本人たちの記憶を残そうとして、月井里に縁をお持ちの引揚者を日本全国に探し求め、彼らから入手した各種情報をワープロで記録化した(その当時は、ワープロ全盛時期)。
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月井里
小西昇
私は韓国の月井里(行政区画上は、江原道鉄原郡於雲面中江里、月井里は鉄道の駅名)という片田舎に生まれ、昭和17年(小学校卒業)までそこで育ちました。文字どおり、月井里は私の生れ故郷です。
ところが、今はそこに誰も住んでなく、また、誰も行かれなくなりました。南北朝鮮を分ける非武装地帯になったからです。今では荒野になって、野鳥の生息地になっているそうです。やがては、月井里という地名もなくなり、人々の記憶から消えてしまうのではないでしょうか。54歳になった今日このごろ、私はむしょうに月井里のことを思い出します。帰巣本能がもたげる年になったのかもしれません。
月井里は、鉄原の北方約五キロの地点にある小さな集落でした。日本人が20 世帯ほどもあったでしょうか。韓国の人達を合わせても千人もいなかったと思います。でも、私にとっては、かけ替えのない生まれ故郷なのです。犬かきで泳ぎ 小西昇
私は韓国の月井里(行政区画上は、江原道鉄原郡於雲面中江里、月井里は鉄道 の駅名)という片田舎に生まれ、昭和17年(小学校卒業)までそこで育ちまし た。文字どおり、月井里は私の生れ故郷です。
ところが、今はそこに誰も住んでなく、また、誰も行かれなくなりました。南 北朝鮮を分ける非武装地帯になったからです。今では荒野になって、野鳥の生息
地になっているそうです。やがては、月井里という地名もなくなり、人々の記憶 から消えてしまうのではないでしょうか。54歳になった今日このごろ、私はむ
しょうに月井里のことを思い出します。帰巣本能がもたげる年になったのかもし れません。
月井里は、鉄原の北方約五キロの地点にある小さな集落でした。日本人が20 世帯ほどもあったでしょうか。韓国の人達を合わせても千人もいなかったと思い
ます。でも、私にとっては、かけ替えのない生まれ故郷なのです。犬かきで泳ぎ回った川、遠足で登った於雲富士、兵隊ごっこに絶好の場所だった晩秋の田んぼ、 チャッチギで夢中になった空き地など、大げさに言えば、私を育ててくれた母なる大地でした。その母なる大地が、人間の不幸な争いで、消えてゆくのかもしれないのです。
近くの鉄原は、今でもあります。しかし、外国人のわれわれはもち論、韓国の人達も自由には行けないようです。 軍事要衝地になっているからです。鉄原にあった行政機関などは、少し南の方に移され、新鉄原という町になっています。
朝鮮半島が統一されれば、月井里もよみがえり、そこで眠った祖母・母・兄に、花束の一つも手向けられるのです。そんな思いを込めて、この「月井里」を書きました。
しかし、私が小学校5・6年生(昭和15.6年)頃の記憶を土台にし、兄や 姉達の話を書き加えた程度ですから、事実とかなり違っていると思います。でも、
これがきっかけとなり、一人でも多く月井里の人々にめぐり会い、少しでも多く、 月井里のことが書き残せたらと思います。
お心あたりの方は、この拙稿に筆を入れて下さい。また、月井里に関係ある資 料(写真・地図・絵など)がありましたら、複写をさせていただけないでしょうか。加除訂正・追記を重ねながら、いくらかでも事実に近いものにしたいと思います。一介の安月給取りがすることですから、たかがしれていますが、何かのは
さて、このように思い立ってから、2年が経ちました。果たして何人の方の 消息が判かるだろうかと思っていましたところ、私の家族を含め、17人の方と 連絡が取れ、驚いています。それに、数多くの写真が寄せられ、想い出を新たに させていただきました。顔写真も100枚を超え、こんなに月井里に沢山いたの かとびっくりしました。皆様方のご協力に、深く感謝いたします。
そこで、一区切りの意味で、皆様方から寄せられたお便りなどを、既送の「月 井里」に書き加え、まとめてみました。しかし、かなりの部分が私の記憶による
ものですから、誤りが多いと思います。引き続き皆様方のご協力をお願いします。
「月井里人びと」は、月井里当時の姓で、家族単位に、50音順に替えさせて いただきました。
回った川、遠足で登った於雲富士、兵隊ごっこに絶好の場所だった晩秋の田んぼ、 チャッチギで夢中になった空き地など、大げさに言えば、私を育ててくれた母な
る大地でした。その母なる大地が、人間の不幸な争いで、消えてゆくのかもしれ ないのです。
近くの鉄原は、今でもあります。しかし、外国人のわれわれはもち論、韓国の 人達も自由には行けないようです。 軍事要衝地になっているからです。鉄原に
あった行政機関などは、少し南の方に移され、新鉄原という町になっています。
朝鮮半島が統一されれば、月井里もよみがえり、そこで眠った祖母・母・兄に、 花束の一つも手向けられるのです。そんな思いを込めて、この「月井里」を書き
ました。
しかし、私が小学校5・6年生(昭和15.6年)頃の記憶を土台にし、兄や
