「『敗戦国ニッポン』に帰りたくなかった日本人」
<注釈:本稿の初出は、ソウル大学でのセミナーであった。口頭発表した後、韓国人アメリカ移民2世の研究者から開口一番、「光復後、韓国に一人の日本人も残ってきてほしくなかったし、将来とも来ても欲しくない」とコメントされた。私にとって、思い出深い発表となった。特記して、そのepisodeを紹介したい。 **************************** 「『敗戦国ニッポン』に帰りたくなかった日本人」 一 昭和20年(1945)8月15日正午、昭和天皇による終戦の詔勅は、帝国日本の全地域に放送された。難解な語句が続く言葉もそうであったが、それ以上にラジオの受信状態が悪かったために雑音が多すぎて、彼ら「帝国臣民」は玉音放送の聴取が困難を極めたという。笑い話となろうが、 「難しい言葉遣いと音声のひずみや雑音のために内容はほとんど分からなかった(ので)、本土決戦の覚悟を促す内容だと思った」( 平和祈念事業特別基金 編『海外引揚者が語り継ぐ労苦』第12巻、平成14年、327頁) の回想がある。 日本列島のみならず、北は樺太、中国東北部に建国された満州・中国大陸全域、そして朝鮮半島、台湾、さらには南洋庁が位置したパラオ諸島をはじめとする南洋諸島などでも、同一時刻に「皇国臣民」たちに対して、独特の抑揚を持つ天皇の肉声が送り届けられた。信憑性を疑いつつも、すぐに敗戦の報を受け入れた「帝国臣民」も存在した一方で、帝国日本の周辺部では必ずそうではなかったことにも、我々は留意すべきである。例えば、約1万5千名に上るパラオの帝国臣民たち(パラオ人、朝鮮人、日本人など)の大多数は1945年8月15日をバベルダオブ島(いわゆるパラオ本島)で迎えた。彼らは米軍の猛撃を逃れて、島内の密林を逃げ回っていたために、玉音放送を聞くための電気さえもないままの悲惨な生活を送っていた。ましてやラジオがあったはずはない。同年8月末に、多くの帝国日本人は米軍機から散布された降伏を呼びかけるビラによって、初めて敗戦を知ったという。 満州においても同様に、約150万名に達する一般人たちの多くは、玉音放送を耳にする精神的、時間的余裕などは全くなかった。1945年8月9日にソ連が日ソ中立条約の一方的に破棄したことと、「一億玉砕」な...