GHQ/SCAP公衆衛生福祉局(PHW)の週報に見る海外からのヒトの移動
「復員軍人および民間人の流入: 1945年秋以降、数百万規模の日本人が各地域から引き揚げることが見込まれ、政府側の受入能力の脆弱さが指摘された」という点について、当時のGHQ/SCAP公衆衛生福祉局(PHW)の週報には、次のように掘り下げて調査・整理していた。
1. 終戦直後の海外同胞の規模と「数百万規模の流入」の背景
1945年8月の敗戦時、旧日本軍の軍人・軍属、および一般の民間人(海外居留民)を含め、外地(中国、満洲、台湾、朝鮮半島、南太平洋、東南アジアなど)に取り残されていた日本人は、総計で約660万〜680万人(当時の日本国内人口の約1割に匹敵)にのぼっていた。
内訳の目安: 軍人・軍属が約330万人、民間人が約330万人と、ほぼ半数ずつが海外に存在していた。
1945年秋以降の現実: この数百万の群れが、一斉に日本本土へ帰還(復員および引き揚げ)を開始した。GHQのPHW週報(1945年10月〜1946年初頭の記録)においても、この巨大な人的流入が日本社会のインフラに与える衝撃が深刻な脅威として捉えられていた。
2. なぜ政府側の「受入能力が脆弱」と指摘されたのか
GHQの初期週報や当時の行政記録では、日本政府(厚生省、内務省、復員関係部局など)の対応能力が以下のような理由から「著しく脆弱(あるいは機能不全)」であると厳しく批判した。
① 行政組織の縦割り・混乱と情報不足
終戦直後の日本政府は、組織の再編期にあたり流動的であり、厚生省などの中央官庁すら「下1階層(地方自治体や現場)で何が起きているか」「何人の引揚者がどこに向かっているか」の正確な数値や実態を把握できていなかった。初期の週報でも、厚生省が提出するデータが極めて不完全であることが繰り返し指摘している。
② 港湾インフラの破壊と収容・宿泊施設の欠如
海外からの引揚船が到着する指定港(博多、仙崎、舞鶴、浦賀、宇品など)において、受け入れるためのバラック、宿泊所、給水・衛生施設が圧倒的に不足していた。
例えば、朝鮮半島からの主要な帰還口となった博多や仙崎では、適切な収容施設がないまま帰還民が港湾周辺に野積み状態で滞留し、これが衛生悪化や伝染病(発疹チフスや天然痘)の温床なった。
③ 鉄道・輸送網の麻痺と燃料・食糧の枯渇
本土に上陸した人々を故郷へ送るための鉄道網は空襲や燃料不足で深刻なダメージを受けており、輸送力が追いつかなかった。また、日本国内ですら食糧配給が1人あたり日量数百〜千数百カロリーに落ち込んでいた時期であり(週報の栄養調査データより)、爆発的に流入する数百万人分の食糧や日用品を政府が独自に配分する余力は皆無だった。
3. GHQによる「介入」と日本政府への強制措置
日本政府側のこの圧倒的な受入能力の脆弱さと、それに伴う伝染病(発疹チフス等)の国内蔓延の危機に対し、サムス大佐率いるGHQ/PHWは、傍観を許さず以下のような強力な介入を実施した。
旧軍・海軍の物資・施設の接収と転用: 日本政府が十分に動けない中、GHQは旧日本軍・海軍が隠匿・保有していた大量の医療品、被服、食糧を備蓄物資として強制的に接収させ、これを厚生省・内務省を通じて引揚者や都市の難民救済に充てるよう直接指令を出した。
検疫・隔離体制の国家主導化: 受入港(浦賀の久里浜センターなど)における厳格な検疫体制(DDTによるシラミ駆除やワクチン接種)を構築させ、地方任せになっていた防疫体制を中央政府の責任において徹底させた。
公助(公的扶助)システムの構築要求: 民間や旧軍の恩給・特権に頼るのではなく、政府が責任を持って全失業者・引揚者・ needy(要支援者)を救済する総合的な福祉計画(のちの新生活保護制度につながる枠組み)を立案・提出するよう日本政府に迫った。
このように、1945年秋以降の「数百万規模の引揚者の流入」は、敗戦直後の日本政府にとって国家破綻を招きかねない最大の行政的危機であり、その脆弱さを補うためにGHQ/PHWが強烈なイニシアチブを発揮して、医療・防疫・救済のシステムを突貫工事で作り上げざるを得なかった歴史的背景が、当時の記録から明確に浮かび上がってきた。
コメント
コメントを投稿