姉達の話を書き加えた程度ですから、事実とかなり違っていると思います。でも、 これがきっかけとなり、一人でも多く月井里の人々にめぐり会い、少しでも多く、 月井里のことが書き残せたらと思います。
お心あたりの方は、この拙稿に筆を入れて下さい。また、月井里に関係ある資 料(写真・地図・絵など)がありましたら、複写をさせていただけないでしょう か。加除訂正・追記を重ねながら、いくらかでも事実に近いものにしたいと思い
ます。一介の安月給取りがすることですから、たかがしれていますが、何かのはずみになればと思っています。
さて、このように思い立ってから、2年が経ちました。果たして何人の方の 消息が判かるだろうかと思っていましたところ、私の家族を含め、17人の方と 連絡が取れ、驚いています。それに、数多くの写真が寄せられ、想い出を新たにさせていただきました。顔写真も100枚を超え、こんなに月井里に沢山いたのかとびっくりしました。皆様方のご協力に、深く感謝いたします。
そこで、一区切りの意味で、皆様方から寄せられたお便りなどを、既送の「月井里」に書き加え、まとめてみました。しかし、かなりの部分が私の記憶による
ものですから、誤りが多いと思います。引き続き皆様方のご協力をお願いします。
「月井里人びと」は、月井里当時の姓で、家族単位に、50音順に替えさせて いただきました。
月井里の人びと 有城さん
(写真1、大正3年頃の生まれ)昭和16年頃結婚、月井里から離れた所に住んでいたそうだ。奥さんも月井里の人だったらしい。
私の言う「陸軍中尉だった人」のような気もするが、年齢が少し違うようだし、
在郷軍人会の集まりでは、将校服を着ていた。ところが、在郷軍人会の写真では、 兵の服装である。
何でも、月井里の北にあった蓬莱堤(貯水池・周囲が10里といわれた)に行く途中にいたのではないかと思う。
昭和15年頃、鉄原から月井里を経由して、蓬莱堤の方に行くバスが通った。 私達は、この銀色のバスの後について走ったものだった。このバスに「陸軍中尉だった人」が乗っているのを見かけたことがある。
有城夫人(写真2、大正9年頃の生まれ)
板倉さん
おじさん(明治40年頃の生まれ) 万木さん経営のマルボシ運送店に勤めていた。 女児 (写真3、昭和7年頃の生まれ)
さと子 (写真4、昭和9年頃の生まれ)
井手さん
おじさん(明治28年頃の生まれ) 長崎県諫早市出身、保線区長、福原さんの後任、昭和9年頃月井里にいた
岩永さん
静江(大正6年頃の生まれ)富田嘉子さんと同級生だったらしい。
牛見先生
先生(写真5、明治44年頃の生まれ) 月井小学校長(昭和14・15年) 鉄原小学校から来られたそうだ。背が高かった。
奥さん(写真6、大正4年頃の生まれ)色白の美人で、女の子に人気があっ た。子供はいなかった。
内田さん
おじさん喜佐雄(明治13年生まれ、昭和13年没)
おばさん すき(写真7、明治25年生まれ、昭和48年没)
おばあさん、佐藤セキ(昭和30年没)すきさんのお母さん、私は、このおばあさんの記憶はある。よく「ばってん」という長崎弁を使っていたので、「ばってんおばあさん」と呼んでいた。
喜代子(写真8、大正5年生まれ) 京城師範付属小学校、京城第一高女卒業、 この間に月井里に時々帰省していた。昭和12年結婚。
伊藤昭子(写真9、昭和13年頃の生まれ)喜代子さんの長女、昭和19年4 月月井小学校入学、1ケ月後に竜山小学校転校。
佐代子(写真10、大正8年生まれ、昭和27年没、愛媛県宇和島)昭和18 年結婚、喜代子さんの妹。
江崎さん
おじさん(写真11、明治39年頃の生まれ)
カズヨ(写真12、昭和8年頃の生まれ)
女児(写真13、昭和10年頃の生まれ)
大竹先生
先生(明治38年頃の生まれ) 月城小学校長(昭和16年~終戦)高畠校長の(後:補記)任だったとおもう。背が高かった。
夫人(写真14)
男児(写真15、昭和9年頃の生まれ) 級長だったそうだ。
加藤先生
先生(写真16、明治37年頃の生まれ) 月井小学校長(昭和12年7月~1 4年6月)少しふとっていて、体格が良かった。てきぱきした先生で、怒ると怖かった。
夫人(写真17、明治42年頃の生まれ)体格がよかった。
玲子(写真18、昭和4年生まれ)体格がよく、先生に似ていた。
一郎(写真19、昭和6年生まれ)この子も先生に似て大柄だった。
川上さん
年寄り夫婦、鉄原へ行く途中で果樹園経営、富田二郎さん(大正12年生まれ) は、このおじさんが馬をやると言ったので、毎日行ったそうである。
北川さん
おじさん 栄一 (写真20、明治27年生まれ、昭和33年没、64歳、長崎
市) 昭和10年頃咸鏡南道から月井里に移転、郵便局長、在郷軍人会会長、退役
憲兵伍長、昭和20年10月引揚げ(長崎県五島玉ノ浦)、昭和26年長崎市に
移転。
おばさん 静子(写真21、明治38年頃の生まれ、昭和37年4月没、58 歳)
栄静(写真22、23、昭和3年生まれ)昭和17年竜山中学進学、19年6 月予科練松山部隊入隊、同年秋高知部隊へ、20年10月復員後五島中学編入校、 21年5月熊本逓信講習所へ入所、22年3月長崎市本博多郵便局勤務、39年 9月から現在まで長崎市梁川郵便局長。
