米国国立公文書館所蔵「GHQ/SCAP(PHW)の週報(1945年10月〜11月期の「Nursing Affairs」に見る外地設立の看護学校
GHQ/SCAP公衆衛生福祉局(PHW)の週報(1945年10月〜11月期の「Nursing Affairs」セクション等の記述)には、占領直後に日本政府(厚生省)からGHQへ提出された、戦前〜戦中における看護要員の類型、学校数、従事者数の公式統計(1945年9月〜10月時点の報告データ)が残されている。これらを基に、1945年8月15日以前の日本における看護婦養成のタイプ別実態を以下に解明したい。
1. 1945年8月15日以前の看護要員・養成施設の全体像(GHQ初期報告データ)
GHQ初期週報の「Nursing Affairs(看護事情)」に記録されている日本政府の報告によると、終戦直後の日本には総計約16万〜18万人の看護・保健関連の有資格者が存在していたとする。その養成システムは、大きくいくつかのタイプに分かれていた。
① 日本赤十字社(日赤)ルート:圧倒的な規模を誇る「従軍看護婦」養成
戦前の日本における看護婦養成の最大かつ最も組織的な基盤は、日本赤十字社でした。
従軍看護婦・救護員の実態: 日赤は全国の支部病院や養成所で体系的な看護教育を行っており、日中戦争から太平洋戦争にかけて、約3万4千人(一説には3万4千名以上とも記録される)もの膨大な数の看護婦が軍へ動員(従軍)され、陸海軍病院や特設病院、病院船などで過酷な医療救護に従事しました。
週報の初期データでも、日赤病院およびその附属養成所(全国の主要都市に展開)は、一般病院とは一線を画す「米国の水準に最も近い組織的看護教育機関」としてGHQ側にも認識されていました。
② 聖路加高等看護学校(現・聖路加国際大学)ルート:近代式看護の例外的な拠点
ガートルード・ホッド金ら米国人宣教師・看護指導者によって築かれた近代式看護教育(ナイチンゲール流)の牙城であり、大学レベルの高等教育とパブリック・ヘルス(公衆衛生看護)の統合を目指した数少ないエリート養成校でした。
ただし、戦時中は軍需や統制の色合いが強まり、施設自体も米軍(占領後)や日本軍に接収・転用されるなど曲折を経ましたが、戦後レフォルメにおける「ゴールドスタンダード」として機能することになります。
③ 一般病院・府省立・町村立の臨床(ベッドサイド)看護婦養成ルート
全国の養成施設数と生徒数(1945年10月報告):
臨床看護婦(Bedside/Clinical Nurses)の養成学校:全国に401校
在籍生徒数:19,011人(または約19,911人)
有資格者(卒業生・既存の看護婦):約90,000〜93,270人
戦時下の変質と質の低下: 戦局の悪化に伴い、これら一般病院等の養成基準は急速に低下していました。入学年齢の引き下げ(18歳未満、数え年16歳などへの低年齢化)、修業年限の短縮(本来の3年から1.5年〜2年への短縮)、さらには人員不足を補うための見習い的な性格が強まり、GHQは「卒業生の判断力が非常に若く未熟である」と厳しく批判しています。
④ 保健婦・助産婦・特別看護(結核など)の専門ルート
保健婦(Public Health Nurse):
有資格者数:約13,071人、在籍生徒数:7,745人、養成所:106校。
保健所活動や産業保健などで組織されていましたが、戦時体制下で行政の末端に組み込まれていました。
助産婦(Midwives):
有資格者数:約60,000人(あるいは3.6万人〜の報告あり)、生徒数:3,695人、養成所:68校。
結核看護婦(Tuberculosis Nurses):
1941年以降に新設された特殊カテゴリー。結核蔓延(死亡率225対10万人)に対応するため、政府管轄の養成所で6ヶ月の特殊プログラムが組まれていました。
2. 「外地」に設立された看護学校・医療機関の状況
先生ご指摘の「外地」における展開について、GHQ週報や当時の行政動向を俯瞰すると、満洲、中国(大陸)、台湾、朝鮮半島などにおいて、内地と同様の「日赤病院の支部」や「朝鮮総督府・台湾総督府立の医学講習所・病院附属看護婦養成所」が多数設置されていました。
朝鮮半島および台湾:
京城帝国大学附属医院やソウル(京城)の各種赤十字病院、道立病院等に看護婦・助産婦の養成所が付属していました。例えば、のちに戦後GHQ/XXIV Corps(在鮮米軍司令部)の看護担当者(キャプテン・ルスカ等)が接収・再編することになるソウル大学(旧京城帝大系)の医学・看護教育システムには、日本人によって敷かれた旧体制の残滓と、韓国人スタッフによる自主化の要求が入り混じっていました。
外地における実態と引き揚げへの影響:
外地に設立されたこれら多数の病院・養成所で学んだり従事したりしていた日本人看護婦、および現地採用の医療従事者たちは、1945年8月以降、前述の「数百万規模の引揚者」の波に呑み込まれることになりました。外地の赤十字病院や陸海軍病院で従軍・勤務していた看護婦たちは、過酷な引き揚げの過程で患者のケアに奔走し、その多くが混乱の中で本土へと帰還または抑留を経験しました。
3. 歴史的考察:なぜGHQは日本の旧看護体制を「ゼロベース」で改革せざるを得なかったか
この1945年8月15日以前の養成実態データを俯瞰すると、戦前の日本は「数(有資格者約16万人、臨床看護婦9万人超)」の規模こそ一見して整っているように見えながら、その実態は「日赤のエリート層」と「戦時下で粗製乱造された一般病院の短縮コース(1.5年〜2年、低年齢化)」との間で二極化・劣化が激しかったことが浮き彫りになるす。
この構造的脆弱さこそが、戦後直ぐにバーニス・オルト(Bernice L. Anderson / オルト少佐)らが乗り込んできた際、「日本の看護婦はベッドサイドの臨床判断力が欠けている」「教育カリキュラムと身分制度を近代的な独立職業(Professional Nurse)として一新しなければならない」と断じ、保助婦法(1948年)の制定と国家試験・3年制教育の導入へと突き進む、強力な原動力となった・
コメント
コメントを投稿