栄ちゃんは、小学校のとき病気になり、留年して私と同級生になった。勉強ができ、小学校卒業のときに、道知事賞をもらった。
同級生で、家も近かったので、兄弟のようにして遊んだものだ。予科練に行ったという噂だったので、無事に帰っただろうかと気にかけていた。その彼に、昨年夏奇跡的に会えた。弟の和ちゃんにも会えた。40年ぶりの再会だったが、幼な顔の面影が残っていて、すっかり子供心に戻った。
和夫(写真24、25、昭和6年生まれ)昭和19年月井里小学校卒業後、竜
山中学校進学、終戦後五島中学校に編入校、三菱電気に入社。
育子(写真26、昭和9年生まれ) 終戦時月井小学校6年生、ご主人が三菱造船に勤務。
教子(昭和15年没、月井里、4歳) 寿子(昭和19年没、月井里、4歳)
わか子(写真27、大正13年頃の生まれ)栄静さん達の従姉、昭和18年3 月から終戦まで月井里にいて鉄原南国民学校の教師として通勤した。
久保先生
先生(写真28、29、明治38年頃の生まれ)月井小学校長(昭和8年6月 ~12年6月) 洗浦小学校長、19年3月県北国民学校長、引き揚げ後高知県で 教師、29年退職、石油店・遠洋漁業、現在はホテル経営、ライオンズクラブ会員。
(月井里の思い出) 原州での在勤は僅か1年で、昭和8年6月に月井小学校長に補せられ着任した。
小学校だったが、校下には日本人も多く、蓬莱堤という周囲10里もある。池があって、2万町歩に余る水田を灌漑していた。不二農場、馬場農場、高野農場等、何百町歩の農場が散在し、米村、富田、小沼氏等のリンゴ園がその中に点々とあった。町には、久保田、綿貫等の雑貨店もあり、生活に不自由はなかった。
駅長を退職した白井さんが学校組合の管理者で、大変世話になった。
昭和12年6月に洗浦普通学校長に補せられ、4年間いた月井里を後にした。
洗浦は、京元線では最も高い所で、見渡すかぎり畑の大高原だった。大変寒い所で、零下30度以下になることも珍しくなかった。
そこには、薬水という不思議な水が、谷の岩間から湧き出ていた。隣の駅の三防峡には、この薬水の湧出が特に多かった。この薬水は炭酸水で、砂糖を入れて飲むと、サイダーの味だった。病弱者に効くということで、水筒などに入れて、
持ち帰る人も多かった。
夫人ツル(写真30、明治43年頃の生まれ、終戦直前に没、江原道県北)
淑子(写真31、昭和7年頃の生まれ)
雅子(写真32、昭和10年頃の生まれ)
久保田さん
おじさん憲一(写真33、明治23年頃の生まれ)大分県出身、雑貨・新聞 販売店。野球が好きで、月井里チームの監督をしていた。
六大学の野球放送が始まると、店はおばさん達に任せ、ひとり部屋に閉じこもって、手振り身振りよろしく聞いていた。
おばさん(写真34、明治33年頃の生まれ)色が白い人だった。油濃い料理 が好きだったらしく、豚の脂身を天ぷらにしたのをご馳走になったことがある。
たけお(大正10年頃の生まれ)竜山の鉄道学校に行っているとかで、たまにしか家にいなかった。ラグビーをやっているという話を聞いたが、色黒く、スポーツ選手らしかった。
忍(写真35、昭和5年生まれ)夏休みや冬休みの宿題を、休みの初めに済ましていた。私はいつも休みの終りになってあわてていたので、忍ちゃんの真似をしようと思ったが、できずじまいだった。
信也(写真36、昭和7年頃の生まれ)色が白く、おっとりとして、お母さんに似ていた。
小西
父円作(写真37、明治12年生まれ、昭和35年没大村市、81歳)佐賀県太良町出身。大正15年慶尚南道金海郡から月井里に移住、農業、昭和17年黄海道甕津郡に転出、20年11月引き揚げ、大村市で長男(守)と開拓農業。
母ミカ(写真38、明治18年生まれ、昭和13年没月井里、53歳)
祖母キチ(嘉永2年生まれ、昭和2年没月井里、77歳)
姉ハマ (写真39、明治44年生まれ)円作の三女、昭和6年に結婚して、 京城に転出。
月井里にいたころは、よく富田さんの家に行って、鈴ちゃん、露ちゃん達と百人一首をした。富田のおばさんは、いつも、どっさりとお菓子を出した。このおばさんの兄さんかが、平壌の大同江の近くにいて、警察署長を退職後、建設会社を経営していた。そこで、事務・雑務の手伝いを1年余りした。昭和4、5年の
ことである。
兄守 (写真40、41、大正3年生まれ) 昭和10年久留米連隊に3カ月 間入隊。昭和12年7月竜山野砲26連隊に入隊。その後、月井里には戻らず、結婚して黄海道甕津郡の末永農場、鬼頭農場勤務、再召集を受け、ソロモン群島で負傷し、左眼失明。現在大村市で農業。
姉朝子(写真42、43、大正10年生まれ)昭和9年月井小学校卒業、京城女子実業学校進学、卒業後京城三機工業(株)を経て、於雲小学校教員、昭和17 年結婚して月井里を転出。夫は久保先生の奥さんの弟で小学校教師。退職後大村市に在住。
兄優 (大正15年生まれ、昭和2年没、月井里)
(私)昇(写真44、45、昭和4年生まれ、月井里)昭和17年月井小学校 卒業、鉄原中学校進学、18年海州西中学校へ転校、終戦後兄(守)らと大村市で開拓農業、26年大村収容所勤務。横浜、羽田、大阪等に勤務し、成田支局を最後に61年4月退職。入管協会職員。
小沼さん
おじさんもおばさん(写真46)も記憶がない。果樹園を経営していたらしい。 大きな倉庫があって、ここでよく兵隊ごっこをした。昭和15年頃清涼里に転出したとのことだ。
勝太郎 (大正15年頃の生まれ)弟の実ちゃんとは違って大柄だった。実ちゃんをよくたしなめていた。
実 (昭和8年頃の生まれ)小柄だったが、兵隊ごっこの大将だった。私達は、
一階級でも上げてもらおうと、実ちゃんのご気げんを取り、言うことも聞いた。言うことを聞かないと、一ぺんに五、六階級下げられた。 階級章は、パッチン・(横浜でペチャ、標準語ではメンコ?韓国語ではタッチ、と呼ばれているもの。 丁度階級章のように作られたのがあった。元帥は星が四つもあった)をつけていた。
小林さん
おじさん(明治17年頃の生まれ)静岡県出身。精米所。赤ら顔でこわい感じだった。昭和14年頃月井里で亡くなり、その後家族は、京城に移った。
おばさん(写真47、明治23年頃の生まれ)細身で、静岡弁を使っていた。 男児 (大正元年頃の生まれ)眼鏡をかけていたような気がする。弟のマーちゃん(正明)が自慢して、この人の写真を見せてくれたことがある。軍服姿で上等兵だった。当時私の兄(守)は二等兵だった。
時雄又は時秀(大正3年生まれ)元山中学校進学。
滝子 (大正5年頃の生まれ)
道子 (写真48、大正8年頃の生まれ)姉(朝子)と友達で、私の家に来て
は姉とよく歌っていた。
富尋 (大正11年頃の生まれ)私が小学4年生(昭和14年)頃、どこかの 川で、写真を撮ってくれた。
計八郎(大正14年頃の生まれ) 月井小学校から鉄原小学校高等科へ、そして、京城工業学校へと進学した。成績は良かったようだが、腕白だった。私に
「カブンスウ」という仇名をつけたのも、この計ちゃんだったと思う。
私は、この「カブンスウ」という仇名を、頭が大きいという意味の韓国語だと思っていた。高学年になって、仮分数だと知り、さすが計ちゃんだと感心した。
しかし、私はこの仮分数の音のひびきがいやだった。仮分数を習うころには、誰 もこの仇名のことを知らなかったと思うが、仮分数の言葉を聞く度に、いやな思
いをした。
それと、計ちゃんは、歌も上手だったようで、兄(守)が出征(昭和12年7 月)の時に、「出征兵士を送る歌」を独唱した。月井小学校で壮行会が行われた
時のことである。その時の「出征兵士を送る歌」は、「征けや、征けや、いざ征けわが子....」で始まる小学唱歌で、後年の軍歌とは別歌である。
正明(昭和4年生まれ)おじさんが亡くなる前に、正八と改名したようだった。
戸籍名までは変えていないと思うが、正入のほうが生命判断上良かったらしい。 どっちにしても「マーちゃん」と呼び、同じ年だったので、一番の遊び友達だった。二人でいたずらしては、おじさんに怒鳴られ、逃げ回ったものだ。
貞光さん
おじさん利助((写真49、明治32年頃の生まれ)成業社月井里出張所長 で、富桝さんの後任だった。奥さんと子供が6人いた。
昭和42年ごろ、富輔さんと兄(守)が唐津にいた貞光さんのお宅を訪ねた。
その時は、奥さんと子供3人だった。その後のことは知らない。
沢井
トミ(大正15年3月生まれ)滋賀県出身、万木さんの親戚。
清水さん
おじさん善蔵(写真50、明治44年頃の生まれ、滋賀県で没) 万木さんの奥さんの弟で、○運送店に勤めていた。均整のとれた体格で、いかにも軍人上がりという感じだった。在郷軍人や青年団に、銃剣術を教えていた。
おばさん(写真51大正3年頃の生まれ、滋賀県で没)母が亡くなった時、 (昭和13年)よく手伝ってくれ、優しい感じだった。
善久(写真52、昭和7年頃の生まれ)
芳枝(昭和14年生まれ)
白井さん
おじさん(写真53、明治25年頃の生まれ)岐阜県出身、学校組合管理者、 今のPTA会長のようで、祝祭日の日には、式場で勅語が入った箱を捧げて、先生に渡していた。仕事は何をしていたか知らないが、よく和服を着ていた。庭に盆栽が並べてあったような気がする。
おばさん(写真54、明治30年頃の生まれ) 未生流の生け花を教えていた。
姉(朝子)も習いに通ったそうだ。
智恵子(写真55、大正7年頃の生まれ)
菅原さん
子供はなく、天理教信者だったそうだ。
菅原さん
光雄(大正15年生まれ)昭和17年から19年まで月井里駅に勤務したとの ことだ。当時は独身で、鉄道官舎にいて、久保田さんの隣にあった冷麺屋でよく食事をしたらしい。お父さんが成業社水原農場長。
馬場康治君が、京城商業の制服で帰省していたので懐かしく、馬場さんの家に
はよく遊びに行っていたそうだ。
神奈川県湯河原町のホテル支配人。
関口さん
(大正15年頃の生まれ)菅原光雄さんと同年配で、成業社月井里出張所に勤めていたらしい。
高野さん
おじさん 源吉(写真102、明治38年頃の生まれ)久保先生の思い出に書いてある高野農場は、この人の経営ではなかったかと思う。野球も好きだったとのことで、私のいう武○さん(月井里ティームの一塁手兼捕手)は、この人のようだ。新潟県の出身とのことで、子供はいなかったらしい。
おばさん(写真56、明治43年頃の生まれ)
高畠先生
先生 月城小学校の初代校長。この学校は、昭和14年頃新設された韓国人の学校だった。富田さんの前の道を鉄原の方に行ったところだったと思う。
喜志子(写真57、昭和3年頃の生まれ)
千昌(写真58、昭和5年頃の生まれ)小柄で走るのが速く、スケートも上手 だった。「チョッキン」とか「ねずみ」とかいう仇名だった。
竹内さん
佐谷里(月井里から一つ北の駅)駅長。
姉(写真59、昭和5年頃の生まれ)は病身で、胴ギブスをはめ、体操はしな かった。亡くなったそうだ。
タカ(写真60、昭和7年頃の生まれ)姉さんとは違って体格もよく、元気も よかった。
田原さん
院里に近い所で果樹園経営。昭和8年頃綿貫さんの前(川に近い方)に引っ越 してきた。そして、昭和13年頃九州の大牟田に引揚げた。
与曽吉(大正10年生まれ) 朝子(大正12年生まれ)富田二郎さんと同級生。
君子(大正14年生まれ) 沢井トミさんと同級生。
館谷先生
初代(?)月井小学校長(昭和2年~4年)
津田さん
文子(大正15年生頃の生まれ)土屋さんと親戚だったらしい。
土屋さん
1年間位月井里にいて、昭和9年頃鉄原に転出した。
ノキ (大正11年生まれ、昭和13年鉄原で没)
弟(大正14年頃の生まれ)小林計八郎さんと同級生だったらしい。
富田さん
おじさん保次(写真61、明治19年頃の生まれ、昭和40年没、80歳) 精米所だったと思う。耳が遠かったのか、補聴器をつけていた。碁が強かったらしく、私の父も、母の死後(昭和13年)おじさんに碁を習っていた。しかし、そばで見ていた私の方が強くなったので、父(当時60歳過ぎ)はやめてしまっ た。今でも時々碁を打っているが、碁歴を聞かれるとこのころのことを思い出す。
おばさんシズ(写真62、明治25年頃の生まれ、昭和26年没)
鈴江(昭和57年没) 別府の小学校・女学校卒。
伊方ミチコ(昭和9年頃の生まれ) 鈴江さんの娘
露子(大正6年頃の生まれ)月井小学校第1回卒業生(昭和4年3月) 私が学校に上がるころは、まだ月井里に学校がなく、別府にいた祖母に預けら
れて、別府の学校に通った。4年生の頃、月井里に学校ができるというので父母 の許に帰ったが、なかなかできず、しばらく鉄原の学校に通った。この学校は、
鉄原の駅から遠くうんざりした。同級生に岩永静江さんがいたと思う。
このお便りから推察すると、月井小学校の創立は、大正15年か昭和2年ということになる。
雪子(大正9年生まれ)
花子(写真63、大正9年生まれ、昭和15年没)京城女子師範卒業後平壌で 教師。
二郎(写真64、大正12年生まれ) 月井里で出生。小学4年から6年生まで
久保先生に習う。米村一雄さんと同級生。昭和18年9月京城師範卒業後、春川 緑が丘国民学校教師、昭和20年4月海軍潜水学校入校。復員後別府市で教師、 昭和57年3月に退職し、別府市教育委員会嘱託。
私はこの二郎さんが、京城師範在学中に柔道2段で、なにかの大会で入賞した という写真入りの新聞記事を見た覚えがある。
富田英夫(大正14年頃の生まれ)二郎さんの従弟。昭和22年ハルピンで復員。
久保田丈夫さんは、私(富田英夫)が京城にいた時、私の家に下宿していた。 亡くなったということだ。
伊方千鶴子(写真65、昭和2年生まれ) 昭和15年月井小学校卒業、鉄原高 女卒業後海州へ転出、昭和22年引き揚げ。富田二郎さん達の従妹。
昭和14年頃の学芸会で、膨張の実験を披露した。ピンポン球位の鉄球を鉄の輪に通し、次に、その鉄球を熱して同じことを繰り返したが通らなかった。膨張したことが証明された。私はなるほどと感心したものだった。
千鶴子さんは米村辰子さんと同級生で、大の仲良しだったそうである。辰子さんと連絡が取れるようになったことは、本当に嬉しいとの便りがあった。
私は、昭和31年に千鶴子さんと大村市で会った。ご主人が私と同じ職場の先輩だった。この「月井里」を思い立ったのも、月井里の人でただ一人連絡が取れていた千鶴子さんをあてにして始めたのだった。
富桝さん
おじさん吉三郎(写真67、明治26年頃の生まれ)佐賀師範卒。大正2年
水原農業試験場勤務、大正5年慶南晋州農業試験場勤務、大正8年忠南道庁農業
技手、天安郡、礼山郡に勤務、大正11年黄海道技手、安岳郡、延白郡に勤務、昭和7年殖産 月から慶南咸安農場長、昌原農場長、黄海道延安農場長、甕津郡鬼頭農場長、本 社(京城殖産銀行)勤務。終戦により引き揚げ、当時55歳。
富桝さんから送られた月井小学校の運動会の写真に、次のようなことが書いて
ありました。撮影当時に書かれたもの(原文のまま)です。
昭和8年9月10日、秋日和ノ御天気デ暑カラズ寒カラズノ御彼岸前デアリマス。生徒ハ皆デ1年生カラ6年生マデ25名デス。1、2年生ノ子供ノ為ニハ個性ノ教育ガ良ク行キ届イテ皆優等生デアリマス。先生が二人デ周到に手ラトリ、 読ミ書キヨサセラレマス。ソノ代リニ学校組合費ガ弐円、授業料ヲ50銭出シテ オリマス。
おばさん フェ(没)
秀子(昭和3年生まれ、昭和12年没、唐津市)
正子(昭和5年生まれ、海州)
京子(昭和8年生まれ、月井里、(写真68)
中川さん
昭和11年頃、一度鉄原に転出した。
テル(大正9年頃の生まれ、テッちゃん)
タカ(大正11年頃の生まれ、ターちゃん)
ノブ(大正13年頃の生まれ、ノツちゃん)元山高女に進んだらしい。
サダ(写真69、昭和3年生まれ、サーちゃん) 北川の栄ちゃんと同じように 小学校6年の時に病気をして留年し、私と同級になった。背が高く、成績も良く、
特に図画と習字は抜群だった。鉄原高女に進んだ。
中西さん
おじさん(写真103) 保線区長
男児(写真70、昭和9年頃の生まれ)
中原さん、警察官 中森さん
おじさん(写真71、明治30年頃の生まれ) 本、文房具店、富田さんの家の向かい側だったと思う。私は当時「小学○年生」というのを購読していた。この本の発売日になると、何はさておいて、中森さんの店に走って行った。たまには
本が着いていないこともあった。すると、おじさんにせがんで、一緒に駅まで取りに行ってもらった。駅で本の包を受け取ってもらい、私達2・3人でこの包を 店まで運んだ。そして、おじさんが包を開けるのをわくわくして見守っていた。
付録が楽しみだったのである。
永岡先生
先生(明治40年頃の生まれ) 月井小学校長(昭和16、17年)小柄な先生 で、習字と剣道が得意だった。月井小学校に5組かの剣道具をそろえ、4、5、 6年生の男子に教えた。北川のおじさんも時々顔を出し、審判などをした。 ま た、北川、中川、私の三人のために、中学受験補習授業を毎晩8時ごろまでして もらった。あんなに勉強したことは後にも先にもなく、なつかしい思い出の一つ だ。
奥さん、目が大きい人だった。男女の双生児(昭和15年頃の生まれ)がいた。
姉(朝子)も永岡先生を知っているらしく、色白で美人だったと話していた。
西村さん
おじさん(明治35年頃の生まれ) 月井里駅長(昭和13、14年)昭和14 年頃、おばさんが急に亡くなった。歯の炎症とかいうことだった。そして間もな く、どこかへ転勤した。
真知子(昭和4年生まれ)私と同級生、小学3、4年生の間月井里にいたと思
う。お母さんに似た子で、ほっそりしていた。
西村さん
私の両親達と一緒に、大正15年に月井里に移住した農家。長男貞雄(明治4 0年頃の生まれ)、長女シズ(明治44年頃の生まれ、現在栃木県在住)次男春雄(大正3年頃の生まれ)がいた。
昭和10年頃、おじさんが亡くなり、一家は郷里の大村市に引き揚げた。その 後おばさんと貞雄さんが亡くなった。シズさんは京城で憲兵曹長と結婚した。春
雄さんは国鉄を定年退職し、諫早市に住んでいる。
沼田さん
おじさん(明治35年頃の生まれ)水利組合長だったと思う。昭和11年ごろ、 転勤して月井里に来たようだ。家は、橋を渡って於雲小学校に行く道の左にあっ た。洋館風だった。
おばさん(写真72、明治40年ごろの生まれ)
栄(写真73、昭和5年生まれ)色白で大柄だった。
浩二(写真74、昭和7年ごろの生まれ)おじさんに似て、がっちりしていた。 いかにも次男坊というタイプだった。
馬場さん
月井里から3キロほど離れた於雲小学校の方に家があったので、おじさんもおばさんも知らない。広い田畑を持っていたらしい。久保先生の思い出に、馬場農場とあるのは、この馬場さんのことかもしれない。
美智子(大正10年ごろの生まれ) 京城女子実業を卒業したらしい。
駿二 (大正13年ごろの生まれ) 春川師範に進んだと思う。
辰治(昭和3年生まれ、写真75)駿二さんはおっとりしていたが、辰ちゃん
はけんか大将だった。走るのも速かった。京城商業に進んだとのこと、菅原光雄 さんの後輩になるらしい。懐かしく、よく馬場さんの家に遊びに行ったそうだ。 電話の度に馬場さんの消息を尋ねた。
猛夫(写真76、昭和5年生まれ)がっちりしていた。
女児(写真77、昭和7年ごろの生まれ)写真を見て思い出した。よく先生が、 小さい子でも遠くから毎日通っているのだから・・・云々と、この子のことを引合いに出し、遅刻した生徒をおこっていた。
女児(写真78、昭和10年頃の生まれ)この子は知らない。
福田先生(写真79)
月井小学校最後の校長(昭和18~20年)のようだ。
福原さん
保線区長で鉄道官舎にいて、男児(大正5、6年生まれ)がいた。兄(守)は、 昭和3年頃、この家で、さきいかをつまみに飲まされ、吐いた。それ以来、いか アレルギーが何年か続いたそうだ。日本海側のソウインという所に転勤したとい
うことだ。
松岡 (兄)さん
おじさん 佐賀県小城郡出身
警察官を退職後、昭和13年頃郷里に引き揚げた。
吉江(写真81、大正10年頃の生まれ)一人娘だったらしい。
松岡(弟)さん。
おじさん(明治40年頃の生まれ) 兄さんの呼び寄せで、月井里に来たらしい。洋服屋さんで、片足が悪かった。
子供がいなかったせいか子供が好きで、子供達がよくおじさんにまつわりついて いた。私も仕事場をのぞき込んで、おばさんがいないと、おじさんに声をかけた。
おばさん(写真80)おじさんより年上で、すらりとした美人だったらしい。年末の餅つきは、この松岡さんと一緒だった。また、父が黄海道に移ってから
は、姉(朝子)と私でこの家に2、3ヶ月間間借りをした。昭和17年の秋である。
万木さん
おじさん喜太郎(写真82、明治22年頃の生まれ、滋賀県で没)
○(マルボシ)運送店主、鉄道貨物を取り扱っていたようだ。消防団長、骨太
で長身だった 。月井里の日本人の中では一番の資産家だったらしく、事務室には 8球とかの大きな電蓄が置いてあった。
また、昭和16年頃、北川、白井さん達と共同で、高野豆腐の製造を始めようとしたようだ 。どこか山のような所で、ぶどう棚のようなものを作って、すのこを敷き、豆腐が並べてあった。夜に凍らして、日中天日で溶かして乾燥させるということだった。高野豆腐とはこんなにして作るのかと驚いた。しかし、おじさん達の話でも、私が見た目でもかんばしい出来栄えではなかった。これは試作品の段階で、その後のことは知らない。高知での月井里会(昭和62年)で、北川 の和ちゃんに会ったときの話では、成功したとのことだった。
おばさん ハツ(写真83、明治32年頃の生まれ)滋賀県在住。
喜代子(写真84、大正10年頃の生まれ、昭和22年没) 京都の女学校に進学したらしい。昭和16年3月、清さんと結婚。
清(写真85、86 大正5年頃の生まれ) 昭和10年4月 鉄原小学校教師、16年3月万木家と養子縁組、喜代子さんと結婚。16年4月 鉄原南国民学校へ転任、19年4月臨時召集で竜山部隊に入隊、19年11月召集解除。平康南面芝岩国民学校長、佳谷国民学校長
兼任、引き揚げ後も教師。定年後名古屋市緑農協勤務、60年5月退職。
光弘先生
月井小学校長(昭和7~8年)
宮武さん
勝利(大正10年生まれ) 月井小学校で、姉(朝子)と同級生。1年から6年まで一緒だったらしい。戦後長崎の造船所に勤務していたとのことだ。
山岡さん
幸也(大正13年 鉄原生まれ) 内田さんの家に預けられて月井小学校に入学した。内田さんの消息を知り、涙
が出るほど嬉しかった。また、同級生の小沼フサさんから電話があった時(昭和
62年6月)は、とっさに口も利けないほどだった。そして、同じ同級生の馬場
駿二君の消息が知りたいと語り合った。
山田さん
おじさん(写真87、明治33年頃の生まれ) 月井里駅長(昭和11~12年)西村駅長の前任者のようだ。
おばさん(写真88、明治38年頃の生まれ) 照典(写真89、昭和2年頃の生まれ) 鶴子(写真90、昭和4年頃の生まれ)
みわ子(写真91、昭和6年頃の生まれ)
米村さん
おじさん(写真92、明治28年頃の生まれ、没) 熊本県出身 果樹園経営、昭和12年頃月井里を転出。 おばさん ミサオ(写真93、明治36年頃の生まれ) 一雄さんと同居。 耳が遠くなり、昔語りもあまり通じなくなられたそうだが、富田二郎さんが訪れた時(昭和60年夏)には、本当に喜ばれたらしい。また、月井里の国防婦人 会の写真を見て、内田さんのおばさんや佐代子さんのことは、はっきりと憶えて おられたとのことだ。
一雄(写真94、大正12年生まれ)元山中学卒業、九州電力大村発電所、同 西日本技術開発火力部等に勤務、昭和59年退職。富田二郎さんと月井小学校で
同級生。
辰子(昭和3年早生まれ) 米村さんの家では、辰子さんしか記憶にない。昭和12年頃、私に将棋を教え てくれた。辰子さんが将棋に勝って帰ろうとすると「もう1回」と泣きながらせ
がんだものだ。家は私の家の東北隣にあった。玄関から出入りするには、韓国人 の家を2、3軒回らねばならなかったが、私達は垣根から出入りしていた。しか し、米村さんがこの家にいた期間は、あまり長くなかったようだ。
おじさんも兄さん(一雄)も将棋を指していたので、小さい時から知っていた
とのことだ。
姉(朝子)は、米村さんの家にわざわざお風呂を貰いに行き、片方の下駄をす りかえて、翌朝返しに行ったそうだ。スリルを味合うことだったらしい。
和田先生
先生涼太郎(島根県出身、昭和12年11月城大付属病院で没) 於雲小学校長 夫人キワ(昭和53年3月没)
剛(大正14年生まれ) 先生の死後昭和12年12月、家族と共に島根県隠岐に引き揚げる。61年3 月、教師退職。
敦子(昭和3年3月生まれ)松江市在住 陽二(昭和7年1月生まれ) 62年1月、富士銀行退職、大阪市在住。
(剛さんからの便り) 妹を自転車に乗せて月井小学校に通っていた。天気が悪い日には、加藤先生の
家に泊めてもらった。先生は、島根県淀江町の出身だったと思う。
久保田さんのことも憶えている。父が入院中は母が付き添っていたので、久保
田さんの家にお世話になり、学校に通った。
また、こんなこともあった。月井里の町はずれで、学校に行く途中で馬に蹴られて口を切り、鉄原の病院で治療した。今でもその時の傷が口の裏側に残っている。
(私の記憶) 於雲小学校は、月井里から4キロほど離れた東の方にあった。韓国人の学校で、 2、3百人の生徒がいた。面事務所もこの付近にあったような気がする。於雲面の中心地だったのかもしれない。遠足で登った於雲富士もこの付近だった。富士
と言っても、小学1、2年生でも楽に登れる小さな山だった。馬場さんの家も、
この付近ではなかったかと思う。
和田先生以後の校長は、韓国人だった。そのうちの一人に、星山先生という校長がいた。姉(朝子)が、この学校の教員をしていた昭和16年頃である。馬場
美知江さんも、この学校で教員をしたらしい。昭和14、5年のようだ。
剛さんは、小林の計ちゃん・沢井トミさんと同級生で級長だった(昭和12年 頃)。計ちゃんより体が大きく、名に似ず優しかった。妹の面倒をよくみていた。
綿貫さん
おじさん盛之助(写真95、明治25年頃の生まれ) 雑貨商。
おばさん(写真96、明治30年頃の生まれ)
敏雄(大正6年生まれ) 京城の製薬会社勤務。
三江(大正8年生まれ)昭和15年頃結婚して渡満。
文子(大正10年生まれ、昭和10年頃没)
月井公立尋常小学校・月井公立国民学校
昭和2年頃の創立で、終戦まで存立した。校長は、舘谷、光弘、久保、加藤、 牛見、永岡、福田先生だった。在籍生徒数は、20年間で70名前後と思われる。 私が在籍した頃(昭和11年から17年)は、全校生徒が20数名だった。2、 3年生頃は、同級生が6人もいて大賑わいだったが、5年生の時は一人になってしまった。
何しろ先生が一人なので、高学年になると、午前中はほとんど自習だった。それで、自然に自分で勉強する習慣がついた。そのせいかどうかは知らないが、他の学校に比べてレベルは低くなかった。ただ、体操と唱歌は低かった。
運動会は、家族ぐるみで親達の出番が多かった。20数名の生徒では、とても 午後3時頃まで続けられなかったのだろう。百米競争などは、1、2、3年生と、 14、5、6年生の男女4組に分け、出発線を1年違いで1米ほどずらして走った。
月井里野球チーム
久保田さんが中心だった。ユニホームもまちまちだったが、鉄原で行われてい た年1・2回の定期戦には出場していた。金剛山電鉄とか鉄原郡庁チームが強く、
わが月井里チームは最下位のようだったが、なかなか熱心だった。久保田さんの 家の前の広場で練習をしていた。この広場には、木製ながらバックネットもあっ た。
昭和15年かに、東京城(清涼里)に遠征して、4対4で引き分けたことがあ る。私達子供も汽車に乗って応援に行った。この頃がわが月井里チームの全盛時
代ではなかったかと思う。
北川の和ちゃんの話では、この遠征試合は清涼里に移転していた小沼さんが世
話をしたのだそうだ。
監 督 久保田さん当時50歳ぐらいで、プレーはしなかった。
投手 月井里駅の助役(大正4年頃の生まれ)小柄だったがいい投手で、この 1 人が月井里に来てから、チームが強くなった。
捕手 韓国人(大正2年頃の生まれ)「やぶ医者」という仇名がついていた。
久保田さんの隣かに医院があったようだが、そこの人だと思う。内股だったが走るのが速く、セーフティーバントをすると、たいがいセーフになった。私達は球より速いとはやしたてたものだ。当時新婚だったのか、高野 さんがよくからかっていた。
一塁手高野さん(明治38年頃の生まれ、武○さんと思っていたが、どうも高野さんのようだ)主将格で、先・後攻を決めるジャンケンはこの人がしていた。小肥りで体格がよく、4番バッターだった。捕手もした。
外野手 韓国人(大正3年頃の生まれ)「万木の金さん」と呼んでいた。○運送店に勤めていたのだと思う。
清涼里との試合の日に、どういうわけかこの人が来なかった。久保田の
おじさんは「仕方がないから君が出てくれ」と私を指名した。私は胸がどきどきした。しかし、試合が始まる頃この金さんが駆け付けてきて、間に合い、私は出る幕がなかった。何となく残念な気もした。
鉄原にいた方の消息(昭和60年11月現在)
鉄原中学同窓会会長田代茂(国税庁調査部長) 幹事杉原親(昭和6 年頃の生まれ)
鉄原中学校長
樋口先生健在、松本先生(数学)没、大津先生(英語) 没、田辺先生(教練)没 鉄原高女同窓会鈴蘭会 幹事長谷川朝子(大正14年頃の生まれ) 鉄原小学
鉄原小学校長 神谷六三(明治30年頃の生まれ)夫人 うた(明治33年頃 の生まれ)長男の孝さんと同居。
道立病院長 池沢実埼玉県で池沢医院長。昭和8年に渡韓、10年間鉄原におられたとのこと。私の母が昭和13年に道立病院に胃癌 で入院したことがあるので、この先生に診てもらったのかもしれない。
中野文己
昭和8年から19年まで在鉄原。鉄原四要里にあった木村農場勤務、咸興歩兵 74連隊入隊、ミンダナオ島などを転戦。馬場、万木、綿貫さんを憶えておられるそうだ。
原口郁夫(昭和10年生まれ)
お父さんが鉄原郵便局課長、昭和16年頃全州へ転勤。 小宮山 おじさん(明治25年頃の生まれ)肥料商、江原道道会議員。
鉄原の日本人の中では一番の財産家だったらしく、商工会議所の会頭もしていたようだ。 どういう関係からか、私が鉄原中学に入学する時(昭和17年)に、父に連れられて小宮山さんの家に行き、保証人になってもらった。ブルドッグのような感
じで、偉い人に見えた。
家は鉄原の駅前にあった。三階建てのコンクリート造りのようだった。「寛」
という名を記憶しているが、おじさんなのか、息子さん(大正10年頃の生まれ) だったのかはっきりしない。息子さんは色が白く、おじさんに似てなかった。
このおじさんの弟が、鉄原の町の方で食堂だったか菓子屋さんだった。そこの子供が鉄原中学にいて、私より一級上だったと思う。
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